なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

大統領選挙とアメリカと人種と苦しみ

ものすごい更新頻度やけど、まだまだ書きたい。

選挙の日、24時前まで図書館で勉強していた。かなり早い時間から、周りには人がいなくなっていった。普段ならまだ何人も座ってるのが見える時間帯。開票結果を中継テレビで見るパーティがキャンパスのそこら中で展開していて、誰にとっても勉強なんかしてる場合じゃなかったんやろう。僕も勉強しながら、フェイスブックでかなり頻繁にライブ映像を確認する。22時か23時頃から、雲行きが怪しくなって来た。24時前、図書館を出る。ほんの1人か2人としかすれ違わへん。ずらっと並んだ自習室の机には、見える限り一人も座ってない。初めて見る光景。図書館を出て、自転車の鍵を外すあたりまで、まっすぐ家に帰るつもりでいた。疲れてるし、そもそもまだ勉強が終わってへん。鍵を外しながら、やっぱり人類学科の観戦会に顔を出して見るべきな気がしてくる。大統領選はアメリカ滞在中に多くても2回しか経験できひんやろうし、そもそもいまの雲行きが現実のものになるなら、一生に一回の事件がいま起きてることになる。

学科に着いてみると、MacノートでSNSを見ながら困惑して罵声を発する学生と、静かに憤る学生と、黙ってスクリーンを見つめる学生が、合計10人くらい。空のピザの箱と、半分くらい空いたワインやウィスキーのボトルと、明日の授業の課題図書。学生が飼ってる犬が走り回る。1時過ぎまでいたけど、僕はほとんど何も言わない。周りの人が怒り、議論し、ささやき合うのを聞いてる。僕が到着してからは、集計に時間がかかってる5州の結果が出そろわず、進展がない。ひっそり佇んだ後、ひっそり去って帰宅した。家で勉強を再開して暫くしたら、結果が出た。フェイスブックを開いたら、ちょうどトランプがスピーチを始める瞬間やって、ライブでスピーチを見る。日本の人と少しLINEでやり取りする。勉強は全然思い通りに間に合わず、諦めて寝た。4時くらい。眠い。

翌日は少し寝坊してから、家を出る。珍しく雨が降ってる。学科の建物に向かって、発表の打ち合わせのために同級生と会う。ヒスパニック系の、心が熱くて優しい人。建物の入り口近くにあるソファで打ち合わせてると、自然といろんな人が前を通る。マイノリティ(クルド)出身のトルコ人。昨晩から一番声高にトランプを弾劾し、選挙結果に悲鳴の声をあげてる。発表パートナーのところに来て、溢れ出るように、選挙結果を悲しみあう弔いの会話をする。ハグをする。涙ぐむ。僕は横で静かにそれを見ている。無限に溢れ出てくる感情を押しとどめるべく、発表パートナーが会話をコントロールして、発表の打ち合わせに戻る。アングロサクソン系の教員が前を通る。まるで学科の人が事故で亡くなったかのような、重い深刻な面持ちで、近づいてくる。昨晩講堂で集まって見ていたこと、心の底から驚いたことなどを発表パートナーとの間で互いに話す。お通夜の声のトーンそのもの。打ち合わせをしていると知って、去っていく。

授業に行く。人が揃い次第、先生がまず口を開いたが、当然選挙のことをまず触れる。触れたかと思ったら、何人かの特に強い思いを持ってる学生が、そこに何重にも乗っかってくる。自然と会話はコントールを失う。なぜこの結果になったか、今後どういう風になって行くかについて、冷静な発言、熱を帯びた発言が重なり合う。10人ほどのクラスのうち、5人程度が喋り、後の5人程度は喋らない。これは普段の授業のディスカッションのときと同じ。選挙についての議論がそのまま1時間続く。僕は何もいわない。議論が続く中で、先生の様子を観察するが、議論を収束に向かわせるタイミングがあるときにも先生は黙って聞いてる。自分から発言して議論を発展させることすらある。今回の発表は学期の中でもとりわけややこしいやつで、仕方なくこの日までに50時間か60時間くらいかけて本を読んで準備して来た。他の授業も仕方なく犠牲にした。3時間弱の授業の時間が延々と削られて行くことに、当然のことと思いつつも、複雑な気持ちがする。

目の前のみんなほどにはアメリカ政治・文化・社会に詳しくないし、深い思い入れもない。国際情勢の一つの(とはいえ重要な)出来事としてしか見れない。と同時に、この国に来て、大学の勉強という制度の面、学問分野を修めて行くという努力の面、ユニークなコミュニケーションの中で生きて行くという文化の面、全ての面において難しさを感じ、悩んで、工夫して失敗して成功しているそのプロセスの真っ只中にいる。その一つの象徴的な出来事として、この大変な発表の準備がある。頭ではその深刻さをよく分かってるつもりのこの歴史的事件と、精神の崩壊のリスクすら現実的なものとしてあり得たこの個人的で生々しい苦労とが、今この瞬間の中に互いを受け入れられなくてせめぎあってる。発表は、準備のおかげでうまく行き、「こんな大変な日に、一体どうやってこんないい発表をできたのか?」と拍手を浴びる。この複雑な心境は誰にも説明できない。自分が抱えてるこの生々しい苦労は、誰にも説明できない。まして、この歴史的瞬間の重要性を軽視するように見られてしまっては、危険すぎる。誰にも迂闊に説明できない。

その日から、人類学科の学生の間でメールがやりとりされ始める。「アメリカ」を失ったことへの悲しみと不信。想いを共有して、ともに時間を過ごし、互いを癒しあうこと。連帯すること。乗り越えること。こんな語彙が無数に飛び交うなんて、想像すらできひんかった。完全なる悪を目の前にした善良なる市民たちの声。でもその悪は、この国のマジョリティが昨日という日、家を出て、投票所まで行って、自分の名前を申告して、人差し指でその意志を選択し表明した結果や。その悪は、自分たち自身の中にある。自分たちの中にある悪と、それを憎み、乗り越えようとする、か弱く善良な連帯する市民たち。この断絶は、一体なんなんや。

もちろん周知のとおり、仕事を奪われたと感じている中流以下の白人労働者が、経済的動機を投票に反映させて、あるいは経済的動機から人種差別的発想を経て投票に至って、トランプ支持に回ってることは事実やろう。この大学みたいなコミュニティは、そういう人たちとは基本的に接触しない世界。トランプ支持が国全体ではマジョリティであろうと、たとえ仮に8割であろうと9割であろうと、このコミュニティみたいな場所においては、トランプを純粋なる悪やと(疑問の余地なく)感じ考える雰囲気は常に可能やろう。実際に今の状態がそうなってる。このコミュニティがトランプを弾劾するとき、自分たちの視界の外には彼を支持した生身の人間がいっぱいいて、その一人一人がそれぞれで生々しい理由と動機をもって投票したんやってことについては、このコミュニティはどういう風に理解してるんやろうか。まずそこに信じがたいほどの断絶がある。

でも中流以下の経済=人種的動機からトランプ支持にまわった人たちの票だけでは、従来のメディア予想通りクリントンの当選になったはず。2日経った今メディアで流れてる解釈によると、要するに選挙の決定打になったのは、中流以上の豊かな白人がトランプに投票したことらしい。白人が非白人を排斥する人種差別が、得票数になって表出した。これはCivil War(人種を巡って国が分断した歴史)の再来なんや。「アメリカを失った」と弔い悲しむこの人たちは、きっと、このことを直感的に理解したに違いない。しかもその排斥のエートスは、投票の瞬間まで沈黙の中に眠ってた。横に座ってる白人の友達は、こっそりトランプに投票したかもしらん。人種差別は、自分と肩を並べて存在してる。もしかしたら自分の中にも存在してる。きっと存在してるに違いない。何も信じられへんくなる。

「人種問題」は、日本で学校で勉強してぼんやり理解していたつもりやったけど、それとは決定的に異なる深みと困難さを伴う問題なんやってことを、こっちに来てだんだんわかるようになって来た。日本人は、アメリカに来たら誰でも同じプロセスを経験するんちゃうやろうか。アメリカは本当の意味で平等の国なんではない。極端に言ってしまえば、アメリカは人種差別の国や。人種差別があるから常に平等を志向するし、常に平等の国として表象する。実際生活してても、自分に向けられた視線が「これは人種差別なんか?」と感じることはある。人種差別がほんまに無くなったアメリカは、もはや平等を志向することも標榜することもないやろう。それと同時に、差別的な人種概念は、常に無限に作られ続けている。この国の人は、必要のないところでなぜか人種に結びつけて思考するし、人種概念には科学的根拠がないと知りながらそれを使用し続ける。人種概念を維持し続けることによって、アメリカは、平等の国であり続けようとしている。

平等の国でありたいという善良な市民たちの希望は、その中に含んでる矛盾した人種差別のことをよく分かってる。その矛盾は敵であると同時に、必要な内在的構造でもある。その矛盾は皮肉にも、自分たちを一つのものとして硬く結びつけてくれる、信念でもある。だからこそ、いま得票数という目に見える形でその差別的構造を暴露された時、この平等への希求を力づくで放棄させられたかのような、無力感、脱力感、絶望感を感じたんやろう。こんなとき、人間は、身を寄せ合う仲間を探し、想いを垂れ流して共感しあい、支え合って連帯することによってしか、乗り越えていくことができひん。

アメリカの断絶は、単に自由経済の勝者と敗者の断絶というだけじゃないんやろう。その社会を成り立たせている基本原理のそのさらに内側に、根本的な断絶が眠ってる。今回の選挙は不幸にも、その深い深い断絶が奇跡的な形で政治的事実として表面に浮かび上がって来てしまった。この国の人らは、それを乗り越える術をまだあんまり知らんように見える。

僕もつらい。辛さを乗り越えようとしてるアメリカ人たちを目の前にして、僕の理性、感情、知識、歴史、繋がり、弱さ、希望、そういったものどれ一つとして、アメリカを作り上げてる事実や原理と絡まりあってるものがない。目の前のアメリカ人に共感したくても、共感のしようがない。目の前に苦しんでる人たちがいて、その人たちに共感したくて、でも共感するすべがなくて、そのくせに、なんで共感できひんのか、何を共有できてないのかがありありとと見えてしまう。一方で目の前の人たちにとっては当然の絶望感やから、こっちがなんで共感できひんのかを説明しようとしても通じひん。通じひんだけならいいけど、トランプ支持やと誤解されたら大変やから、中途半端に伝えようと試みることもできひん。結局、コミュニケーションのしようがない。黙って、見守るしかない。これはいろんな意味で辛い。僕自身が、この中で生きていくことについての無力感を感じる。

中二病についてのノート

とはいえこの中二病についてすごいと思うのは、状況がかなりオープンなことです。毎週書かされる300ワードの「ポジションペーパー」では、僕はいつもこの「モノの人類学」をぼろくそに(とはいえ一応アカデミックな雰囲気のベールの中で)こき下ろしてるんですが、ほかの学生も僕ほどではないとはいえそれぞれでそれなりに批判的なことを書いたりしてます。そして授業のディスカッションでも、学生全体が持ってる「モノそれ自体」への無関心がゆえに話はすぐに逸れて、(モノが媒介してる)人間性や人間同士の関係や人間とモノとの関係について関心が集まりがち。モノそれ自体への関心やその有効性を疑問視する発言もたまにある(自分もその一人。というか、自分がメインか)。こういう状況を受けて先生は頻繁に「先週まではモノそれ自体の物質性や物と物の関係性について、まぁあんまりうまく行かなかったけど、考えましたが、今週は…」という風に言ったり、「また話が逸れてきました。モノについての話へと戻りましょう。それにしても、モノについて話したくないというこの異常なまでの抵抗があるね。ははは。」と言ってみたりする。なかなか自由な雰囲気でよろしい。アメリカらしい。

今日は学科のイベントで他大学の人類学の先生が来て、彼が今書いてる本の一部について発表して意見交換するというセミナーがありました。そこに例のモノ先生も来ていた。内容はモザンビークの政治と歴史みたいな人類学的なトピックやったんですが、図らずも(?)その招聘スピーカーが「モノの物質性とかモノが持ってる力とか、そういうものが非常に重要な要素として浮かんできた。それについて書こうとしています」みたいな話をし始めた。これに反応したモノ先生は、横にいた自分の学生二人(うち一人が自分)のほうを見てニヤニヤしながら、「ほら見てみ」と、したり顔。スピーカーの話が終わって質問セッションに入ると、モノ先生は「モノの力について、という話をもう少し聞かせてくれませんか」と力強く乱入。特に、モノのvibrancyなる概念を(奇妙にも)提唱している特定の学者に言及しながら質問。そうするとこのスピーカーは明確に、「モノそれ自体の力とかvibrancyに注目することはしたくない。なぜならそれをやると人間の主体性が見えなくなるから。モノに着目しているのは単純に、それが人間の関係性や権力関係や歴史や記憶を媒介するからに過ぎない」と、このモノ先生のスタンスを真っ向から全否定するクリティカルヒット。これにはさすがのモノ先生もたじろいで、それ以降ずっと下を向いている。なんともこの先生は、ほんまにいい人なんです。正直で、やさしい。僕が勉強の苦労について相談するときなんかも、ほんまによく親身になって聞いてくれる、すごく優しい人。こういう場面でも、その繊細さがありありと見える。

セミナーが終わって皆が立ち上がって帰るときに、モノ先生「ほら、授業で勉強していることそのものでしょう?授業ではすごい抵抗が起きてるからな。あんなに抵抗が起きるとはぜんぜん予想しんかった」と自分の授業の意義深さを主張。いやむしろ今日のセミナーは、その真逆を示してたんでは??と思った僕は、「いやいやいや、人間のことを知るための道具としては、モノはすごく面白いですよ。僕はそういう立場ですし、今日のスピーカーも同じ立場やと思います」と、やはり抵抗。そうしたらモノ先生が言ったのは、「でも彼はOlder generationだから仕方ない。君は若いから、自分の立場を再検討してみてもいいでしょう?」と。これ自体は良い言明だと思うので、「そうですね。ニコニコ。」と返して穏便に終わりました。ちなみにモノ先生とスピーカーは、とある大学院の博士課程で同級生だったそうです。

モノ人類学には依然としてぜんぜん納得しないけど、いずれにしてもこのモノ先生がやろうとしている取り組みをめぐるポリティックスと、それについて回ってるちょっと可笑しな滑稽さや自由奔放さは、非常に興味深い。教えてもらってる立場でありながら、なんとなく先生と対等に議論をしている感じがあって、楽しいです。それを受け入れるモノ先生の度量は計り知れない。モノ先生恐るべし。

人類学説史を勉強するおもろいやつ、中二病に付き合わされてるホトホトうんざりなやつ、それから方法論を勉強しつつ自分がここにいる意味について考えるやつ

授業は3つあるんですが、一つは人類学の諸学説を(古典を中心に)ひととおりさらうやつ、もう一つは方法論を学ぶやつ、そして最後はちょっと(かなり)変わった特定の理論サブ分野を学ぶやつ。一つ目のやつは先生が非常に上手くて、毎週コロコロ変わっていくテーマの間に見事に関連性が見えてくる。これは非常におもろい。毎週ワクワクする。だいたい読む文献自体が、前から「あぁ、時間があったらこういうのも読みたいのになぁ」と思ってたやつばっかりやから、読んでるだけで普通にテンション上がる。

二つ目は他の学生の間では評判悪いけど、ワークショップ形式やし、個人的に共感の持てる方法論スタンスやから好き(おそらく他の学生はあんまり共感持ってない)。ワークショップっていうのは、一学期の期間中に身の回りを舞台にプチ民族誌研究をやるというもの。

三つ目は、モノと物質性とそのモノの「力」を研究すると言う、最後にはツボを売りつけられるところで完結するんちゃうかというような謎の授業。この三つ目にはほとほとうんざり。人類学というのはその名の通り、人間(のあらゆる側面)に関心のあるひとたちが有象無象に集まってできてる学問分野なんです。この「モノの人類学」というのは、要するにその人類学の中で「革命」を起こしたいという、中二病なんです。プログラムが始まって最初の必修授業で中二病の相手をさせられるのは、自分で自分に同情する以外の対応方法を思いつかん。

とはいえ、これを自分にとっても面白い切り取り方でエンジョイする方法は無いわけではないので、そういうふうになんとか気持ちを整理して頑張ってます。人間への関心というのは、その反対物としてのモノへの無関心から始まっていたり、あるいはモノが人間らしさの形成に与えてる影響も重要になったりするから、改めて「モノとはなんぞや」と問いかける(それ自体ではただの中二の)論文を読むことによって、なるほど(逆に)人類学における人間への関心っていうのはあんな風やこんな風に成り立ってたり意味があったりするんやなぁ、と考える良いきっかけになるんです。それにしても、モノそれ自体がvibrant(振動している)なのダァー!と目を輝かせて語ってる本や、ましてそれを嬉しそうに読んでる先生や学生を前にして、一体どうしようかと思ったわ。椅子(モノ)は椅子やろ、振動してたら困るわ!!量子力学研究科か眼科か、どちらかに行ってください。

まぁこんな風にいうとただのアホみたいにしか聞こえへんので混乱すると思うので、一応もうちょっと文脈を説明すると、要するにこれはアナロジー的な(もしくはレトリカルな)事象分析をどれだけ遠くまで進めてしまうか、という問題です。人間のあらゆる言明は全て、程度の違いはあれ全てある種のアナロジーですが、一般的に受容可能なレベルの(普通はアナロジーとは認識されない)アナロジーもあれば、どう考えてもただの詩かツボ売り商売にしか聞こえへんアナロジーもあります。この一般レベルと極端レベルの間の境界というのは、いわば文化や社会や慣習によって定められる恣意的な境界にすぎないので、ツボ売り商売を真面目に(受け入れられるべき語りとして)語ることも、別に何も間違ったものではないはずです。これを徹底的に突き詰めたのが、「モノの人類学」なんやと思ってます。ただしそれを受け入れるかどうかは、個人個人の自由です。僕は受け入れません。以上。

あと二つ目の方法論の授業でやらされてるプチ民族誌研究プロジェクトでは、自分は「この大学の人文・社会科学系の博士課程で、慣れない言語(英語)でゴリゴリ勝負しつつ頑張ってる東アジア出身の人らが、どういうふうに頑張ってるのか」というテーマにしました。友達を見つけるついでに課題の題材にもなって、課題をやるついでに知り合いも増えるという一石二鳥。しかし。英語圏で生まれ育ったり学部からアメリカで勉強してきた人を除くと、ほとんどいないですねそういう人。というか、そもそもそういう人が少ないはずやと思ったからこの問題に関心持ったわけで。つまり東アジアからいきなりノコノコやって来て、毎週何百ページも英語で論文読まされて、それで無事に輝かしく成功している人なんていうのは、多くないんですよね。まぁもちろん、全くいないわけじゃないので、探していけばプチ民族誌研究プロジェクトとしては十分成り立つと思うんですが。何れにしても、ちょっと探し始めてみて「やっぱり少ないな」と気づいたのは、なんとなく勇気付けられました。自分がなんかの間違いでここには入れてしまったのは事実として受け入れるとしても、そこで苦労するのは仕方のないことや、って思えるからです。ずっと日本で育った日本人としては、英語で展開されるゴリゴリの思想系の語彙や論理を理解したり話したりするのは、語学能力以上のもっとややこしい問題を孕むんです。どれだけTOEFLが良くても、また全く別の問題。ヨーロッパ言語から来てる人たちとは、まったく違う次元の困難に立ち向かってると思うんです。思考や表現の論理が、ヨーロッパと東アジアでは全然違う。考えんでもわかるものわからんもの、口を突いて出るもの出ないもの、そういうのが文化圏ごとにあると思います。大変やけど、楽しいは楽しいので、頑張ります。まだもうちょっと、なんだかんだでここにおれたらええなぁと思っとります。

ニューヨークと9・11記念博物館

ニューヨークに1泊して遊んできた。世界中どこに行っても、ひたすら一人で街を歩き続ける。その街の美味しいものを食べる。物価が安ければその国のビールを飲む。クタクタにくたびれてお腹いっぱいになって(お酒も入って)、ドミトリー形式の安宿でせせこましくシャワーを浴びてからグースカ寝る。いつもちょっとくらい本を読もうと思うけど、ベッドに入った瞬間に寝てしまう(最後の部分は家にいても一緒)。ニューヨークでは、ビールの部分だけ割愛して、そのほかは全ていつも通りの滞在でした。実際物価は激烈に高い。サンドイッチを食べて2000円したこともあった。

そんなスケジュールのおかげで、まともに観光と言えるスポットは9/11記念博物館だけで終わってしまった。それ以外はほんまにひたすら歩き続け、ユニクロとアウトドア用品店で必要な服を買い、そして夜にたまたまハロウィーンパレードに遭遇。1時間前くらいから立って待ってたおかげで、ほぼ最前列で鑑賞。渋谷のハロウィーンとはまた違う、味わい深い光景でした。

9/11博物館は、面白かった。もちろん、歴史の表象と創造の観点から。入って一番最初に見せられるパネルに、こんな言葉が書いてあった。これを見て、大げさでなくほんまに体が震えた。

Nearly 3,000 people were killed on that day, the single most largest loss of life resulting from a foreign attack on American soil, and the greatest single loss of rescue personnel in American history. Approximately two billion people, almost one third of the world's population, are estimated to have witnessed these horrific events directly or via television, radio, and Internet broadcasts that day.

これが、アメリカにとっての9/11です。まず、アメリカが関わってきたあらゆる戦争は、全て外の土地で行われてきたことを、今更ながら確認させられる。とりわけその「戦争」が、前世紀・今世紀の最も凄惨な戦争のほとんどを含むという事実を改めて考え、また逆にアメリカの土地で見た死者数は正確に3,000人であり、かつそれ以上ではないという事実を突きつけられる。次に、これら全てを以ってしても依然として、アメリカはこの事件が世界の全ての人間の即時の注目を然るべくして集めたと自認している、ということを知る。そして最後に示唆として、”アメリカが世界の中心である”ということを、今更ながら叩きつけられる。

この後に続く膨大な展示は、その資料の全体的な豊富さ、写真記録・映像記録とクロノロジーの詳細さ、感情を惹起する仕掛け、事件それ自体に加えてレスキュー隊の努力と犠牲を強調していること(つまり単に「恐ろしい事件」ではなく、身を賭して戦うべき相手として事件を想像すること)、などの特徴が容易に目につく博物館でした。

広島の原爆記念館と、シンガポールチャンギ博物館(日本軍占領時代の記録)とを、頭の中で比べながら回った。圧倒的に9/11記念博物館に特徴的なのは、その物理的な大きさと、資金的な規模と、資料の豊富さ。民間人が録画した高解像度の映像や、ボコボコに潰れた消防車の実物展示や、現場の更地化の過程で行われた保存・追悼セレモニー(の記録が展示されてる)の規模など。このどれ一つも、広島では不可能やった。結局9/11においては、ビルとその周辺はアポカリプスのような状況やったとしても、ニューヨーク全体として、あるいは国全体としては通常状態であり、あらゆる力を総動員してその瞬間の記録を残すことができた。広島ではこれはできひんかった。原爆記念館の展示資料の中で、GHQの調査隊が残した調査結果が少なからぬ位置を占めていることが、そのことを物語ってる。

一方で、原爆記念館で行われている展示は、チャンギ博物館では不可能やった。チャンギ博物館と比べたら、原爆記念館なんてよっぽどよく整備されている方や。シンガポールの日本統治時代にどんなことが起きていたかなんて、チャンギ博物館に行っても断片的にしかわからへんし、歴史家が散々研究を重ねてもぼんやりとしか明らかにならへん。シンガポールで起きたことと広島で起きたこと、それぞれが「記録」として後世に残っていく程度の違いが、「記憶」として後世に残っていく程度の違いになってしまう。シンガポール/広島で起きたことと貿易センタービルで起きたこと、それぞれが「記録」として後世に残っていく程度の違いが、「記憶」として後世に残っていく程度の違いになってしまう。その「記録」は、その事件を受けとめた国の国力が大きいほど、またその事件を受けとめた社会のテクノロジーが発達しているほど、より詳細なものとして残る。その国力もテクノロジーも、事件の「記憶」それ自体とは本来的には関係すべきでないにもかかわらず。事件が記憶に残っていくかどうかが、結局国力とテクノロジーに左右されてしまう。

こういう人たちの中にいます

明日から1週間、学期の真ん中の一週間休み。休みがこんなに嬉しく思えたのは、人生でなかなか他に経験がない。唯一思い浮かぶのは、某機構で働き始めた最初の1週目から最後の週まで全ての週末(約100回)。(←no offense)

今日はちょうど学科の飲み会があったので心置きなく参加してきた。10時頃から人々がバーのカラオケを歌い始め、そのアメリカらしい楽しみ方に圧倒される。ゆうに50人はいると思われるバー全体の群衆に対して、どこからともなく客がステージによじ登って歌い始める。60代のオジさんによる哀愁漂うカントリーロックから始まり、なかなかうまいと思わせつつ、人が交代するたびにだんだんひどくなっていく。最後は目も当てられへん。それでもバー全体が思い思いに体を揺らして、歌い終わりには笑顔で拍手する。

カラオケが始まる前は普通にバーでビールを飲みながら友達と話す会。どんな友達がいるかを書きましょう。

ヒゲぼうぼうで長髪のインド人。お父さんがシク教徒とかなんとかで、シク教徒は体毛を切らない、みたいな話をどこかで聞いた。お母さんは別のカーストやから、カースト間の結婚で生まれた子供である彼は自動的に不可触民らしい。酒が好きで、一緒に飲むといつも最後まで、「もう一杯いけるよな?」と粘ってる。デリーで学生しているときは、一気飲みをprofessionalにやってたって自分で言ってる。確かに何かと一気飲みを誘ってくる。抑揚のないインド訛り特有の英語を話すし、おそらくこれもインド訛りの特徴であんまり口を大きく開けずに話す。でも一方で、ごもごもっと喋るのは単に個人的なクセの問題な気もする。なんとなく柔らかい話し方が特徴的で、目の輝きも奥行きがあってなかなか読み取りにくい。ものすごい数の本を読んできてる典型的なインテリ。学部では化学を専攻して自然科学にも明るいし、社会科学についても誰よりも本を読んでるみたいに思う。四六時中タバコを吸っとる。歌を歌ったり踊ったりするのが好きなんやろうなという感じがするけど、今日のカラオケは歌いたい曲が入ってなかったみたい。残念。

お父さんがメキシコ人というヒスパニック系のアメリカ人。精神的に不安定な(疾患のある?)子供の学校の先生をしていたとかで、心理セラピーのことよく知ってる。特徴的なアクセントで英語を話すけど、あれはどこのアクセントなんやろうか。文の節ごとに抑揚を上げるのが特徴で、聞き手がついて来てるかどうかを常に確認しながら話してるっていう印象を与える(アメリカ英語は一般的にそう)。人の話を聞きながら、いつも繊細に表情を動かしてる。多くの場合は、微笑んでる。表情だけでなくて、誰かが話してるのに合わせて腕を動かしてジェスチャーを作り、一人の聞き手として話の内容に合わせた演劇的な表現を行ってる。だれもそのジェスチャーにはコメントしないけど、みんなが無意識に聞き手として自分の心をそれに連動させて、それによって話し手の語りに対しての共感を深めてる。一対一で会話するときは、「沈黙する瞬間があったら、意図的に沈黙を利用して相手に話させるよ」と言ってた。劇的にコミュニケーションがうまい一人の女性。

お祖父さんが日本人やというミシガン(?)出身のアメリカ人。初めて話したときは、こちらが日本人やということそれ自体には全く触れず、アメリカでの食文化みたいな文脈でさりげなくお祖父さんが日本人と知らせてきた。どんな会話になっても、相手について何かの断定的な言明をすることは絶対にない。が、こちらが何か踏み込んだ会話を振ると、積極的に乗ってくる。乗ってくるが、こちらが振った以上の深さを超えては決して入ってこない。こちらについて一定の興味は持ってるやろう。持っていながら、その興味をああやって完全にコントロールしているのは、いったいどんな自己管理能力なんや。授業で人が発言してるときは、いつも首を上下に振って共感を示してる。自分が発言するときも、ふと彼女の方を見るとこちらをまっすぐ見据えて首を上下に振ってるのが見えて、安心する。

他にも、「イラン人にとって日本は、進むべき未来の国じゃ」というイラン人や、赤ちゃんから逃げようとするイカつい黒人の男の子や、いろいろおる。今日は(上手い〜下手までの)カラオケを聞きながら妙に幸福な気分でした。カウンセラーともいい話ができたし。明日から1週間休みやし。明日締め切りの課題もほとんど終わっているし。休みの間に、やっとニューヨークを見に行きます。おかげさまで、まだここにいます。

 

 

イギリスで修士やって切り抜けたこととか全然関係あらへんですわこれ

おまえ前イギリスで1年間勉強してたやんけ、大変やなんて今更ちゃうの?という声は、自分の中からも聞こえてくる。それが、それほど今更でもないんです。なんでか、っていうのはだいぶ複雑な説明になる。

まず関連で思い浮かぶのは、イギリス大学院の高度に商業的な性格と、それと対照的なアメリカ大学院の本格的な教育体制。

イギリス(SOASだけか?)では、何十人もの学生が一つのプログラムに参加する。教授が一人一人に目を届かせることは全く埒外。学生を分割してディスカッショングループを作る「チュートリアル」の教員(「チューター」)ですら、学生へのケアはチュートリアルの中だけでほぼ完結。教員との面談といえば、最初に一度コースコーディネータと面談したこと、最後に指導教授と3回(回数が決まっている)の論文指導をしてもらったことを除けば、それ以外に記憶はない。1年間のプログラムやから、ちょっとしたキャリアアップのために入学する学生も多い感じがする。学生のバックグラウンドはバラバラで、これまでアカデミックな道を歩いてきたことじゃない人が多いし、これからもアカデミックな道を歩くつもりのない人も多い。授業での議論は、自身の経験に基づいた事例検討的な発言や、まったくの思いつきのような発言も多く、また理論的に熟していない(悪く言えば、アカデミズムとしては必ずしも成立していない)発言も多い。そして極め付けは、ひとつの単位はレクチャーとチュートリアルで構成され、レクチャーは日本みたいなひたすら講義するやつ、チュートリアルは10人くらいの少人数に分かれて議論だけするやつ。レクチャーは聞いていてわかるし録音も出来るから、仮にチュートリアルの議論がついて行けへんでも、最悪レクチャーだけわかって論文を読んでいればそれでなんとかなる気がしてた。最後に、大学の運営は、学費を主な収益源とする(と思う)。

一方アメリカ(この大学だけか?)では、学科に在籍する一学年の学生がたったの8人(それでも平均より多い)。毎週でさえ、会おうと思えば教員と面談できる(すでに4人と8回面談済み)し、積極的にそうすることを期待されている(何度も言葉にしてそう伝えられる)。最短5年の腰を据えたプログラムやから、学生はみんな真剣やし、それぞれアカデミズムの道で生計を立てることを念頭に置いて本気で勉強している。実務者キャリアは少なく、少なくともPhD修了後は研究の道に入ることが前提のはず。授業での議論もこれに対応して、理論的に筋の通った発言が多い。また教員・学生の両方が、議論を生産的に方向付けることを意識して行っている(ただし、高度な議論をしているかどうかはまた別問題)。授業、とは言っても、レクチャーは基本的に行わない。すべての授業が議論ベースで、イギリスでいうチュートリアルだけしかない感じ。授業以外に毎週、外部講師を招聘するレクチャーを学科が運営していて、学生はそこに参加することを期待される。レクチャーの翌日にはその外部講師とのランチがあり、ありとあらゆる人類学者と直接話す機会が作られている(ランチの参加者は学生10人強)。別の学科もありとあらゆるセミナーを運営していて、情報が常にメールで流れてくる。学費は支払わず、大学の予算が学生の生活費・学費などすべてのコストについて面倒を見る。学費・生活費以外の面でも、あらゆるサポート体制を完備。博士候補生を雇用して学部生(・博士課程学生)の勉強のサポートをするWriting Center(1.5時間のマンツーマン家庭教師、毎週受けられる)、年間(?)を通して外国人学生の英語の世話をするELP、充実した保険センターなど。すべて大学の予算で運営しており、学生は1ドルも支払わない。

こういう環境のもとでは、なんとか単位だけとって乗り切ろう、という気にはならない。5年後6年後に論文を書くとき・書き終わったときに、ほんまにプロの研究者として一人前になっていられるかどうかは、今この環境において一つ一つを順番に吸収していけるかどうかや、という感じがヒシヒシとする。それだけに、一回の授業がまったくついて行けへんかったら、その日を無駄にした気がして(実際無駄にしてる)落ち込む。

次に思い浮かぶのは、イギリス(SOASだけか?)の国際的な環境と、アメリカ(ここだけか?)のアメリカンな環境。

SOASは、少なくとも自分が出席している授業などでは、半分以上が外国人やったんちゃうかな。外国人を相手に授業や議論をすることが当たり前の環境やった。英語能力、文化的作法、コミュニケーションの違い、などなど、すべてが既に考慮されていた。外国人やからといって疎外感を感じることはなかった。ついていけなくても、それが普通やった。

アメリカでは、授業ではほとんど全員が英語ネイティブで、しかもマジョリティがアメリカ人。アメリカ人は、もちろん人種的・バックグラウンド的には多様やけど、でもアメリカ式のコミュニケーション的基盤を共有している人達という意味では、外国人からは一線を画している。英語ネイティブじゃない人も、修士まで英語で上がってきたインド人やったり、妙にbookishで流暢な英語を喋る南東ヨーロッパ出身者やったり(非ネイティブであっても、そもそもヨーロッパ諸語から来ている人達はアジア諸語から来ている人と比べて圧倒的に有利なはず)。頑張って英語勉強してここまで来ましたという感じの人は、ほんの数えるほど(先輩のトルコ人、イラン人、教員のロシア人、ギリシア人、そして自分)。したがって、議論の際はテンポが圧倒的。すべての学生が、他のすべての学生の発言を逐一すべて理解しているような印象を受ける。極めて強い訛りで話す学生や、若者らしく異様なスピードでかつ音を頻繁に脱落させながら話す人や、いろいろいるが、そういった発言すら、すべての学生が基本的にすべて理解している模様。授業外の面談や個人的な会話においても、こちらが外国人やということはあまり考慮されない。これは外国人学生が少ないからということではなくて、おそらくアメリカの文化的特質なのかと理解している。どんな出自であれ、どんな英語能力であれ、すべての人が平等に市民。不要な配慮はしない、なぜなら対等だから。これについては後日、別のエントリーで書きたい。とにかくそういうわけで、外国人やからといって逃げ場がない。一週目から早速、一人前のコミュニケーション参加者として振舞わなあかん。

なぜイギリスとアメリカでこんなに違いを感じるのか、という問いに対しては、制度的にはとりあえずこれくらいやろうか。すぐ上で触れたように、アメリカの文化的な特徴も自分にとってはズッシリ重い。これについては後日。

発言小町に感動したところから始まるブログ

大学院留学がつらい。 : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

さて記念すべき第一稿目は、上の発言小町を読んで感動したという話から始まります。

ナンノコッチャわからんので、少しは説明を...。

2016年10月から米国東部、アイビーリーグの大学院にて、文化社会人類学を専攻する博士課程(標準5年)プログラムを開始しました。始まって約4週間が終わったいま、ものすごく辛いです。

初めの1、2週目は、授業(といっても主に学生のディスカッションが授業内容のほとんどを占める)でみんなが喋ってる言葉がほんまに聞き取れず。早いしアクセントあるし、そして人類学特有のあの回りくどい表現で延々と続く抽象的・繊細な物言い。たんにレクチャーなら、わかる。議論やからこそ、意味わからん。文脈も背景も論理も配慮も全部ぶった切って、ありとあらゆるバックグラウンド・癖・アクセント・速度の学生が縦横無尽に繰り広げる阿修羅のような議論のテーブル。

1週目は夏の間にリーディングを済ましていたから、リーディングには問題無し。が、2週目からは問題有り。三日に一回は明け方の4時・5時まで読み(もちろん土曜日曜なんて関係ない)、それでも全部は読めずにスキミングでごまかす。さすがに身体の危険を感じ、かつ気力が持たず、3週目からは、読む対象をさらにセレクティブにする。

今更ながら、読む速度が極端に遅いことを改めて真剣に考え、これはそもそも異常な遅さなのではないかと考え始め障害支援室へ。3,800ドルの認知・心理・学習能力検査テストを受けることに。ただし健康保険と大学の支援制度のおかげで、ほぼ自腹はなし(すごい)。

同時に、大学の予算で運営している学生サポート制度をフル活用。Writing Centerなるレポート・論文執筆支援のメンター制度に殴り込み、ライティングメンターにリーディングを教えてもらう(破天荒)。メンターは歴史学科の博士候補生。真剣に相談に乗ってくれ、ほんまに助かる。ただしこのメンタリングによって、普通みんなが取り組むリーディングの戦略やコツはほぼ網羅的に実践済みという事実が発覚し、これ以上どうしようもない感を露呈。

4週目は、当初非常に良い人と思われた学科長との間で文化摩擦的なミスコミュニケーション(+それと絡まった形でアカデミックシーンでの文化摩擦)を経験し、拠り所を失った気がして精神的なダメージ計り知れず。心理的・身体的に追い詰められた状態での精神的ショックに耐え切れず、カウンセリングオフィスへ。面談中泣きそうになる。ちなみに面談の予約のために受付に電話した時には、電波が悪かったのか名前の綴りとかがなかなか伝わらず、受付の人にうんざりされたことに落ち込み、電話を切ってから泣くという始末。そういえばその前の週にもトイレで一回泣いた。

そして今日から始まる5週目。今日のクラスはいつにも増して手に負えない炎上ぶりで、全くなんのことを言っているのか(言ってる言葉はわかるがその意味が)わからない。ひどく落ち込む。

というところで、これはどうも場違いな場所に来た、これは完全に落ちこぼれて帰国する画しか思い浮かばない、という気持ちが四日に一回くらいは浮かんでは消え浮かんでは消えする毎日です。ちょっとリアルな鬱っぽさにも、危険を感じている。そんなときにふと思いついて、「アメリカ PhD つらい」とGoogle検索をしてみたら冒頭の発言小町。なんという、惜しみのない応援の言葉たち。泣きそう(4回目)。

これを読んで感動してみて気づいたのは、自分を冷静に俯瞰してみる目を持ててなかったということ。冷静に考えれば、PhDのコースワークの評価は主に書き物によって行われる。授業でよくわかってなくても、ある程度はごまかせる(ロンドンで修士をやったときも結局それがすべてやった)。しかも頑張って読み物はやってるんやから、一番重要な発想やアイディアは理解しているはず。学科長とのコミュニケーションがうまくいかんかったとしても、人間そんなもんや。落ち込みすぎや。冷静になるゆとりがないのはわかるけど、冷静になれればきっと冷静になれる(←人類学の議論は往々にしてこんなんです)。

自分のことを文章にしてみたら、強制的に冷静になれるやろう。これはきっといい道具になるに違いない。では、これからどうぞよろしくお願いします。5週目も「なんだかんだで、まだいます」。まだまだこれからも、「なんだかんだで、まだいます」と言い続けられることを願って。

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