なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

自分の仮説を(途中まで)立証している論文を発見。視覚的な文章も、視覚的でない文章も、等しく視覚的にゆっくりとしか読めない脳について。

最近Googleから検索でここにたどり着く方が増えているようなので、これまでの経緯をおさらいします。アメリカで大学院に入ったんですが、英語の読書スピードが遅すぎて到底やっていけず、誰にも理解されずに支援を受けられないままドロップアウトしました。学力も英語能力も、十分に高い。しかし(英語の)読書スピードは100人中で下から1位。これが、一体何なのか??というのをずっと調べています。どうやら自分は自閉症スペクトラムASD)を持っているらしい、というところまで分かっていて、自分の感覚的には読書スピードもASDと関わっているように思えてなりません。そういうときに、以下の論文を見つけました。

RK Kana, TA Keller, VL Cherkassky, NJ Minshew & MA Just

Sentence comprehension in autism: thinking in pictures with decresed functional connectivity

Brain. 2006 September 129(0 9): 2484-2493.

 「自閉症の人が文章を読むときの脳の使い方が、自閉症じゃない人と比べて根本的に異なってる。普通の人なら言語能力と関わる脳機能を使うような場面で、自閉症者は視空間認識と関わる脳機能を使って文章を読んでる」と、実験で示している論文です。

テンプル・グランディン『自閉症の脳を読み解く―どのように考え、感じているのか』(リンクはアマゾンアソシエイト)に引用されていたことから発見しました(6章、P174)。

これはまさに、読むのが遅い謎の現象にぶち当たった結果として、文章を読むときに頭の中の動きがどうなっているのかを自分自身でよく観察して打ち立てた仮説そのものです。それがそのまま、脳科学の論文で実験結果とともに示されている。

ここで行われた実験とは、簡単に要約すると以下のようなもの。

自閉症者のグループと、対照実験のための定型発達者のグループを用意する。

意味内容的に視覚性の高い文章問題(視覚問題)と、意味内容的に視覚性の低い文章問題(言語問題)を用意する。

視覚問題とは例えば、"The number eight when rotated 90 degrees looks like a pair of eyeglasses. True or False?"(ローマ数字の八は、90度回転させると眼鏡のように見える。正か誤か。)のようなもの。

言語問題とは例えば、"Animals and minerals are both alive, but plants are not. True or False?"(動物と鉱物はどちらも生きているが、植物は生きていない。正か誤か。)のようなもの。

両グループが二種類の問題を解く際に、脳内のどの部位が活性化されるかを、MRIによって調べる。

定型発達グループは、視覚問題に対しては視空間認知に関わる脳の部位が活性化し、言語問題に対しては言語に関わる脳の部位が活性化した。言語問題に対しては、視空間認知に関わる脳の部位が活性化することはなかった。

自閉症グループは、両方の問題に対して視空間認知に関わる脳の部位が活性化し、異なる種類の問題に対して脳の使い方の変化が見られなかった。

細かいことは他にも色々あるが、一番重要な議論は以上のとおり。確かに僕自身も、上記の例題を最初に見たとき、動物の絵と結晶体の絵を思い浮かべて、それを見て「いや生きてない」と判断した。全く実験結果の通りやと思う。

何故このようなことが起きるかという原因論については、いろんなレベルでいろんな推測が行き交っていて結論が定まらない。けれども、有力そうな考え方は、脳の部分部分を結ぶ神経回路のうち、あるものが何らかの理由でうまく発達しなかったために、他の部分と繋げる神経回路を発達させることによって能力を補った、という説。これはMRIによる画像データからも根拠が出されている。

文章を読む際に、何ら視覚的な意味内容のない文章であっても必ず脳内の視覚能力を経由しないと意味が理解できない、というのは、自分で自分の脳の動きをよく観察してたどり着いた発見そのものや。しかもその時の感覚は、言語を言語のまま理解しようと努めても頭の中がモヤモヤして脳が機能しない感じがし、永遠に理解ができない、というもの。この感覚は、「本来あるべき神経回路が不在である」という脳科学的な説明にぴったりと合致する。

 

この論文では残念ながら、短い一文を対象にした実験にとどまっている。その上で、解答にかかった時間は自閉症グループも定型発達グループも差異がなかったと(極めて簡潔に)述べるにとどまってる。

でも、この実験みたいに「一文について立ち止まって考えて、正か誤かを解答する」のではなく、もし「連なった長い文章を、内容についての判断なしにどんどん流し込んでいく」という作業を行なったとすれば、両グループにおいて作業に要する時間が大きく変わるとしても全くおかしくない。本を読むときに僕の頭の中で起きてしまうのはまさにそれであって、書かれている全ての言葉・文章をいちいち視覚的なイメージに変換して読まないとあかんから、言語を言語のまま理解するのと比べて時間がかかってしまう。目自体では素早く文章を追えるけど、意味内容を少しでも理解しようとすると、イメージを連想・想起するスピードが読むスピードを制約してしまう。

友達に「どれくらいの速さで読めるのか」と聞いて回った印象では、普通の人はどうやら読む速度をコントロールできたり、文章によって大きく速度が変わったりするらしい。僕は、これが起きない(起こせない)。どんなものでも、ほぼ一定の遅い速度でしか読めない。ただしその中でも難易度によって多少の速度変化はあるけれども、でも他の人と比べてその変化は圧倒的に小さいみたい。この論文の実験結果は、このことも上手に説明してくれるんちゃうやろうか。普通の人は、言語的な認識能力と視覚的な認識能力の両方を使って文章を読む。素早く(浅く)読もうと思えば、言語的な能力だけを使うことができる。文章が難しかったり、精読したいときは、視覚的な能力も使って読むから、そのときは視覚的能力の処理スピードに引きずられて遅くなったりする。言語能力と視覚能力をどれくらいの按配で組み合わせるかによって、極端に早い時から極端に遅い時まで、連続的なスピードの変化が生まれる。これに対して僕は、(ほぼ)視覚的能力しか使えないから、(ほぼ)一定の遅い速度でしか読めない。

このレベルまで問題設定をして実験をしたような論文は、どうやら存在しない。専門家に会うときに、この話をしてみようと思う。研究データが存在しない仮説的な話やから、専門家にとっても確定的なことは言えへんやろう。でも、「自分は自閉症スペクトラムがある」かつ「自閉症スペクトラムが原因となって読書スピードが極端に遅い」という二つの議論両方について、専門家から何らかの支持をもらえれば、大学に入り直すとかの選択肢を選ぶときに強い味方になる。

 

 

ちなみに、これまでで読んだ自閉症関連の文献の概要は以下の通りです。同様に勉強する方は、参考にしてください。

 

★★神尾陽子『成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル』(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2012。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた臨床マニュアル。今の時点でもっともオーソドックスに、包括的に、基本的な事項を知れる本。

 

★★青木省三『大人の発達障害を診るということ: 診断や対応に迷う症例から考える(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2015。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた臨床ガイド。神尾に載っていないような、より現場に即した症例を多数紹介する。典型的な自閉症者は臨床現場においてマイノリティであり、グレーゾーンに属する患者こそマジョリティなので診断と治療に知識が必要だ、という基本的な理念のもと、そういった扱いの難しい症例をどのように診断し扱ったか、そこから得た教訓は何か、を詳述。

 

★★☆石坂好樹『自閉症とサヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐(リンクはアマゾンアソシエイト)星和書店、2014。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた研究書。現在主流となっている学説を批判的な立場から俯瞰し、自閉症研究において何が未解決のまま残っているのかを真摯に提示する。また、自閉症者は何が「できない」のかではなく、何が「できるのか、得意なのか」に着目して、そこから自閉症の原因・機制を解き明かそうとする。そのため、特殊な能力である「サヴァン」に着目する。

 

★★☆内海健自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2015。

精神科医が、一般の精神科医向けに書いた研究書。現在主流となっている学説を批判的に検討し、著者の臨床経験から得た独自の視点・知見を提示する。医師が自閉症者を「現象」として外側から見るのではなく、自閉症者自身が世界をどのように経験しているのかを知ることが重要と考え、その課題に対して著者なりに取り組んだ。

 

★★テンプル・グランディン『自閉症の脳を読み解く―どのように考え、感じているのか(リンクはアマゾンアソシエイト)NHK出版、2014。

自閉症者自身による自伝の先駆けとなったグランディン(動物学者)による、最新の自閉症研究の成果を踏まえた一般人向け解説書。アメリカの実証主義的な脳神経科学を下敷きにしているため日本人の著書とはやや趣が異なる。議論が当事者としての感覚的な理解にバックアップされていることはもとより、数十年にわたって経験と理解を執筆してきた中で積み重ねた推敲が反映されているため、説得力がある。

 

★★☆ドナ・ウィリアムズ『自閉症という体験(リンクはアマゾンアソシエイト)誠信書房、2009。

グランディン同様に自閉症者自身の伝記で有名なウィリアムズが、必ずしも医学や神経科学には依拠せずに独自の理論を展開した、いわば思想書。定型発達者は成長の過程で、動物としての人間が持っている本能的な能力を失ったが、自閉症者はこれを保持している人たちである、とする。

 

別府真琴『なぜ自閉症になるのか 乳幼児期における言語獲得障害(リンクはアマゾンアソシエイト)花伝社、2015。

内科医が、精神医学的自閉症研究における通説に対して批判と異論を提出した研究書。当事者として読む限り、着想として正しいと思える箇所はあるものの、それはほんの一部だけにとどまり、全体としては議論が大雑把で独りよがりか。

 

★★☆松本孝幸「<内側から見た自閉症>」(もと総合支援学校教員によるウェブサイト)

日本と外国での自閉症者自身による自伝書から興味深い一節を抜粋し、松本氏自身の教育現場での経験と照らし合わせて紹介・議論するウェブサイト。1000近い抜粋がある。

 

★★宮尾益知、滝口のぞみ『夫がアスペルガーと思ったときに妻が読む本(リンクはアマゾンアソシエイト)河出書房新社、2016。 

高機能自閉症者は仕事や業績で成功することが多く、世間的な評価が高い場合が多い。しかしその独特な考え方(強いこだわりや、他人の気持ちを読み取れないこと等)により、家庭において妻との関係が問題化しやすい。 「成功者」でもあり「いい人」でもある高機能自閉症の夫を持つ妻は、自分が間違っているのかと悩み憔悴する。この妻の状態を一つの精神病理と見立て、その解決策を模索する。精神科医が一般向けに書いた本。

 

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本当の不条理は、それを転覆することができない仕組みになっているからこそ、本当の不条理。それを前にすれば、もう唯々嘆くしかない。

こんだけ心的外傷を負ってしまった理由の一つは、例の障害支援室の対応が、およそ想像できる限りでほとんど最悪のパターンやったことが、大きい気がする。

障害支援室に助けを求めることは、いわば自分に「障害」のラベルをつけられることを受け入れることやから、それなりの覚悟と勇気がいる。でも、そのデメリットよりも、そのラベルに基づいて受けられる支援というメリットの方が上回るやろうと判断して、行ったわけや。で、最初の面談では、「話を聞く限り、何かありそう。検査を受けたら、ラベルがつくかどうかは分からんけど、何らかの傾向性として自分の特徴がわかると思うよ」と優しい声をかけてくれ、理解のあるような暖かい視線をくれた。まさにそういった、外から見た名付けのようなものがあれば、自分のこのモヤモヤしていてかつ明確にそこに存在している苦労がズバリ何者なのか分かることになり、気持ちの上でスッキリもするし、具体的な対策も考えやすいやろう。そういう期待をもって、検査を受けた。

ところが、実際に受けてみた検査は、数字をはじき出す部分がもちろん定型的なものであるのはいいとしても、質的なインタビューや観察の部分もほんまに表面的で、こっちの話をまともに取り合ってすらくれへん。商売として検査をやっているという様子そのものやった。そしてそんな検査に基づいて障害支援室の人が取った行動は、あろうことか、僕がズルをして低い数字をわざと出したと疑ってかかることやった。

「この読書スピードの検査項目は、簡易的なもので、うんちゃらかんちゃらやから必ずしも正確なスピードを測れないんです。そして君は、時間を延長したときでも依然として読解量が1パーセンタイルってなってるけど、問題を解かずにじっと座っていたんですか?他の検査項目には異常が見られなくてこの箇所だけ極端に低くなっているのは、私たちの知っているパターンに当てはまらないから、理解できない。」

この言い方は、見紛うことなく、「あなたがズルしようとすればズルできる検査だったんです。総合的に見ると、ズルしたとし考えられません。ズルしたんでしょう」と言っている。そしてこれを言いながら、目を細めてこちらを斜めから見るという、猜疑心を露骨に見せつける態度をとった。これは、支援者として本当に下劣の極致、まさに底の底にベタッと張り付いてる水準や。

そして、これに対してこちらが大声をあげて反論したら、解散してからメールで「もうちょっと考えて見るから、〜について詳しく教えて」と言ってくる。たった一回の面談で相手の反応にたじろぐくらいの信念しかないくせに、露骨に相手を疑って見せてしまてしまうなんて、一体どういうプロフェッショナリズムをしてるんや。

検査を実施した人らは、単に金儲けのためにやってるだけである一方、検査結果を良しなに「解釈」できないようでは信頼を失うから、「これはズルしているパターンですね」とか言って片付けたんやろう。障害支援室は、検査実施者のそんな下らん入れ知恵を安易に信用して、猜疑の気持ちに簡単に支配されてしまったんやろう。ほんまに文字通りのカスや。

その上、検査結果それ自体が出た瞬間に僕は、執拗に「この検査実施者の解釈は不十分やから、自分の意見も言わせてください」とメールし続けていた。それを無視した上での勝手な結論付けやから、腹わたが煮え繰り返る思いがする。面談後に向こうがたじろいで「〜について教えて」と言ってきて遣り取りをしたあと向こうの反応がすこしだけ変わったから、こういう情報もなしに勝手に結論付けを行われたことがほんまに遺憾や、と伝えたところ、「メールで色々聞いて初めてわかったことがたくさんあったので、仕方ないでしょう」と。いやいや、だから最初から、説明させてくれと200万回くらいメール送ってたやん。それを「忙しいから」とかなんとか言って先延ばしにしてたのはお前で、その先延ばしにしている最中に勝手に結論を出したのもお前やん。いい加減にしろ。

てっきりこの障害支援室の人は、医療資格までは持っていないにしても、なんらかの障害関係の資格を持っている人なんやと思ってた。そう思わせた理由は、まずそうでないと障害支援室の室長なんかにならへんやろうという思い込み、そして次に、堂々とした貫禄と自信に満ちた雰囲気。しかしいま改めてググって見たら、何の事は無い、障害と微塵の関係もない単なる営業として働いた後、この障害支援室のヒラ職員として10年働き、つい最近、僕が入学するほんの4ヶ月前に室長へ昇格しただけらしい。なんということや。一応「なんちゃらCollegeで高等教育障害のCertificateを取得」とさらっと書いてあるけど、Collegeで取得するCertificateなんてほんま知れてる。室長とかやるために、心理士とかの、ちゃんと協会によって認証されてる資格を持ってなくてどうすんねや。専門資格もないまま、ただ10年経験があるというだけで権限ある地位に昇格して自信をつけて、それで勝手に思い込みで人を判断してその人を貶める。そしてその人の人生を変えてしまうんや。はぁ。なんでもっと早くググらんかったんやろう。まぁ、ググっててもどうしようもなかったけど。

面談で疑われ障害認定が降りないと言われ、それへの返答で「これが障害認定もらえなかったら、どうやっても勉強を続けることは不可能やから、大学を辞めます」と大声で言った時に、この人が「まぁそうパニックにならなくていいよ」と、人を完全に舐め腐ったように鼻で笑った様子を、一生忘れへん。

この人に復讐をしたくて復讐をしたくて、心がどんよりとその執念に覆われてしまってる。言葉の暴力でこいつをズタズタに傷つけてやりたい。

 

学科の教員の方も、ほんまに文字通りカスの人間やった。自分が正しいことを微塵も疑わず、その価値判断から相手を見下し、相手の視点を理解しようとすることは決してない。こちらが苦しんでるのは正にお前自身の言動のせいやのに、なにか客観的な問題があってそれを解決しようとしているかのように、心ない言葉を吐き続ける。そして問題が解決できないままであるのを、こちらの至らなさ故やとみなして、こちらを見下すだけでは飽き足らず、無能力者であるこちらを憐れんで見せた。こいつに対しても、言葉の暴力でズタズタに復讐してやりたい気持ちでいっぱいや。

 

アメリカのエリート社会や勝ち組の人間の社会っていうのは、突き詰めればこういう不条理によって均衡を保ってるんやろうと、肌に感じて確信した。勝った者が、勝ったというその事実そのものを根拠にして自らルールを設定する。それからはみ出たり違う考えを持った人間に対しては、自分が勝者やという事実そのものを理由にして「失敗」「敗者」として見下し、そして憐れむ。敗者に仕立て上げられた人間は、敗者であるという事実それ自体を根拠として発言権を剥奪され闇に消えていき、したがって勝者が勝者であるという事実には何の変更も加えられないし、それどころか、ますます強固なものになる。

何よりも下劣なのが、勝ち残ってる本人たちが、自分たちは間違ったことをしていないと心の底からピュアに信じきっていることや。それを信じきっている限り、どんな摘発があろうとも天真爛漫に全力で自分たちを擁護できるし、それに感動して支持する人間も現れる。そうして結果的に出る判決というのは、そもそもが勝ち組の人間たちが設定した論理やルールに基づいているだけのものやから、そもそも自分たちに有利なわけやけど、そんな有利さなど存在を否定しているというのが勝ち組たる所以なわけやから、結果的に下された判決によって自分たちの正しさが証明されたといってますます声高に正当性を主張し、信じ、周囲の人へ強要する。

正当性を自分で作り出し、その正当性によって自分の正当性を証明する。全くの下劣な循環論法なわけやけど、これが、まさにアメリカで昔も、今も、そしてこれからも起きていることなんに違いない。トランプを見ればわかるでしょう。

戦後の日本は親アメリカでやってきたから、こんな過激なことを言っても流行らへんことは間違いない。でもぜったいその通りやと、心の底から確信してる。こんな国が世界の最大勢力になってしまっているこの地球という社会は、ほんまに不幸な場所やというか、そんな国やからこそ世界の最大勢力になれたんやというか、もう何と言ってもとにかく嘆かわしい。

たった数ヶ月アメリカに暮らしただけでこんだけ憎悪の感情を植え付けてくれる国なんやから、どんな形であれこの国の論理に接したことのあるビジネスマン、社会運動家、兵士、学生、等等いろんな集団の中から、その論理体系を象徴する「文明」みたいな抽象的な概念を相手取って具体的な報復行動に出てしまう人が生まれるのも、全くもって理解できる。自分は例の障害支援室長を刺殺しにはいかないし、テロを起こすことが正当化されるわけじゃないけども、実際にそういう事件を無数に生んでしまって余りあるほどの不条理が、どう目を瞑ってもそこに見えてしまっている。全くほんまに、嘆くしかない。

ノートを取る困難

夢を見た。久しぶりに、ありありと記憶に残る鮮明な夢。とはいえその大部分はすでに忘れた。1シーンだけはっきり覚えている。

教室に座って、教師が講義をしながら黒板に板書をしている。講義は発達障害について。縦書きで右から左に書き進んでいく黒板に対し、自分のノートは左から右に進む。講義の内容は興味深くて、勉強になる。話に聞き入り、ふと気づくとまだ書き写していない板書がかなり溜まっている。大急ぎで書き写す。書き写し終わったと思ったら、講義はさらに前に進んでいて、新たにたくさんの分量の板書が溜まっている。話を聞こうとするとノートが取れず、ノートを取っていると話が聞けない。ノートを取ることに精一杯で必死になる。そのうち、右から左に進む板書と左から右に進む板書との間で頭が混乱してくる。

こんな夢を見て初めて思い出したけど、そういえば中学高校の時以来、ノートを取るのがすごく苦手やった。話を聞くこととノートを取ることが同時にできない。聞くことに集中しても100%は分からないし、それに全部を記憶しておくことはできないので、次善の策としてノート取りに集中する。話は、耳に入ったところだけ聞き、追いかけられない箇所は無視してノート取りに徹する。後で見返して勉強しよう、と思ってそうやるので、授業中にその場で理解して覚える人と比べて効率が悪い。

しかもノート取りそれ自体も、ものを右から左へ書き写すことが苦手やったのを思い出した。一度に覚えられる言葉の量が少なく、細切れになんども見返してチマチマとしか進めない。間違い探しをしている人みたいに、首を縦に振って黒板とノートを延々と見比べ続け、一語ずつ書き写していく。

ノートのレイアウトも、特徴があった。これは、板書から書き写すのではなく空中に浮いている話や状況をメモに取るような状況で特に顕著で、大学の時から顕現していたが、特に会社で働いた時に他人と比べて気づいた。余白を極めて大きく取り、インデントを何段にも積み重ねて、大きな文字で書く。B5のノート1ページに、下手をすると5行くらいしか書かない場合すらある。メモ帳のような小さなスペースにはノートが取れない。たまに、小さなメモ帳にびっしり、罫線に沿ってずらっとノートを書いている人を見かけたが、あれは絶対に無理。そういうびっしりのノートは、英語圏では特に普通やったように見えた。自分みたいなノートは日本では他にもやってる人を見たことがあるけど、英語圏では見たことがない。ベトナムでも、人のノートはびっしりやった。

これもやっぱり、言語を言語として理解する(びっしり書く)のと、視覚的に理解する(レイアウトこそ命)のとの違いなんちゃうやろうか。英語もベトナム語も、表音文字で成り立ってる言語の話者においては、視覚的に理解する人がずっと稀なはずや。

こんなこと、ほとんど意識したことがなくて忘れたけど、夢を見て思いだした。こんなところにも、自閉症的傾向が表れている。

憎悪

例の教員への憎悪が渦巻いてる。

人種差別者であり、自分の視点のみから相手をジャッジしていながら同時に自分の判断には微塵の疑義も挟まず、そしてその視点から相手を一方的に見下し、攻撃すると同時に、憐れむ。見下しているからこそ、相手には発言権を与えずまたそのことを正当と見做して疑わない。全てが、自分の考えから始まり、自分の考えによって自分を正当化し、自分の考えへと結論し、自分を満足させて終わる。その過程のすべてのステップにおいて相手は、道具として使われる。そこには相手の枠組みも、論理も、人格も、そして尊厳も、存在するスペースを許されていない。単なる失敗作として、低評価と批判と憐れみの対象になる。

そんな例の教員への憎悪が渦巻いてる。自分の中に、溢れる寸前まで満ちている。ややもすると溢れてしまって、具体的な復讐の行動を取る衝動にかられ、実際の行動の計画を考えてしまい、その思考から逃れられない。

なんでここまで憎しんで、忘れられへんねやろう。なんで、今立ってるところから前のことを考える代わりに、後ろのことを振り返って延々と憎悪に取り憑かれてしまうんやろう。

正当化、または後悔の念につけるクスリ

気持ちを整理するために、またここを使わせてもらう。

周期性なく時折、大学院を辞めたことが良かったのかどうかという疑問が、むくむくと蘇ってくる。絶対的に正しい判断というのがあるわけじゃないから、常に、理由を並べ立てて自分を納得させるか、説得に失敗して後悔の念に苛まれるか、どちらかになる。

辞めた直接的な理由は、まず精神的な健康状態が耐えられない(耐えるべきじゃない?)くらい悪かったこと。勉強のことを考えるだけで、胸が締め付けられるように苦しかった。とりあえず一旦勉強のことを考えないようにして、映画を見て過ごそう、と思っていたら、そうやっているうちに何週間も経ってしまっていた。基本的に休みの日が存在できないくらいキツキツの大学院生活では、何週間も何もしないというのは、ほぼそのまま落伍を意味する。何週間も何もできないくらい精神状態が悪くなってしまった理由は、まず第一に教員と障害支援室の悪魔的な猜疑・冷酷さのため、そして第二に、そもそも読書が全く話にならへんくらい追い付かへん(かつ、そのためにクラスの議論にもついていけへん)かったことから来たプレッシャー。

万一障害の認定を受けられたら、教員と障害支援室からの猜疑も取り払われるし、特別措置も可能やったかも知らん。大学の近くにあった心理学センターはその「障害」を審査できひんかったけど、いま自閉症の本を読んでいる限りでは、日本でちゃんとした専門家にかかれば自閉症スペクトラムの診断を得られたかも知らんと感じる。たとえば休学して日本に一時帰国して、日本の専門家に掛かり直せば、そういうことが可能やったかも知らん。

ただ、これには実務的な障壁と根本的な問題があると思う。実務的には、休学は最低1学期をちゃんとこなした学生にしか(少なくとも原則では)認められず、その1学期をこなすための学期末課題に(上述のとおり)全く手をつけられなかったんであるから、休学の申請をすることが難しかった。これは大学側に打診したわけではないから、もしかしてもしかしたら例外的に休学が認めらた可能性はゼロではないけど、でも判断主体になるべき学科長があの有様(あの手この手で蹴落とそうとする)やから、そんな情状的な考慮はされへんかったやろう。

そしてそもそも論として、万一、仮に猜疑も晴れて特別措置が取られたとしても、英語で勉強する限りは、読むのが他人の10倍遅いことそれ自体はそう簡単には改善しないやろう。日本語ですら、中学生の頃から意識的に速く読むように努めてきて、少しずつ少しずつ速くなってきたに過ぎない。優に10年くらいはかかっている。仮に特別措置があったとしても、ギリギリの仕事量を強いプレッシャーの下で3年間こなし続けないといけないことになる。これは、極度の苦痛やと思う。生まれ持った(?)困難さを押して、苦痛に耐えて努力することは、良いのかどうか、必要なのかどうか。少なくともこれまではやってきた訳やけど、そもそもその考え方を、見直すのがいいんじゃないか。

これには答えがない。広告会社や、戦略コンサルや、金融業で働いている人たちは、事実、そういう極度の苦痛を耐えてるのかもしれない。内面的な経験の問題やから、どれくらいの苦痛なのか、どっちの方が苦痛なのか、という比較はできない。他人と比べても、分からない。自分一人で、自分の心に問うて、判断するしかない。

自分の能力・不能力をうまく活かす生き方というのが、アメリカで大学院に行くこと以外に存在しているかもしらん。どういう基準で「うまく活かす」と呼ぶのか、それもまた極度に難しい。どれくらい苦しい道のりなのかだけじゃなくて、好みかどうか、楽しいかどうか、その道で目指せる達成レベルはどれくらいか、社会貢献の質とレベルは、経済的安定はどうか、それから、仕事以外の人生の要素との兼ね合い(家族や住む場所や気候や友人ネットワーク)、そういったもんを複合的に考える必要がある。

そういう複合的な、ほかの要素との兼ね合いのもとで、アメリカの大学院で学ぶ苦痛を考えた時に、どういう判断ができるか。勉強はやっぱりしたいけど、それだけを言うなら日本でやれば良い。日本語の方が圧倒的にハンデが小さい。アメリカで給料もらいながら博士課程をやるのと比べて日本では経済的に苦しくなるけど、幸い実家から京大には通えるし、日本にも学振制度がある。一方で、今後日本の外に住む可能性を考慮した場合、日本の学位よりもアメリカの学位の方が圧倒的に有利やろう。しかしそれも、日本の外に住んでかつ大学の職を求める場合というのは、自分一人で生計を立て貯蓄もするという訳ではない特定の状況のもとでしか、起きひんやろうから、だから日本の学位しか持っていないとしてもクリティカルではない。そもそも万一東南アジアの大学で職を求めるなら、日本の学位で十分やし。日本の外で、大学以外の職を求める場合は、そもそも人類学を勉強した時点で学位の出所はあんまり関係ないやろう。

つまり日本でやり直せば、勉強して生計を立てるっていう自分の望みも(相対的に)現実性があると同時に、それによって(アメリカでやるのと比べた場合に)犠牲にするものも、実はそこまで甚大ではない。アメリカでやるのは、あくまで付加価値といった感じか。入学も認められて給料までもらえる程度の(本来的な?)実力をもっていて、その付加価値を発揮できるはずやったのに、これを諦めざるを得ないというのは、どこまでいっても残念ではあるけど。でも人生、失敗や挫折があってなんぼやろう、きっとそういうことなんやろう。

翻ってそもそも、大学で勉強することが自分にとって良いことなのかどうか。これは極論やけど、まず勉強は自分でもできる。確かに、大学院に入り直した時は「やっぱり制度として押し付けられる課題や、歩くべきレールがあると、効率がいいなぁ」と思ったのは事実。でも今から振り返ってみればそれは逆に、自分らしい勉強ができひんということであり、そして、自分は特殊性を持った個人であるがために自分らしい勉強というのがとても必要なんじゃないか。

そして次に、研究を自分の生業にしていくのならば、読むのが遅いという特殊性にともなう苦痛は、一生ついて回る。仮にこれが克服が難しい困難なのであれば、その道を目指すことは、自分を苦しめ続けるだけなんじゃないか。読むのが遅いだけじゃなくて、抽象的な言葉は理解に苦しむ、という事実もある。一方で、以前からずっと書いているように、自分には、本を読むことよりも得意なことが多くある。苦手なことを選んで、苦しみながら楽しむよりは、得意なことを選んで、気持ちよく楽しんだ方がいいんじゃないか。

さらに極め付けは、研究職を目指していた理由は、(1)勉強できて楽しい、(2)本を書いて世に問える、のふたつであって、正直なところ「研究」それ自体がしたい訳ではなかった。一般的な考え方として(1)と(2)のふたつを総合して「研究」と呼ぶのだ、ということなのかもしれないけれど、いずれにしても、自分にとってはその二つが個別の活動として重要なんです。勉強するなら、人類学に限らず興味のあるテーマ・分野は幅広いし、本を書いて世に問うなら、学会に閉じられた研究書よりは一般向けの本を書きたい。二つが繋がっていれば、互いへのフィードバックとして効果的ではあるけど、自分の満足を満たす活動としてそのリンケージが必須であるわけではない。しかし実際上の仕事を選ぶにあたっては、この二つをうまく執り持ちつつ成立する生業として、研究職が一番ベターかな、と思ったんです。

 

さてそんなふうに考えて、辞めたことを正当化していくと、大まかに言って2つの選択肢が浮かび上がってくる。ひとつは日本の大学院に入り直すこと。もうひとつは、自分が「気持ちよく楽しめる」全く別の職業を探し出すこと。前者は、アメリカよりマシとは言えやはり少しの苦痛を何とかマネージするべきやろうという発想。後者は、普通に世の中に転がっている職業の中からは見つからんやろうから、一発大博打みたいなもので、道無き道を自分で作り出す必要があるんじゃないか。

 

こうやって整理するとまた少し落ち着いた。これにより引き続き、自閉症についての本を読んで、自分の特徴について理解を深めていかんとするわけです。

人の気持ちがわかる事、分からない事、分からない結果として超絶わかるようになってしまった事

「人とのコミュニケーションが苦手。」

「どこがや。むしろダントツやわ。」

 

という会話を、これまでの人生で何回繰り返したか知らない。もちろん自分は、1行目のセリフを言う役。

しかしそんな会話をしながら、なんでコミュニケーションが苦手なのか、それが自分にはなかなかピンとこなかった。何か、コミュニケーションのエッセンスのようなものが、自分から欠けている。それはもしかすると、人間の人間たる所以の欠落、もしくはその一部分の欠損ではないのか、という気すらしてくる。しかし説明できない。

自分でもわからないので、相手に通じなくても文句は言えない。まるで存在しない問題に対して不平を並べ立てているかのように誤解され、無言の誹りが充満する。それを無言で耐えながら、それ以上どう説明のしようもなく会話は尻切れトンボに弱く、細くなっていく。《そう言うなら、説明してよ。》という無言の声は、《説明してくれないと分からない。》に変わり、そしてすぐに《分からせてくれないなら、存在しないと同じになってしまう。》へと変わる。自分自身は、これまた無言で《うまく説明できないけど、それはほんまや。》と言い、《説明できひんかったら、どうせ信じてくれへん。》と言い、そのまますぐに《こうやって、自分はまたコミュニケーションがうまい人ってことになるんや。誰もわかってくれない、誰にも伝えられない。》と言う。

そういう無言のやりとりが何回も繰り返された。それを繰り返した回数だけますます、自分はコミュニケーションが下手やという絶大な信頼は、より強固になった。それと同時に、コミュニケーションが上手いのに下手なつもりでいる変な人、という周囲からの懐疑も、ますます膨らんだ。

アメリカの大学院を諦める直接的な原因となった極端に遅い読書スピードと、それと関わっているように思えてきた人生の様々な(些細な)経験とについて前回書き、いろんな友達からアイディアを貰ったところ、その中にひとり「自閉症では」と言った人がいた。自閉症について書いたウェブサイトや本を読んでいると、確かにこれは、自分のことを書いているみたいや。ただし日常生活が送れないような深刻な自閉症とは違って、あれや、これや、自閉症者に見られる細かな症状が、それぞれ程度を落として自分の生活にこっそり(でも至る所に)出現している。いわば、自閉症のミニチュア版みたい。専門的にはおそらく、「非障害性の」自閉症スペクトラムと呼ぶんやろう。

そもそも「自閉症」というのは、専門的には既に廃止された用語らしい。いまは「自閉症スペクトラム障害」という。紫から赤までの色とりどりを纏めて「虹」と呼ぶように、自閉症スペクトラム障害にも色んなのがある。しかもややこしいことには、例えば「虹の中に橙色はあるのか」問題のように、内側での症状の区別や定義が定まっていないということ。さらにいえば、赤の外と紫の外にも、人間の目に見えていないだけであって、赤外線と紫外線がある。自閉症スペクトラムもそれと同じく、たまたま見える症状と、気づかない症状との間には、恣意的な区別しかない。そして最終的には、虹って結局、地球上に満ち満ちている「光」というものが、ちょっとした加減で特別なモノのように見えただけですよね、結局それは光そのものなんですよね、みたいな話になる。自閉症スペクトラム障害も、じつは人間の本性そのものがちょっと違った形で見えているだけなんじゃないか、という考え方が出てくる。

 

そういうわけで、フェイスブックのコメントで色んな人がさんざん「それは私も同じよ」「程度問題なんじゃないか」「だれしもそんな感覚を持って暮らしてるんじゃないか」と書き残して言ったのは、ごくごく理解できることであり、そして正しいことなんやと思う。

しかし、それは正しいことであり、同時に、正しくないんです。これはちょっと難解です。一つ一つの症状を取って見た場合、たしかにそれは「程度問題」に過ぎず、多くの人に共有されている「問題」かもしらん。でも色んな症状を総合して考えたり、また本人が生活する上で不便や苦痛を感じているかどうか、それの程度はどれくらいか、といったことを考慮し始めた時に、自閉症スペクトラム障害の射程に入る人と、入らない人とが分離し始める。

自分自身の場合、精神科の診察を受けたとしても、自閉症スペクトラム障害の診断が与えられない可能性は十分にある。なぜなら、日常生活に支障をきたしている程度が、そこまで大きくないから。しかし、何をもって「日常生活に支障をきたしている」と定義するのか。自分にとっては、支障をきたすギリギリの場面がしょっちゅうあるし、少なくともヒヤヒヤしたり失敗して後悔したりする苦痛は間違いなく存在している。それを「気にしすぎ」と呼ぶ人は、もちろんいるやろう。そこはもう、医者の判断次第なのでなんとも言えない。でも何であれ、自分にとってこれはもはや明確に、スペクトラムに掠っているか、内側です。虹で言うと、赤外線と赤色の境目ぐらい。「んーー、あそこは赤か??いやぁぁー、んー、難しいぃぃ、わからん!!全く透明と断言する自信はあんまりない。まぁギリギリ赤やろ」ぐらい。

 

前回の投稿の中でもとりわけ、「人の気持ちがわかってしまう」件が、人々の心中に有声無声の波紋を広げたことでしょう。《これは本気ではないやろう》《筆の勢いが余ってここまで書いちゃうのも、まぁ状況が状況なので同情してあげる》《いやまてよ、そんなこともあるんかな、いやないやろう、いやどうなんやろう》《人の気持ちがわかったつもりでいる。どんだけLOVE & PEACEやねん》とか、人々は思ったことでしょう。

あれから自閉症についての本を読んでさらに考えた今となっては、もっと正確に書けそうです。

混乱させてしまいますが、まず僕は、人の気持ちが、全然わからないんです。始まりはこれです。

自閉症の本を読んで初めて知ったんですが、世の中の人は普通、互いに何となく相手の気持ちを感じ取れるものらしいですね。しかしそれはどこまでいっても「何となく」であり、もちろん最終的には「他者は他者」なんでしょうけど、でも出発点には常に「共感」がある。のですか?そうなんですか?

「そうなんですか?」と言われても、そうとも違うとも答えられないでしょう。これが、難しいポイントです。でも僕の経験的には、人々は「常識的に」相手が嫌がる「であろう」ことはしない(ことになっている)し、相手の「気持ち」を考慮に入れてどんなことを言うべきで言わないべきかを、ごく「普通に」知っているようです。よね。そうなんでしょう?

もちろんどんな人も間違って相手を傷つけるし、顰蹙を買うこともある。が、僕から見るとみんなは、それを避けるための天性の才能を持っているように見えます。僕にはそれができない。この能力を、仮に「直観」と呼ぶことにしましょう。ぼくはこの「直観」が無いです。もしくは弱いです。

直観が無いとどうなるか。相手と話をしている時に、自然にわかってしまうはずの相手の気持ちがわからない。コミュニケーションというものが、その直観能力を前提として成り立っているとすると、このときコミュニケーションは破綻します。しかし僕は破綻したコミュニケーションを見ると、それが破綻しているとわかります。それは気持ちの問題ではなく、ものが正常に動いているか壊れているかの問題だからです。

おそらく自分のせいでコミュニケーションが破綻したのを見るのは、辛くて、嫌なので、避けたいです。人間には、直観能力の他に、知性・知的能力がある。知性とはつまり、観察して、演繹して、帰納して、結論して、応用する力のことです。この知性については、幸いに僕は欠落していなかった。むしろ、平均より優れているかもしれません。直観がなく、(高い)知的能力だけあるとき、もちろん問題を知的能力で解決しようとします。

人の感情と行動との間には、大抵ある程度のリンクがあります。怒った時は怒った顔をするし、嬉しい時は嬉しい顔をする。これは突き詰めていけば、もっともっと微妙な感情や些細な表情についても言える。でもそれはすごく微妙で読み取りが難しいので、普通の人はそんな微妙な感情と些細な表情の変化との間の相関については、特段の注意を払わないんやと思います。そのかわりに普通の人は、ごく常識的な、直観的な共感能力に従ってれば、相手の感情が何と無く想像できるし、それ以上立ち入った深く正確な共感というのは不要なんでしょうきっと。しかし僕にはその必要がある。直観がないから。

どんな知的技能もそうであるように、相手の感情をその行動や表情から読み取る技能は、訓練で向上します。普通はその訓練をする前に直観に頼ってしまうから、訓練するのが難しいんじゃないかな。僕は直観がなかったおかげで、生きること(社会的に生きること)が、その訓練をすることと一体になったと思う。

しかしその訓練と実践は、疲れます。相手の声のトーンが少し変わるだけでそこに感情を読み取ろうとする。語彙が少し変わるだけで何かを読み取ろうとする。声の大きさが変わるだけで。口角が少し上がっているだけで、少し下がっているだけで。目が少し見開かれるだけで。左手の指で右手の指を触っているだけで。姿勢の傾きが少しいつもと違うだけで。これらの観察と読み取りには、正解はひとつではない。答え合わせも、ほとんどの場合できない。 無限に観察を続け、無限に自問し続け、無限に仮説検証を試み続ける。そして正解やったと思えるごとに喜び、間違っていたと思えるごとに(そのために引き起こされた実際上の失敗とともに)落ち込む。

そしてこの技術は常に、現実に対して後追いです。事前に感情を予期することはできず、既にそこに生起している感情を事後的に読み取ることしかできない。したがって、どれだけこの技術が長じても、依然として顰蹙は買うし、かつ顰蹙を買ったことは自分の目がありありと察知する。その結果、失敗に落ち込む。

僕が「コミュニケーションが苦手」というときの「苦手」の意味は、もっと突き詰めれば、「果てしなく疲れるのに、結局最後はよくわからんで終わるし、そしてよく失敗を叩きつけられる。こんなこと、何故しなあかんの」ということやと思う。

しかし、果てしなく疲れながらも終わりのない仮説検証を繰り返し自分を訓練した結果、本当に微細な表面上の様子から、相手の気持ちがかなりの程度わかるんです。 そしてその「わかる」程度は、たぶん既に、普通の人たちが直観によって「わかる」程度を凌駕していると思います。だから、前回の投稿で書いたように、「相手の気持ちが手に取るようにわかってしまう」んです。前回投稿執筆時点では、こんな仕組みについて、これっぽっちも理解してませんでした。その後勉強して、わかりました。

成果としては対戦相手を凌駕していても、その仮説検証は終わることがないんですよね。何故なら、直観能力で気持ちが普通にわかってしまう時のような、「腑に落ちる」感覚がないから。だから僕のその「超能力」は、これからも進化を続けます。しかしどこまで進化を続けても、疲れるし、「やっぱりよくわからん」という最終的な結論はいつまでも変わらない。このことを、できれば周囲の人には知ってほしいと思っています。

 

ちなみに、学習能力検査で視覚的な認知能力が非常に高かったのは、これと関係してると思います。因果関係はどちらが先かわからないけど、あえて言えば相互のフィードバックやと思う。目で見て理解する能力が高かったからこそ、コミュニケーション能力の欠落についてそういう補い方が可能になり、そういう補い方が必要やったからこそ、目で見て理解する能力が研ぎ澄まされたんじゃないかな。

そして読書スピードが(特に英語で)遅いのは、このことの副産物という側面があると思う。視覚的な認知能力が高いから、ついそれに頼ってしまう。表意文字なら視覚的な文字が意味になり、表音文字なら、意味をまず視覚的イメージに変換して、その視覚的イメージを見ることで意味を理解する。28年間それでやってきた結果、もはやそういう読み方しかできひん。

他の人がどういうふうにものを読んでるのかは未だによく分からないんですが、おそらく、言語的な意味をそのまま言語的に理解してる(というか、それが出来る)んじゃないんですか。情景やシーンを描いた物語のような文章なら、その情景を思い浮かべるという意味で、僕も他人とそんなにプロセス・速度が変わらないと思います。が、抽象的な言葉や議論になると、僕と他人とでは読むプロセス・速度が異なってくるみたいです。僕は言語を、視覚的な図とか図形とか形とか空間模型とかに変換しているように思う。そのためにいちいち時間がかかる。いろんな人に聞きまわっている限りでは、どうもこれは特殊なことみたい。普通は、言語を言語的にそのまま(ってどういうことなのか不明やけど)理解しているよう。

しかしまだよく分からないことはいくつか残ってる。

 

1.自分自身も、英語と日本語では明らかに文字情報の処理プロセスが異なってる。日本語で読む場合は、視覚的な文字情報がそのまま意味に繋がってる感じがする。だから、その処理方法が他の人の読む方法と異なっているのかどうか、よく分からん。周りの人に聞いて回ったのは基本的に日本人なので、英語で読む場合に皆がどうやってるのかについては、正確には分かっていません。もし、英語運用をすごく訓練したか、あるいは日常的に行なっているような、「英語は自分自身の一部ですよ」という人がこれを読んでいれば、是非訊いてみたいです。

 

2.人とのコミュニケーションにおいて「直観」が働かないことは、文字情報を読むときに「言語的」処理が働かないことと、関係してるんやろうか。

ここで皆に訊いてみたいのは、人の気持ちをなんとなく直観的に想像したり理解する(「わかる」)ときの処理プロセスは、言語的ですか。分かるために言語を使っていますか。

「言語をつかう」というのが具体的に何を意味しているのか、と逆に問われそうですが、それは僕には分からないんです。なぜなら僕は言語を使って何かを理解することが、(たぶん)皆無だから。自分ではしたことがない行為・できない行為について理解を深めようとしているんです、なので「その行為というのが何の事を指しているのか分からんから、もう少し説明してくれ」と言われても、「いや、それを訊いてるんです」としか答えようがない。

 

これは一体なんなんや。この自分の中にある、特殊なような普通なような、良いことをしているような悪さをしているような、大きいような小さいような、掴み所のないこれは。

来週の火曜日には、関西空港に着陸しています。今は何もせず、出発の日を待ちつつ、毎日ゆっくり荷造りをし、小説を読み、映画を見て、たまに人と会っています。

アメリカで受けた学習能力検査で、読むスピード(英語)が「1パーセンタイル」(=「100人の平均的な集団において下から1人目」)と出た件について、自分の感じるところを一回言葉にまとめておくと便利な気がするので、ここに書くことにしました。

 

小学生高学年か中学生くらいの頃に初めて、周囲の人(同級生や家族)に比べて自分の読書スピードが遅いことに気づいたと思う。

一、「週刊少年ジャンプ」や単行本の漫画を読むのが、兄と比べて明らかに遅かった。「お前まだ読んでるんか」みたいな会話があった気もするし、兄のことを横から見てると、一瞬で読み終わってるのが不思議やったのを覚えてる。

二、中学校の電車通学時間に読む小説や新書が、なかなか読み終わらんくて疲れた。これは特に母親との比較で気づいたと思う。母親は通勤の短い時間で次から次へと小説や新書を読破し、どんどん本棚に積み重ねて行く。これに対して自分は、一つの本を読むのに何週間もかかり、しかもすごく疲れる気がした(何週間もかかるというのは実際そうであったけど、疲れたというのは人と比較しようがないので未だによく分からん)。また、図書館で借りられる本が2週間で返却しないとあかんことが、ほんまに意味不明やった。どうやって2週間で読み切るんやろう、と、全く不思議でならんかった。

三、学校の国語の授業で、教科書やテキストの一節を精読するという時間があった時に、「はい、じゃぁここからここまで、今読んでみてください。」という指示が先生からあると、数分経って「はい、もうみんな読めたな」となる。見回してみると自分以外の生徒は皆、当たり前のような顔をして前を向き直ってて、確かに「みんな読めた」としか思えない雰囲気が支配している。が自分はまだ半分くらいしか読めてない。こういうことが何回もあったので、同様の指示の時は大急ぎで読むようにしたけれども、それでも間に合ったことはなく、途中までしか読めないか、流し読みのようにしてギリギリ最後まで辿り着き内容がよくわからないか、どちらかやった気がする。

四、進学校やったんで、よく模試を受けた。その度に、現代文のテストを解くのに時間が圧倒的に足りひんかった。普通に文章を読んでると、問題を解く時間が全く無くなる。ある時点で「出口の現代文」とかいう参考書をやり始めて、効率的に読解する技術を身につけたおかげで、比較的問題は軽くなった。学校の中間・期末試験についても同様の時間不足問題があったのかどうかよく覚えてないけど、普通に考えてあったはずや。それか、授業で扱ったテキストから出題してたとか何とかの事情で、問題が軽かったんやろうか。

こういう問題は中学生の時から大学受験までずっと続いた。大学に入ってからは、高校までみたいにカチカチに時間を設定された中で勉強をするということがなくなったから、あまり感じなくなった。が、今から振り返ってみると問題はいっぱい起きてた。

五、自分は学期中・休暇中を問わず興味のある本をずっと読むよう努力をしていたし事実そうしていた。その反面、大学の授業のために買った教科書や本はほとんどが全く読まないまま積み上がっていたし、真面目に勉強しようとしている同じような志向性の友達と比べて自分は全然知識が無いなぁと常に感じていた。さらに、バイトやサークルよりも勉強を優先したいとの気持ちから、バイトもサークルも他の人より少ない量しかやっていなかったので、時間は多くあったはずであり、それにもかかわらず上記のように読めない本が積みあがったり知識量が少ないと感じていたことは注目に値すると思う。

六、それなりに頭は悪くないはずやけど、抽象的な現代思想の本が全く理解できひんかった。人類学が自分にとって面白いと思えたのは、高度に抽象的な思想を扱っていながら、同時に具体的な言語や事例を通してそれを議論しているから、従って理解が可能やったから、なんちゃうやろうか。ただし、現代思想みたいな本は誰にとっても苦労するものやと思うから、これだけを以って何かが言えるわけでは無い。が、あとで詳しく書くような、文章理解をする時に僕が行ってる質的に特徴的な方法が、これと関係しているかもしれない。

七、ここ数ヶ月で初めて気づいたことやけど、英語で文章を読むときと日本語で文章を読む時の自分の理解の仕方を比べると、明らかに違いがある。英語では、単語ひとつひとつ、節ひとつひとつにつき、いちいち書かれてる内容を情景とか具体的な絵へと頭の中で変換して初めて、意味内容が分かった気になれる。そうしないと、情報が何も頭に入ってこない気がする。そうしないと、文字の羅列が単なる模様に見えてる気がする。(「単なる模様に見える」というのは、実態からわずかにずれのある表現のように思うけど、これ以上正確な表現が思い浮かばない。)一方で日本語で読む場合は、文字(特に漢字?)が、絵としてそのまま意味にリンクしてるみたいに感じる。文字から情景、情景から意味という回路を経ずに、文字(=絵)から意味、という風に直結している感じがする。したがってその分、処理が早くて、英語で読むよりも日本語で読む方が早く読み進められる。

 

さて以上が、直接的に「読書」に関係するこれまでの経験。このほかにも、問題の根本において深く関わっていると思われる事象がいくつかある。

 

一つ目は数字・計算。

一、小学生の時から大学受験まで一貫して、算数・数学が苦手やった。中学受験では、1年かけてコツコツ勉強した結果、最終的には算数も別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならなかった。大学受験では、かなり苦労してコツコツ勉強した結果、やっぱり別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならんかった。

二、中学受験・大学受験に共通して言えることその一。まず、常に計算ミスが頻発したこと。中学受験の頃は「ケアレスミス」という名前で呼ばれていて、そういう名前があるから普通のことやという感じがしていた。大学受験の時も計算ミスは起こしがちやったけど、訓練をする中でよく注意する習慣を身につけたおかげで、最終的にはそこまで多くはなかったと思う。が、計算ミスをしがちな傾向それ自体は最後まで変わってなかったと思う。最後まで、計算ミスをしていないかチェックするときの精神的な緊張感はすごいものがあった。

三、中学受験・大学受験に共通して言えることその二。計算ミスをする理由でもあるんやが、数字自体を思うように操れない感じが常にした。例えば簡単な暗算や筆算でも、一桁の数字と一桁の数字を操作しようとすると数字が手のひらからスルスルとこぼれ落ちるような感じがして、前に進めない感じがすることがよくある。例えば、8+7を計算しようとして、答えは15かなぁ、と思うけど、なんかよくわからんくなってくる。数それ自体を、どうやって計算すればいいのかが、わからへん(今もわからへん)。代わりにどうやって計算するかというと、まず8を5と3に分解し、次に7を5と2に分解する。出てきた5と5を足して10にした上で、2と3も足して5にし、最後にその10と5を足して15やと確認する。もちろんこの過程を全て鉛筆で書くわけではないけど、頭の中ではこういうプロセスを経る。いつも経るわけではないけど、スルスルと数字が手のひらから抜け落ちる感じがするときは、こういうプロセスを経ないと前に進めなくなる。なぜ5とか10とかを作ると安心する(自信が持てる)かというと、それがブロックのように見えるから。頭の中で「5」の大きさのブロックがあって、これを積み重ねて積み木みたいにして、最終的に出来上がった積み木の高さを見て「15やな」と言っている。そういう感覚。8を5と3に分解できたのはなぜか?という疑問も浮かぶけど、ほんの少しの程度なら数それ自体の計算ができるのかも知らんし、もしくはもうルーティンとして記憶してしまってるんかも知らん。自分としては、後者である気がしてならない。事実、8+7が15かなぁと最初に思うことそれ自体も、(ブロックの積み木による)計算の結果では無く、まず記憶として(覚えてしまっていて)処理している気がする。九九と同じ仕組みで。

四、学校の勉強に限らず、生活の中での数字の計算も難しい。しかも、学校でやる数字の計算は長年の訓練を経たおかげでルーティンとして身についた一方で、普段の生活の中で直面する数字の処理はそういう訓練を経ずにいきなり現れるものが多いので、実のところこっちの方が辛いことが多い。例えば買い物の時の会計計算、お釣りの計算、そういった計算が辛い。毎回、桁が違うし、求められるスピードも場面ごとに違うから、なかなかパターンとして確立して訓練できない感じがする。あるいは、アメリカに来てすごく思ったのは、チップの計算ができない。会計の15%とか20%を適当に(大雑把でいいから)計算してチャチャっと書くというのが、全くできない。何を手掛かりに計算をし始めればいいのかすらわからなくて、固まってしまう。で、半年くらい生活したらだんだんパターンがわかって来て、機械的に10で割って2をかけたら20%、みたいな定型式に当てはめるようになった。つまりここで行ってるのは、数それ自体の計算では無くて、パターン化されかつ視覚化された(0を一つ減らす、2倍する)プロセスに過ぎひん。

 

二つ目が、仕事の面。これについては、自分が他人と比べて特殊やという自信は読書スピードや数字の計算についてよりは弱まってきて、「これももしかして関係してるんちゃうの?」という程度。

一、飲食店でアルバイトしてる時、仕事をなかなか覚えられへん。ルーティンの、しょうもない仕事。この注文の時はこうする、あの注文の時はああする、これはここにある、あれはあそこにある、そういうの。しかし逆に自分の部屋の中のものが具体的にどこにあるかは、視覚的に明確に覚えていることが多い(あの棚の上から何番目の段の右端のあれそれの裏に、あれそれと一緒になって袋に入れてある、とか)。後で書くけど、視覚的記憶に頼れない場面(手続きを覚えること)とか、自分で置いたのではないものが一つ一つの印象が薄くてどれもこれも同じに見えてしまう時とかにおいて、どうしても情報をうまく手のひらの中にとどめておけないんちゃうやろうか。数字がヌルヌルと手から滑り落ちる感覚と似ている気がする。

二、同じく飲食店のバイトで、言われた注文を覚えられへん。言われた瞬間に必死に頭の中で反復して、もしくはその場でその瞬間にメモをとって初めて、厨房に伝えられる。ちょっとでも同時に何かを言われてしまい頭の中の反復ができなかったり、メモを取る手が塞がってたりすると、たちどころに注文を忘れてしまい、聞き直しに行くか、間違えて伝えて怒られる。反復して覚えようとする時は、頭の中で声に出して言ってその音を頭に焼き付けるか、もしくは頭の中で文字として書いてその画像を頭に焼き付けるか、どちらかしか方法がない。それ以外、どういう風に記憶を留め得るんやろうか。みんなどうしてるんやろうか。

三、2年間働いた行政機関で、内部で使っていた或るシステムの使い方が、2年間かけて結局わからないまま終わった。一応「一番大事なシステム」ってことになってるんやけど、あれやこれやで使わずにすませたり、適当に操作してなんとなくごまかしたり、いちいち周りに聞いたりしながら、結局よくわからんまま終わってしまった。「あのシステムはすごく使いにくい」という感想は一般的な感想としては周囲と共有できたけれども、「全く使い方がわらかん」というレベルの人は(ほとんど)見たことがなかったし、周りの人は「使いにくいよね」と言いながらも「まぁそんなもんや」程度に思ってるようやった。自分としては、全く使い方がわからず、みんながどうやって仕事をしているのかほんまに意味不明やった。どうやって次から次へと本を読破して積み上げていくのか、ほんまに意味不明やった時の感覚と、似ていなくもないかもしらん。

四、(加筆)これは仕事に限らず日常生活で、人の名前と誕生日を覚えられない。誕生日は別に覚えなくてもいいけど、名前がどうしても覚えられないのが辛い。初対面の人に名前を聞いて、5秒後には忘れてる。「あぁ、山田さんですね」と言った瞬間から始まり、その次の会話の交換をするまでの瞬間までは覚えてるんやが、何か次のことを考えた瞬間にもう忘れてる。この忘れている感覚は、全く何かの魔法にかかったかのように、その部分だけ綺麗さっぱり消えていて不思議な感じがする。これを忘れないためには、何回も何回も必死に頭の中で反芻する。もしくはメモを取る。たまに、相手の名前を一回聞いただけでその会話中ずっと覚えている人を見かけるけど、どうやってるんかほんまに謎。あと、「どこに住んでるんですか」みたいな、会話の最初にする形式的なやりとりについて、会話の最後の方に綺麗さっぱり忘れていることが多く、「〜〜です」「あ、ごめんなさいそれ最初に聞きましたね」というのをよくやっちゃう。話題が移り変わるに連れて、前の話題の記憶がどんどん綺麗さっぱり塗り替えられていってしまう、そういう感じがする。

 

三つ目が、自分が極端に得意な分野がいくつかあるということ。

一、目の前の人が感じていること、考えていることが、手に取るように分かる気がする。ほんまに正しく分かってるんかどうかは分からん(普通は確認のしようがない)けど、ものすごく生々しく相手の気持ちが感じられる(そういう気がする?)。まるで超能力のようやと、自分ですら感じる。

二、視覚的・空間的なメタファーに変換できる論理・主張・議論は、ほかの人より圧倒的に理解が早い。逆に自分が頭の中に持ってる視覚的・空間的なメタファーやそれに基づくアイディアを人に説明しようとすると、全然話が通じなくて、なんで分からへんのかが分からへんということがよくある。また、自分にとってはすごく単純でプリミティブですらあるように感じる自分のアイディアが、いざ人に対して言葉で説明しようとしてみると、とんでもなく複雑で厚みがあって非常に多くの言葉を要するものであるということに気づく、といったことがよく起こる。この場合明らかに、頭の中にあるときにはそのアイディアは言語という形をとっていなくて、視覚的・空間的なメタファーとして一目で理解されているから、そのせいで単純でプリミティブに思えてしまうんやと思う。例えば絵画を見るときに、誰かに対してそれを説明する必要がないなら視覚的に一瞥で理解できてしまう一方で、もしその内容を(細部や構造を言語化しながら)説明するとなるとすごく労力を要するやろう。それと似た感じ。

三、言語の習得が異常に早い。英語もベトナム語も、異常なスピードで身についた(ただし努力も人一倍した)。ほかの(まともに勉強したことない)言語も、相手が発した言葉とか、関連する別の言語の語彙・文法からの類推とかによって、その場で学び取って真似をすることで簡単な文章や意味内容を組み立てたりして、即興で意思疎通を図ることができる。そういうことをやったことがある言語は、タガログ語、イタリア語、ベトナム山地の名前も知らない少数民族の言葉、タイ語ラオ語、フランス語、(多分)ヘブライ語、中国語(これは一応勉強した)、などに及ぶ。これも、なんでこんな器用なことができるのかよく分からず、超能力みたいな感じが自分自身でする。特に発音を真似できることについては、なぜか相手の口の中の動きや筋肉の使い方が問答無用に「感じられ」てしまい、手に取るようにわかる。ほんまに不思議。

四、文章を書くのが得意なこと。幸いにも、文章を書くと読み手から褒められることが多い。大学の卒論で優秀論文賞みたいな表彰をしてもらえたのも、勉強がよくできたからではなくて、(準備に時間をかけたことに加えて)文章を書くのがうまかったからやと思う。何十ページもある議論全体が、いわば一瞥のもとに全て見渡せている感覚があって、それを丁寧に順番に言葉で説明して言っただけ、という感じがする。

 

 

さて具体的な事例はこれくらいか。こういう事例を思い返すことによって、自分の中で何が起きているのかという自分なりの理論を考えてきた。

数みたいな抽象的な概念を、その抽象的な概念としてそのまま理解・記憶することって、みんなはできるんやろうか。「259+18」とか言われたら、その意味を数概念のまま処理することって、みんなには可能なんやろうか。自分にはそれができない。この概念を処理する方法は自分にとっては二つしかない。一つは筆算(一桁足す一桁の計算の繰り返し)に分解するというもの。そしてもう一つの方法は、259と18を積み木ブロックに見立てて、頭の中で積み木を組み立ててその高さを測り、それを答えとして導出するというもの。しかし一桁足す一桁の計算それ自体もブロックに見立てるしか解く方法がないから、結局同じや。筆算にした場合はブロックの見立てを何度も(一桁足す一桁の操作の回数だけ)繰り返す必要があって、その分時間もかかるし混乱もするので、結局259と18のまま積み木ブロックに見立てて一回で済ませる方が効率的や。そういう訳で結局、こういう類の暗算は、まず18から「1」だけ259の方へ持ってきて(9+1=)10のブロックを作り、250と足して260を作り、その上に17を積み上げて260+17=277と答えを出す、というような回りくどいプロセスによって処理するしかなくなる。

数に限らず、どんな情報を処理・記憶するにしても、視覚的・空間的なメタファーが必要になってしまってるんじゃないやろうか。

漢字なら文字の視覚情報が意味に直結する反面、アルファベットで出来てる英語を読むときは一々情景を思い浮かべながら読むしか方法がないのも、これに合致する。日本語を読むときでもほかの人より遅いのは、漢字の視覚情報があってもやっぱり情景を思い浮かべるというプロセスをある程度頼らざるを得ず時間を取られるからではないか。

民族誌(具体的事例を通した議論)を用いる人類学の本がすっと腑に落ちて理解できた反面、(内容的にはかなり近しいことを言っているはずやけど、常に抽象的な表現をする)現代思想の議論がまったくチンプンカンプンやったのは、議論を具体的な情景に変換して読めるかどうかの違いやったんちゃうやろうか。

バイトのルーティンや仕事のシステムを覚えられないのは、物事の手続きや流れをそれ自体情報として処理・記憶することができなかったからちゃうやろうか。何らかの視覚的・空間的メタファーでしか情報を処理できないが、ルーティンやシステムの仕組みというのはそう言ったメタファーに変換しにくい。数的な情報とタイプが似ている。

受けた注文を覚えられないのも、それが無色な名前の羅列に見えたからちゃうやろうか。もし一つ一つの注文につき実際の料理の盛り付けを想像していたら覚えられたやろう。しかしそれではいちいち時間がかかりすぎるので現実的じゃない。「唐揚げ」と言われたら鳥唐揚げが五つ皿に乗って横にレモンが置いてある情景を思い浮かべる、なんてしていたら、次から次へと客が料理の名前を言ってくるから、間に合わへん。

目の前の人の気持ちや考えていることが手に取るようにわかるのは、相手のごく微細な表情とか振る舞いに対して視覚的に敏感で、それが示唆する内面的な動態を感じるとることができるからなんちゃうやろうか。その視覚情報と内面的な動態との間の相関が正確かどうかは、あまり問題じゃない。微細な視覚的情報に常に意味を見出してしまう、という自分の認知的特徴が重要。

文章を書くのが上手いのも、もしかしたら、頭の中の考え(=書くネタ)が非言語的な形をとっているから、それを言語化するときにほかの人と違う何かが起きてるのかもしらん。

外国語の習得が早いことについては、何か関連があるのかどうかよく分からん。でも、例えば赤ちゃんが言語を習得するときには、初めには何も言語がない状態で習得する(つまり言語以外の認知能力をベースにして言語を習得する)んやということを考えれば、仮に自分が視覚的・空間的メタファーで全てのものごとを認識しているんやとすれば、何か関連があってもおかしくないように思う。

 

誰か、僕の中で何が起きているのか、この認知的特質は一体なんなのか、知っている人はいませんか。もしくは、知っていそうな人を知ってたりしませんか。

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