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なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

人類学説史を勉強するおもろいやつ、中二病に付き合わされてるホトホトうんざりなやつ、それから方法論を勉強しつつ自分がここにいる意味について考えるやつ

大学院課程

授業は3つあるんですが、一つは人類学の諸学説を(古典を中心に)ひととおりさらうやつ、もう一つは方法論を学ぶやつ、そして最後はちょっと(かなり)変わった特定の理論サブ分野を学ぶやつ。一つ目のやつは先生が非常に上手くて、毎週コロコロ変わっていくテーマの間に見事に関連性が見えてくる。これは非常におもろい。毎週ワクワクする。だいたい読む文献自体が、前から「あぁ、時間があったらこういうのも読みたいのになぁ」と思ってたやつばっかりやから、読んでるだけで普通にテンション上がる。

二つ目は他の学生の間では評判悪いけど、ワークショップ形式やし、個人的に共感の持てる方法論スタンスやから好き(おそらく他の学生はあんまり共感持ってない)。ワークショップっていうのは、一学期の期間中に身の回りを舞台にプチ民族誌研究をやるというもの。

三つ目は、モノと物質性とそのモノの「力」を研究すると言う、最後にはツボを売りつけられるところで完結するんちゃうかというような謎の授業。この三つ目にはほとほとうんざり。人類学というのはその名の通り、人間(のあらゆる側面)に関心のあるひとたちが有象無象に集まってできてる学問分野なんです。この「モノの人類学」というのは、要するにその人類学の中で「革命」を起こしたいという、中二病なんです。プログラムが始まって最初の必修授業で中二病の相手をさせられるのは、自分で自分に同情する以外の対応方法を思いつかん。

とはいえ、これを自分にとっても面白い切り取り方でエンジョイする方法は無いわけではないので、そういうふうになんとか気持ちを整理して頑張ってます。人間への関心というのは、その反対物としてのモノへの無関心から始まっていたり、あるいはモノが人間らしさの形成に与えてる影響も重要になったりするから、改めて「モノとはなんぞや」と問いかける(それ自体ではただの中二の)論文を読むことによって、なるほど(逆に)人類学における人間への関心っていうのはあんな風やこんな風に成り立ってたり意味があったりするんやなぁ、と考える良いきっかけになるんです。それにしても、モノそれ自体がvibrant(振動している)なのダァー!と目を輝かせて語ってる本や、ましてそれを嬉しそうに読んでる先生や学生を前にして、一体どうしようかと思ったわ。椅子(モノ)は椅子やろ、振動してたら困るわ!!量子力学研究科か眼科か、どちらかに行ってください。

まぁこんな風にいうとただのアホみたいにしか聞こえへんので混乱すると思うので、一応もうちょっと文脈を説明すると、要するにこれはアナロジー的な(もしくはレトリカルな)事象分析をどれだけ遠くまで進めてしまうか、という問題です。人間のあらゆる言明は全て、程度の違いはあれ全てある種のアナロジーですが、一般的に受容可能なレベルの(普通はアナロジーとは認識されない)アナロジーもあれば、どう考えてもただの詩かツボ売り商売にしか聞こえへんアナロジーもあります。この一般レベルと極端レベルの間の境界というのは、いわば文化や社会や慣習によって定められる恣意的な境界にすぎないので、ツボ売り商売を真面目に(受け入れられるべき語りとして)語ることも、別に何も間違ったものではないはずです。これを徹底的に突き詰めたのが、「モノの人類学」なんやと思ってます。ただしそれを受け入れるかどうかは、個人個人の自由です。僕は受け入れません。以上。

あと二つ目の方法論の授業でやらされてるプチ民族誌研究プロジェクトでは、自分は「この大学の人文・社会科学系の博士課程で、慣れない言語(英語)でゴリゴリ勝負しつつ頑張ってる東アジア出身の人らが、どういうふうに頑張ってるのか」というテーマにしました。友達を見つけるついでに課題の題材にもなって、課題をやるついでに知り合いも増えるという一石二鳥。しかし。英語圏で生まれ育ったり学部からアメリカで勉強してきた人を除くと、ほとんどいないですねそういう人。というか、そもそもそういう人が少ないはずやと思ったからこの問題に関心持ったわけで。つまり東アジアからいきなりノコノコやって来て、毎週何百ページも英語で論文読まされて、それで無事に輝かしく成功している人なんていうのは、多くないんですよね。まぁもちろん、全くいないわけじゃないので、探していけばプチ民族誌研究プロジェクトとしては十分成り立つと思うんですが。何れにしても、ちょっと探し始めてみて「やっぱり少ないな」と気づいたのは、なんとなく勇気付けられました。自分がなんかの間違いでここには入れてしまったのは事実として受け入れるとしても、そこで苦労するのは仕方のないことや、って思えるからです。ずっと日本で育った日本人としては、英語で展開されるゴリゴリの思想系の語彙や論理を理解したり話したりするのは、語学能力以上のもっとややこしい問題を孕むんです。どれだけTOEFLが良くても、また全く別の問題。ヨーロッパ言語から来てる人たちとは、まったく違う次元の困難に立ち向かってると思うんです。思考や表現の論理が、ヨーロッパと東アジアでは全然違う。考えんでもわかるものわからんもの、口を突いて出るもの出ないもの、そういうのが文化圏ごとにあると思います。大変やけど、楽しいは楽しいので、頑張ります。まだもうちょっと、なんだかんだでここにおれたらええなぁと思っとります。