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なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

28年間シャワーを毎日浴びてきて、実は体の洗い方を間違っていてめちゃくちゃ汚いまま毎日を暮らしていたかもしれない可能性について

ドロップアウト

読むのが遅すぎて自分でドン引きしたので、障害支援室(Disability Office)から保険適用の紹介状を得て、3000ドルの「神経・心理・学習能力検査」を受けました。丸一日朝から夕方まで検査をして、さらにその前後で半日の検査を2回やるという、人間ドック状態。いわば脳みそドック。その結果が先日返って来た。

無数の項目に分けて、自分の脳みそのデキが数字で評価されてる。100項目くらいありそう。アメリカではPercentile(パーセンタイル)という尺度がよく用いられるんですが、これは要するに100人の平均的な集団の中で自分が下から何番目に立ってるかを示す数値で、もし40パーセンタイルなら下から40番目(つまり上から60番目)、70パーセンタイルなら下から70番目(つまり上から30番目)ということです。この検査結果も、100個くらいありそうな各項目ごとにパーセンタイル表記がされていて、「ストーリーを聞いて覚えて再現する力 ー XXパーセンタイル」「決められた時間の中で1桁の計算をできるだけ早く解きまくる力 ー YYパーセンタイル」みたいな感じでめちゃくちゃ個別的です。

その中で、肝心の「言語を理解し操る力」系のいろんな細かい項目と、それとは別の「決められた時間の中で文章を読んで理解する力」系のいくつかの項目がある。言語を理解し操る力は、母語じゃないのに結構いいとこまで行ってる。一方で、時間内に文章を読んで理解する力が、驚異の数字を出しました。読むスピード「1パーセンタイル」でした。1というのはつまり、100人の平均的な(代表的な)集団の中で下から1番目、ということです。1番目というのは、万一よくわからない人のために説明すると、その下には誰もいないということです。これでもピンとこない人のためにもっと丁寧な説明をすると、「100人の平均的な(代表的な)集団」というのは概念的な装置に過ぎず、要するに社会全体の中で下からどれくらいの位置にいるのかということを意味してるので、これはつまり社会の中で一番ドンベやということです。しつこくまだ説明すると、1パーセンタイルというのは、そもそもの「パーセンタイル」尺度の発想からしてなかなか叩き出せる数字じゃないんです。だいたい30〜70パーセンタイルに落ち着くのが普通で、めっちゃ良ければ90パーセンタイルとか、めっちゃ悪ければ10パーセンタイルとかになります。

さて。これでもそれなりの大学に入って、勉強もそこそこうまく行って、いろんな知的な壁を乗り越えて来たつもりなんですが、それがここに来て社会のドンべとは、これはまたドン引きするしかない。ドン引きから始まってドン引きで終わる。

思い返せば中学生の頃から、いつも読むのが遅くて悩んでた。学校の授業中に一斉に教科書の一節を読むときなんかは、みんなが読み終わった時には自分はまだ真ん中あたりで、先生と学生一同の「もうこんだけ時間とったらさすがに全員読み終わってるやろ」みたいな視線が何度も胸に刺さった。行き帰りの電車の中で本を読むにしても、全然読み終わらへん。親とか身近な人が、次から次へと苦もなく本を読破し続けてるのを見て、何か違うワールドが広がってるとしか思えへんかった。今思えば、その頃試した「1分で100ページ読める速読術」みたいな本は、てんでお門違いやったということですな。1分で100ページ読む前に、10分で1ページ読めるようになりましょう。大学に入ってからも、望む分量の本を読めたことは一度もない。最初の5ページくらいだけ読んで、後は時間がなくて挫折するか、人生を賭して1冊を読破しキリマンジャロ登頂に匹敵する達成感を味わうか、そのどちらかやった。したがって、これまでに読破した本というのは数えるほどしかない。数える程しかないとは言っても、幸い28年も頑張って勉強の方面に生きて来たおかげで、両手両足ではギリギリ数えられへんくらいの本は読んだと思われる。ところが両手両足でギリギリ数えられへんくらいの読書量では、周りに跋扈している本気の研究者の卵たちとは全く勝負にならないので、いつも自分は知識量的に周回遅れの状態やった。話を合わせて誤魔化すテクニックは、芸能方面や音楽方面に全く明るくないおかげで世渡りとして少し身につけたので、学術方面でもこのテクニックを生かして世を渡って来たと思われる。思い返せばこれについても、自分は芸能方面にも音楽にも詳しくなくて周りの会話についていけへんくて、その代わりにいつも勉強ばっかりしているような気がして仕方ないのやが、それやのに勉強方面の知識量的にも他の人より周回遅れなのは困ったなぁ、おかしいなぁ。とよく思ったものです。2回ドン引きした今となっては、これも自然な成り行きです。

知識への好奇心だけは人一倍なので、気になる本を見つけるたびにすぐ買ってしまう。結果的に、本棚は読むのが追いつかない本が山積みに。買って読まないんじゃなくて、買って読もうとするけど全然追いつかない。なんせ英文の場合、1時間に3ページしか進まないんです。和文の場合、10ページくらいやろうか。この数字だけ見ると、和文の方がまだちょっと早いように見えるけど、でも実は日本語と英語では同じ文章量が食うページ数が違うので、結局実は同じくらいの速さなんじゃないかとも思えます。(英語の本を翻訳すると、大抵3倍くらいの分厚さになる。)

それにしても1パーセンタイルって。1というのはつまり、100人の平均的な集団の中で下から1番目、ということです。1番目というのは....と何度でも言いたくなりますがやめておきます。名前があるんかどうか知らんけど、どう考えても一種の障害やと思われる。28年生きて来て、なんでこのタイミングで発見するかなぁ。もっと早くに気づいてれば、いろんなことができたのに。自分は人よりちょっと読むのが遅いんやなぁ、くらいにしか考えたことがなくて、まさかここまでの劇的な差があるなんて想像したこともなかった。読むのがちょっと遅い分、人よりちょっと多めに努力しなあかんのやなぁ、くらいにしか考えたことがなかった。読書って、基本的に一人で行う孤独な取り組みやから、何かの特別な機会がない限り、読書してるその瞬間の状況を他人と比較することがない。読破する本の冊数が人と違っても、ちょっと別のことをしてて忙しかったからかなぁ、とか、あの人は最近特に読書に入れ込んでるから、とか、そういう別の理由をいくらでも考えついた。結果的に、28年間一度も、自分が障害を持ってるなんて考えたことがなかった。

一人で行う孤独な取り組みといえば、他にどんなことがあるやろう。トイレとシャワーやな、まず。実はトイレの仕方が人と劇的に違うかも知らん。みんなトイレをどうやってやってるんか、一度話し合うことも重要やと思いますよ。ある時にトイレのやり方検査を受けて、全く想像したこともなかったような自分の障害に気づくかも知らん。シャワーも同じ。体を洗って綺麗にしていると思ってたその基準が、人と全く違うかも知らん。実は自分だけめっちゃ汚いかも知らん、お尻も体も。みんなよく気をつけてください。これはなんという説得力のある注意喚起なんや。

あんまり清潔じゃない思い出語りはそれくらいにして、これからどうするかについても書きます。今、障害支援室の人が、外部の専門家に相談してくれています。その相談結果を踏まえて、僕自身と障害支援室との間で、学科に対してどういうお願いをするかを決めていく。それが可能なのかどうかはこれからの話し合い次第やけど、一番現実的な対応方法は、学期ごとの授業数を減らして、その代わりに2年のコースワークを3年に引き延ばすことかなぁ。それをすることは、それなりにいろんな含意があるので、いとも簡単に決定できる性質のものではないはずですが。

ただ学校の制度的に特例の対応が可能やったと仮にしても、この先長い目で見て、研究者としてやってくことは相当難しいと思わざるを得ない。読んでもいない本の内容についてハッタリをかまし続ける大学教員は、一種の大道芸みたいなものでまぁ面白いから世の中に存在しててもいいとは思うが、できれば誰か別の人にお願いしたい。かといって大学教員以外の道を探すとしても、ちょっとでも自分の知的好奇心を満足させてくれるような知的な職業に就くとしたら、どうしても本を読むという基本作業が仕事に入り込んでくる。物書き然り、ジャーナリスト然り。前やってた仕事みたいに行政の仕事とか、NGOみたいなプロジェクト系の仕事とか、そういうものしか残らんくなるなぁ。完全なビジネスをやるというアイディアも昔からあるが、なかなか一歩が踏み出せずにいるし、そもそも向き不向きでいうと不向きであることが間違いない。とりあえず今この瞬間は、参ったねぇ、としか言いようがありません。とりあえずもうちょっと参っておいて、障害支援室のパワーを見守りつつ、いろいろ考えていこうと思っているところであります。

その間、毎週カウンセラーのお世話になって精神の崩壊を防いでおります。この大学のリソースはやっぱり半端ない。週1回のカウンセリングが全てタダというのは、それだけでも莫大なお金をもらっているに等しい。おかげで無事です。このいう事態に直面したのが、この特定のお金持ちの大学にいる時でよかった。