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なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

トイレットペーパーから論壇まで、インド人からカウンセラーまで

ここ数日は激動やった。結論からいうと、精神の闘いの意味では一つ山を越えたかもしれない可能性が、全く非現実的ではない気がしないでもない。← 弱気。

ある日には、全くベッドから起き上がれずにただ死亡していた。おそらく鬱と呼ばれてるであろう症状を人生で初めて経験したが、これは不思議な感覚。体はどこも悪いことがないし、頭が痛いわけでもないが、躯体にパワーがない。パワーがないというのは、元気がないとか、気力がないというのとは、全く違った。元気、気力、体力、力、このどれもが、その状況を表すのにしっくりこない。パワー、と言えばなんとなくしっくりくるし、しっくりくる語彙は「パワー」以外に日本語に存在しない気がする(というか日本語ですらない)。おそらく「パワー」というカタカナ言葉が持ってる摩訶不思議なフォース感が、この不思議な死亡状態の掴み所の無さを上手く表しているように感じられるから、やろうか。元気がないことも、気力がないことも、体力がないことも、これまで何度も経験したが、そのどれとも違う。パワーがない。そしてパワーがないために、ほぼ永遠にベッドに横になってる。

ある日には、前の晩から行ってなかったトイレへ、翌朝のある時点でやっとこさ這いつくばって行った。その時、トイレットペーパーを手繰り寄せる右手人差指の小さなロコモーションが、それ自体、自分の気分を活性化させてくれるごく微かな効用を持ってることに気づいた。トイレットペーパーを手繰り寄せるロコモーションがもたらしてくれるパワーは、何を行うのに十分かというと、瞼を少し開くことくらい。それくらい小さなパワー。このパワーによって、しかし、鉛筆で何かを描いてみたら同様に少しパワーが出るんちゃうやろうか、という気にさせてくれた。トイレを完了して部屋に戻り、ベッドに戻ってしまう前にすかさず椅子に座り込み、鉛筆でうだうだと気持ちを書く。うだうだと鉛筆を走らせると、予想通り少しパワーが出てくる。このパワーはどれくらいの大きさかというと、「何をしたいか、を考える」ためにぎりぎり足りるくらい。このパワーによって何をしたいかを考えた結果、「料理をしたい、肉じゃがが作りたい」と思った。そしたら今度は、料理をしたい、と考えるその精神的ロコモーションそれ自体が、また少しパワーを生み出す原動力になった。なんせ自分の気持ちの動きを生み出してる。すごく前向きな感じがする。料理をするためには食材が必要で、かつ結構莫大なパワーが必要。そんなパワーも、食材もない。でも、今度食材を買いに行くときにどういう道を通って自転車を走らせればいいか、それを調べることはできる。グーグルマップでこれを調べるために必要なパワーは、「料理をしたい」という前向きな精神的ロコモーションのおかげでギリギリ得られた気がする。グーグルマップで調べてみると、思いのほか簡単なルートで、しかも車道をあんまり走らずにサイクリングロード的な道を通っていける!これはグッドニュース。グッドニュースであり、非常に生産的で前向き。その生産的で前向きな調査成果によって、またもう少しのパワーが生まれた。このパワーは、ある事実に気づくのにギリギリ十分な大きさやった。すなわち、今キッチンにある有り合わせの食材でも、実はなんらかの料理が作れるかもしれないということ。肉じゃがが作りたくて、牛肉がないとは言え、別に鶏肉で鶏ジャガを作っても良いんでないの?考えてみれば鶏肉もジャガイモもタマネギも人参もある。醤油もみりんも砂糖もある。なんでこんな簡単なことに気づかんかったんやろう。この気づきは、それ自体がとても大きな成果。成果は、パワーをくれる。このパワーはついに、キッチンまで降りて行って実際に料理を始めることができるくらい大きかった。鶏よ、冷凍庫に眠っていてくれて、ありがとう。ジャガイモよ、2ヶ月も棚の中で静かに眠っていてくれてありがとう。隣人の生姜からは20センチの茎が生えてきてるけど、ジャガイモはだいたい大人しく眠ってくれてる。ここまでくると、もう後は自明のプロセス。料理ができればこっちのもの。鶏ジャガを食べ終わったら、もうかなりパワフルです。荷物を用意して服を着て、図書館まで自転車を漕いでいける。図書館に座ったら、その空間の力によって勉強する気分が訪れる。

もう内容は二の次で、とりあえず気分的に勉強した気になることが重要。ある本の一章を読むと見せかけて、すべての段落の最初と最後の一文だけを順番に読んで行く。内容がわからんでももう無視。そうしたら数時間で、その章の終わりまで到達した。この達成感はすごい。達成感それ自体によってまたパワーが生まれる。この時点で19時頃。

この日、東京に住んでる友人が、トランプ勝利について考えるスカイプ会議を準備してくれていた。参加者は、東京に住んでて関心のある人と、アメリカに住んでる彼の友人たち(←自分はこれの一人)。こちらの時間で21時から開始予定のこのスカイプ会議、当初は到底参加などできないかと思われた(というかそもそも、料理をする時点くらいまでその存在すら忘れてた)。でも図書館で勉強できたくらいの時点で、参加するだけならギリギリできるかも、という感じがする。でも発言は到底無理かも。マイクは向けないでほしい。友人には事前にメールでそう伝えた。ごめんなさい。許してください。

章の最後まで読みきった達成感を携えて、夕食を食べに図書館の外に出る。夕食を食べると、またパワーが出る。なんせ、生産的な活動に成功すると、それがパワーを生むんです。そのパワーを携えて、図書館の荷物を引き上げて家に帰り、スカイプの準備をする。3時間続いたスカイプは、前半は静かに黙ってる。しかしみんなの議論についていける。これは普段の英語の授業と全然違って、心地よい。みんなの言ってることが理解できるし、なるほど、とか、へぇ、とか、そうかなぁ、とか思うことができてる。なんという生産的な。パワーが出てくるのを感じる。ついに後半からは、思い切って発言ができてる自分がいる。しかも自分の意見が伝わるまで、伝えようとしてしつこく喋ってる。終わってみると、ほんまに有意義な3時間やった。

こんな姿、朝のベッドから動けない状況からは想像もできひん。トイレットペーパーを手繰り寄せる昆虫の足のようなか弱い、微かな動きから始まり、10人以上の前で堂々と自分の意見を陳述し、説得できるまで止めんぞと言わんばかりの、力強い出で立ちまで。遠い道のりやったけど、どのステップ一つを取っても、大きな飛躍はない。一個一個が、微かな、しかし確実に繋がっている次へのステップ。その無数の繰り返し。そのステップ一つ一つを、途絶えることなく、諦めずに繋げ続けること。そうすれば、いつかは必ず長い道のりも終わる。

別の日には、何人もの友達に助けられた。日本からメッセージをくれた友達。こっちで話を聞いてくれた友達。様子がおかしいのを読み取って、声をかけてくれた友達。それぞれが、それぞれのやり方で助けてくれる。そうなんかそうなんかと、とりあえず聴く。それはほんまに辛いよな、と理解を示す。こうやってみたらこういう結果にならへんやろうかと、生産的な提案をする。僕の事実誤認を力強く指摘して、ポジティブな方向へ考えを誘導する。あるいは、ただただアホなことを言って笑わせる。おかげで、友達に囲まれてる感じがするし、例の障害がそのままPhDの不可能性に繋がるわけじゃない気がしてきた。障害支援室からはまだ返事がないけど、きっとうまく行く気がしていた。少なくとも今はそう信じられるし、そのお陰で前向きになれる。特にインド人のクラスメートにほんまに感謝。あと、ずっと前に一番最初に話を聞いてくれた日本人の友達に感謝。

カウンセラーもそのインド人もそうやけど、苦しんでる人の話を「聴く」技術と言うのを、この人たちは持ってる。僕はこれまで全然うまく人の話を聴けてなかった、とひどく反省させられる。苦しんでる人の言うことを、まず何よりもそれ自体として受け入れる。何か別の問題に帰着させることもせず、大きな問題や小さな問題へ還元することもせず、自分の経験に照らした解釈をすることもせず。プラクティカルな次元では、まず苦しんでる人の話を過不足なく要約し、「それはほんまに辛いな」と一言添える。これだけでも、話す側はほんまに救われる気がする。その上で、なんらかの事実誤認のせいで不必要にネガティブに考えている箇所があったら、そこは力強く堂々と指摘して訂正させ、その面だけでもポジティブにさせる。感情的に共感できない(知らない)苦しみは、むやみに説明を求めず、ただただ聴く。本人が心地よく話せることだけを話して、それ以外は話さなくて良いと感じられるよう、会話の場を作る。聴く側は、自分について喋るのは最小限に押し留める。こういう「聴く」という実践は、その理論的構築を知ることすら僕には(実際に自分が聴いてもらう側になるまで)できひんかったし、仮にその理論的構築を知ってたとしても、的確に実践するのはほんまに難しい。つい自分の経験に照らして解釈をおこなってしまうし、別の問題に帰着させて理解してしまうし、自分の似た経験を語ってしまう。圧倒的に訓練が必要な次元の実践であり、この二人は明らかに訓練を行ってきたと思う。カウンセラーはもちろんやけど、聴いてみるとインド人の友達もやっぱり、一時期親しい人が苦しんでて、聴き手として相当頑張ってたらしい。立派や。