なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

複層化する自分の声

目下、完全に辞めるモードで生活している。今日も5ページの小さな課題の締切日やったが、間に合わせないとあかんという危機感はゼロ。すでに先生に対してメールを送り、言っておいた。「間に合いません。遅れて提出してもいいなら、します。どれくらい時間がかかるかはわかりません。遅れて提出してはいけないなら、この課題分が0点になるものと理解しています。」響きのない、無関心な筆致。ヒビの入った鈴のよう。

日本に帰ったらどうしようか。と、ずっと考えている。大学に入ってからというもの、これまでずっと一貫して、研究に向けての道を歩いて来た。行政の仕事を2年間していた間ですら、研究者としての視点で物事を眺めていた。アメリカで学位を取れれば、そのあとの人生において融通が効いてすごく有利になると思って、ここに来れることを素直に喜んでいた。5年間も、お金をもらいながら勉強ができるなんて、ほんまに夢のよう。

ところが来てみた途端、研究者としての根本的な資質が欠けてるかもしれないことに気づかされる、という顛末。アメリカであろうと日本であろうと、なんであっても研究者ができひんのちゃうかと、疑わざるを得ない。登っている階段の、ほとんど最後の段とまでは言えへんにしても、かなり上の方まで来たときに、自分の一段上に意地悪な悪魔が立ってこちらを見下ろし、喚き立ててる。「残念!その足の長さでは、こっから先の段は高さが届かへんみたいやねぇ。物理的に無理やね。自分の足の短さ、もうちょっと早くから真剣に悩んだ方が良かったんじゃない?」

28年の短い人生とは言え、それなりに努力をし、それなりに自信を持って、この先に道が続いてることを信じて歩いて来た。この時点で、歩いて来た道をもとに戻るのは、それなりに痛い。感情的で人間的な自分は、そう感じてる。日本で大学院に入り直したら、自分の言語やから少しは困難が減って、意外とギリギリやっていけたりするんやろうか。感情的で人間的な自分は、研究の道を歩き続けることにこだわってる。日本の知人に連絡を取って相談し、日本で学生をやり直している自分の姿を想像してみて、安心する。

と同時に、まだたったの28歳や、とも言える。これまで歩いて来た道の途中のどっかの地点まで戻って、そっから伸びてる別の道を歩き始めてもいいんやろうきっと、とも思う。理性的で優等生な自分は、そう言っている。これまでビクビクして挑戦できひんかった道に、思い切って踏み込んでみるチャンスなんちゃうか。そういう転機なんちゃうか。理性的で優等生な自分は、そう囁いている。高校生の時に考えてた夢にまで遡って思い返し、全く違う人生がこれから始まることを想像する。それが失敗するのを想像してビクビクし、それが成功するのを想像してワクワクする。

前者に賭けるのか、後者に賭けるのか。

そんなふうに考えた途端、別の声も聞こえてくる。「賭ける?人生は賭けなんか?」楽しく、リラックスして、周りの人と幸せに暮らして行けばいいんではないんか。進歩的で大人な自分はそう言って、もっと成熟した人生観を気取っている。焦らずできることをやっていれば、そこから自然に、充実感と幸せは生まれてくる。

人生は賭けなのか、賭けじゃないのか。

長く生きるほど、自分の中の声は複層化する。ただし複層化しても、古い層は昔と変わらん声高さで、存在を主張し続ける。結果、複層的な自分の声を調律して指揮し、不協和音から何らかの和音を生み出す技術が重要になる。淀みなく流れる普段の生活では、そんなに難しくない。何かが起こると、急に楽器を掻き回したような不協和音が生まれて、指揮と調律の技術が問われる。

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