なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

これは一体なんなんや。この自分の中にある、特殊なような普通なような、良いことをしているような悪さをしているような、大きいような小さいような、掴み所のないこれは。

来週の火曜日には、関西空港に着陸しています。今は何もせず、出発の日を待ちつつ、毎日ゆっくり荷造りをし、小説を読み、映画を見て、たまに人と会っています。

アメリカで受けた学習能力検査で、読むスピード(英語)が「1パーセンタイル」(=「100人の平均的な集団において下から1人目」)と出た件について、自分の感じるところを一回言葉にまとめておくと便利な気がするので、ここに書くことにしました。

 

小学生高学年か中学生くらいの頃に初めて、周囲の人(同級生や家族)に比べて自分の読書スピードが遅いことに気づいたと思う。

一、「週刊少年ジャンプ」や単行本の漫画を読むのが、兄と比べて明らかに遅かった。「お前まだ読んでるんか」みたいな会話があった気もするし、兄のことを横から見てると、一瞬で読み終わってるのが不思議やったのを覚えてる。

二、中学校の電車通学時間に読む小説や新書が、なかなか読み終わらんくて疲れた。これは特に母親との比較で気づいたと思う。母親は通勤の短い時間で次から次へと小説や新書を読破し、どんどん本棚に積み重ねて行く。これに対して自分は、一つの本を読むのに何週間もかかり、しかもすごく疲れる気がした(何週間もかかるというのは実際そうであったけど、疲れたというのは人と比較しようがないので未だによく分からん)。また、図書館で借りられる本が2週間で返却しないとあかんことが、ほんまに意味不明やった。どうやって2週間で読み切るんやろう、と、全く不思議でならんかった。

三、学校の国語の授業で、教科書やテキストの一節を精読するという時間があった時に、「はい、じゃぁここからここまで、今読んでみてください。」という指示が先生からあると、数分経って「はい、もうみんな読めたな」となる。見回してみると自分以外の生徒は皆、当たり前のような顔をして前を向き直ってて、確かに「みんな読めた」としか思えない雰囲気が支配している。が自分はまだ半分くらいしか読めてない。こういうことが何回もあったので、同様の指示の時は大急ぎで読むようにしたけれども、それでも間に合ったことはなく、途中までしか読めないか、流し読みのようにしてギリギリ最後まで辿り着き内容がよくわからないか、どちらかやった気がする。

四、進学校やったんで、よく模試を受けた。その度に、現代文のテストを解くのに時間が圧倒的に足りひんかった。普通に文章を読んでると、問題を解く時間が全く無くなる。ある時点で「出口の現代文」とかいう参考書をやり始めて、効率的に読解する技術を身につけたおかげで、比較的問題は軽くなった。学校の中間・期末試験についても同様の時間不足問題があったのかどうかよく覚えてないけど、普通に考えてあったはずや。それか、授業で扱ったテキストから出題してたとか何とかの事情で、問題が軽かったんやろうか。

こういう問題は中学生の時から大学受験までずっと続いた。大学に入ってからは、高校までみたいにカチカチに時間を設定された中で勉強をするということがなくなったから、あまり感じなくなった。が、今から振り返ってみると問題はいっぱい起きてた。

五、自分は学期中・休暇中を問わず興味のある本をずっと読むよう努力をしていたし事実そうしていた。その反面、大学の授業のために買った教科書や本はほとんどが全く読まないまま積み上がっていたし、真面目に勉強しようとしている同じような志向性の友達と比べて自分は全然知識が無いなぁと常に感じていた。さらに、バイトやサークルよりも勉強を優先したいとの気持ちから、バイトもサークルも他の人より少ない量しかやっていなかったので、時間は多くあったはずであり、それにもかかわらず上記のように読めない本が積みあがったり知識量が少ないと感じていたことは注目に値すると思う。

六、それなりに頭は悪くないはずやけど、抽象的な現代思想の本が全く理解できひんかった。人類学が自分にとって面白いと思えたのは、高度に抽象的な思想を扱っていながら、同時に具体的な言語や事例を通してそれを議論しているから、従って理解が可能やったから、なんちゃうやろうか。ただし、現代思想みたいな本は誰にとっても苦労するものやと思うから、これだけを以って何かが言えるわけでは無い。が、あとで詳しく書くような、文章理解をする時に僕が行ってる質的に特徴的な方法が、これと関係しているかもしれない。

七、ここ数ヶ月で初めて気づいたことやけど、英語で文章を読むときと日本語で文章を読む時の自分の理解の仕方を比べると、明らかに違いがある。英語では、単語ひとつひとつ、節ひとつひとつにつき、いちいち書かれてる内容を情景とか具体的な絵へと頭の中で変換して初めて、意味内容が分かった気になれる。そうしないと、情報が何も頭に入ってこない気がする。そうしないと、文字の羅列が単なる模様に見えてる気がする。(「単なる模様に見える」というのは、実態からわずかにずれのある表現のように思うけど、これ以上正確な表現が思い浮かばない。)一方で日本語で読む場合は、文字(特に漢字?)が、絵としてそのまま意味にリンクしてるみたいに感じる。文字から情景、情景から意味という回路を経ずに、文字(=絵)から意味、という風に直結している感じがする。したがってその分、処理が早くて、英語で読むよりも日本語で読む方が早く読み進められる。

 

さて以上が、直接的に「読書」に関係するこれまでの経験。このほかにも、問題の根本において深く関わっていると思われる事象がいくつかある。

 

一つ目は数字・計算。

一、小学生の時から大学受験まで一貫して、算数・数学が苦手やった。中学受験では、1年かけてコツコツ勉強した結果、最終的には算数も別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならなかった。大学受験では、かなり苦労してコツコツ勉強した結果、やっぱり別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならんかった。

二、中学受験・大学受験に共通して言えることその一。まず、常に計算ミスが頻発したこと。中学受験の頃は「ケアレスミス」という名前で呼ばれていて、そういう名前があるから普通のことやという感じがしていた。大学受験の時も計算ミスは起こしがちやったけど、訓練をする中でよく注意する習慣を身につけたおかげで、最終的にはそこまで多くはなかったと思う。が、計算ミスをしがちな傾向それ自体は最後まで変わってなかったと思う。最後まで、計算ミスをしていないかチェックするときの精神的な緊張感はすごいものがあった。

三、中学受験・大学受験に共通して言えることその二。計算ミスをする理由でもあるんやが、数字自体を思うように操れない感じが常にした。例えば簡単な暗算や筆算でも、一桁の数字と一桁の数字を操作しようとすると数字が手のひらからスルスルとこぼれ落ちるような感じがして、前に進めない感じがすることがよくある。例えば、8+7を計算しようとして、答えは15かなぁ、と思うけど、なんかよくわからんくなってくる。数それ自体を、どうやって計算すればいいのかが、わからへん(今もわからへん)。代わりにどうやって計算するかというと、まず8を5と3に分解し、次に7を5と2に分解する。出てきた5と5を足して10にした上で、2と3も足して5にし、最後にその10と5を足して15やと確認する。もちろんこの過程を全て鉛筆で書くわけではないけど、頭の中ではこういうプロセスを経る。いつも経るわけではないけど、スルスルと数字が手のひらから抜け落ちる感じがするときは、こういうプロセスを経ないと前に進めなくなる。なぜ5とか10とかを作ると安心する(自信が持てる)かというと、それがブロックのように見えるから。頭の中で「5」の大きさのブロックがあって、これを積み重ねて積み木みたいにして、最終的に出来上がった積み木の高さを見て「15やな」と言っている。そういう感覚。8を5と3に分解できたのはなぜか?という疑問も浮かぶけど、ほんの少しの程度なら数それ自体の計算ができるのかも知らんし、もしくはもうルーティンとして記憶してしまってるんかも知らん。自分としては、後者である気がしてならない。事実、8+7が15かなぁと最初に思うことそれ自体も、(ブロックの積み木による)計算の結果では無く、まず記憶として(覚えてしまっていて)処理している気がする。九九と同じ仕組みで。

四、学校の勉強に限らず、生活の中での数字の計算も難しい。しかも、学校でやる数字の計算は長年の訓練を経たおかげでルーティンとして身についた一方で、普段の生活の中で直面する数字の処理はそういう訓練を経ずにいきなり現れるものが多いので、実のところこっちの方が辛いことが多い。例えば買い物の時の会計計算、お釣りの計算、そういった計算が辛い。毎回、桁が違うし、求められるスピードも場面ごとに違うから、なかなかパターンとして確立して訓練できない感じがする。あるいは、アメリカに来てすごく思ったのは、チップの計算ができない。会計の15%とか20%を適当に(大雑把でいいから)計算してチャチャっと書くというのが、全くできない。何を手掛かりに計算をし始めればいいのかすらわからなくて、固まってしまう。で、半年くらい生活したらだんだんパターンがわかって来て、機械的に10で割って2をかけたら20%、みたいな定型式に当てはめるようになった。つまりここで行ってるのは、数それ自体の計算では無くて、パターン化されかつ視覚化された(0を一つ減らす、2倍する)プロセスに過ぎひん。

 

二つ目が、仕事の面。これについては、自分が他人と比べて特殊やという自信は読書スピードや数字の計算についてよりは弱まってきて、「これももしかして関係してるんちゃうの?」という程度。

一、飲食店でアルバイトしてる時、仕事をなかなか覚えられへん。ルーティンの、しょうもない仕事。この注文の時はこうする、あの注文の時はああする、これはここにある、あれはあそこにある、そういうの。しかし逆に自分の部屋の中のものが具体的にどこにあるかは、視覚的に明確に覚えていることが多い(あの棚の上から何番目の段の右端のあれそれの裏に、あれそれと一緒になって袋に入れてある、とか)。後で書くけど、視覚的記憶に頼れない場面(手続きを覚えること)とか、自分で置いたのではないものが一つ一つの印象が薄くてどれもこれも同じに見えてしまう時とかにおいて、どうしても情報をうまく手のひらの中にとどめておけないんちゃうやろうか。数字がヌルヌルと手から滑り落ちる感覚と似ている気がする。

二、同じく飲食店のバイトで、言われた注文を覚えられへん。言われた瞬間に必死に頭の中で反復して、もしくはその場でその瞬間にメモをとって初めて、厨房に伝えられる。ちょっとでも同時に何かを言われてしまい頭の中の反復ができなかったり、メモを取る手が塞がってたりすると、たちどころに注文を忘れてしまい、聞き直しに行くか、間違えて伝えて怒られる。反復して覚えようとする時は、頭の中で声に出して言ってその音を頭に焼き付けるか、もしくは頭の中で文字として書いてその画像を頭に焼き付けるか、どちらかしか方法がない。それ以外、どういう風に記憶を留め得るんやろうか。みんなどうしてるんやろうか。

三、2年間働いた行政機関で、内部で使っていた或るシステムの使い方が、2年間かけて結局わからないまま終わった。一応「一番大事なシステム」ってことになってるんやけど、あれやこれやで使わずにすませたり、適当に操作してなんとなくごまかしたり、いちいち周りに聞いたりしながら、結局よくわからんまま終わってしまった。「あのシステムはすごく使いにくい」という感想は一般的な感想としては周囲と共有できたけれども、「全く使い方がわらかん」というレベルの人は(ほとんど)見たことがなかったし、周りの人は「使いにくいよね」と言いながらも「まぁそんなもんや」程度に思ってるようやった。自分としては、全く使い方がわからず、みんながどうやって仕事をしているのかほんまに意味不明やった。どうやって次から次へと本を読破して積み上げていくのか、ほんまに意味不明やった時の感覚と、似ていなくもないかもしらん。

四、(加筆)これは仕事に限らず日常生活で、人の名前と誕生日を覚えられない。誕生日は別に覚えなくてもいいけど、名前がどうしても覚えられないのが辛い。初対面の人に名前を聞いて、5秒後には忘れてる。「あぁ、山田さんですね」と言った瞬間から始まり、その次の会話の交換をするまでの瞬間までは覚えてるんやが、何か次のことを考えた瞬間にもう忘れてる。この忘れている感覚は、全く何かの魔法にかかったかのように、その部分だけ綺麗さっぱり消えていて不思議な感じがする。これを忘れないためには、何回も何回も必死に頭の中で反芻する。もしくはメモを取る。たまに、相手の名前を一回聞いただけでその会話中ずっと覚えている人を見かけるけど、どうやってるんかほんまに謎。あと、「どこに住んでるんですか」みたいな、会話の最初にする形式的なやりとりについて、会話の最後の方に綺麗さっぱり忘れていることが多く、「〜〜です」「あ、ごめんなさいそれ最初に聞きましたね」というのをよくやっちゃう。話題が移り変わるに連れて、前の話題の記憶がどんどん綺麗さっぱり塗り替えられていってしまう、そういう感じがする。

 

三つ目が、自分が極端に得意な分野がいくつかあるということ。

一、目の前の人が感じていること、考えていることが、手に取るように分かる気がする。ほんまに正しく分かってるんかどうかは分からん(普通は確認のしようがない)けど、ものすごく生々しく相手の気持ちが感じられる(そういう気がする?)。まるで超能力のようやと、自分ですら感じる。

二、視覚的・空間的なメタファーに変換できる論理・主張・議論は、ほかの人より圧倒的に理解が早い。逆に自分が頭の中に持ってる視覚的・空間的なメタファーやそれに基づくアイディアを人に説明しようとすると、全然話が通じなくて、なんで分からへんのかが分からへんということがよくある。また、自分にとってはすごく単純でプリミティブですらあるように感じる自分のアイディアが、いざ人に対して言葉で説明しようとしてみると、とんでもなく複雑で厚みがあって非常に多くの言葉を要するものであるということに気づく、といったことがよく起こる。この場合明らかに、頭の中にあるときにはそのアイディアは言語という形をとっていなくて、視覚的・空間的なメタファーとして一目で理解されているから、そのせいで単純でプリミティブに思えてしまうんやと思う。例えば絵画を見るときに、誰かに対してそれを説明する必要がないなら視覚的に一瞥で理解できてしまう一方で、もしその内容を(細部や構造を言語化しながら)説明するとなるとすごく労力を要するやろう。それと似た感じ。

三、言語の習得が異常に早い。英語もベトナム語も、異常なスピードで身についた(ただし努力も人一倍した)。ほかの(まともに勉強したことない)言語も、相手が発した言葉とか、関連する別の言語の語彙・文法からの類推とかによって、その場で学び取って真似をすることで簡単な文章や意味内容を組み立てたりして、即興で意思疎通を図ることができる。そういうことをやったことがある言語は、タガログ語、イタリア語、ベトナム山地の名前も知らない少数民族の言葉、タイ語ラオ語、フランス語、(多分)ヘブライ語、中国語(これは一応勉強した)、などに及ぶ。これも、なんでこんな器用なことができるのかよく分からず、超能力みたいな感じが自分自身でする。特に発音を真似できることについては、なぜか相手の口の中の動きや筋肉の使い方が問答無用に「感じられ」てしまい、手に取るようにわかる。ほんまに不思議。

四、文章を書くのが得意なこと。幸いにも、文章を書くと読み手から褒められることが多い。大学の卒論で優秀論文賞みたいな表彰をしてもらえたのも、勉強がよくできたからではなくて、(準備に時間をかけたことに加えて)文章を書くのがうまかったからやと思う。何十ページもある議論全体が、いわば一瞥のもとに全て見渡せている感覚があって、それを丁寧に順番に言葉で説明して言っただけ、という感じがする。

 

 

さて具体的な事例はこれくらいか。こういう事例を思い返すことによって、自分の中で何が起きているのかという自分なりの理論を考えてきた。

数みたいな抽象的な概念を、その抽象的な概念としてそのまま理解・記憶することって、みんなはできるんやろうか。「259+18」とか言われたら、その意味を数概念のまま処理することって、みんなには可能なんやろうか。自分にはそれができない。この概念を処理する方法は自分にとっては二つしかない。一つは筆算(一桁足す一桁の計算の繰り返し)に分解するというもの。そしてもう一つの方法は、259と18を積み木ブロックに見立てて、頭の中で積み木を組み立ててその高さを測り、それを答えとして導出するというもの。しかし一桁足す一桁の計算それ自体もブロックに見立てるしか解く方法がないから、結局同じや。筆算にした場合はブロックの見立てを何度も(一桁足す一桁の操作の回数だけ)繰り返す必要があって、その分時間もかかるし混乱もするので、結局259と18のまま積み木ブロックに見立てて一回で済ませる方が効率的や。そういう訳で結局、こういう類の暗算は、まず18から「1」だけ259の方へ持ってきて(9+1=)10のブロックを作り、250と足して260を作り、その上に17を積み上げて260+17=277と答えを出す、というような回りくどいプロセスによって処理するしかなくなる。

数に限らず、どんな情報を処理・記憶するにしても、視覚的・空間的なメタファーが必要になってしまってるんじゃないやろうか。

漢字なら文字の視覚情報が意味に直結する反面、アルファベットで出来てる英語を読むときは一々情景を思い浮かべながら読むしか方法がないのも、これに合致する。日本語を読むときでもほかの人より遅いのは、漢字の視覚情報があってもやっぱり情景を思い浮かべるというプロセスをある程度頼らざるを得ず時間を取られるからではないか。

民族誌(具体的事例を通した議論)を用いる人類学の本がすっと腑に落ちて理解できた反面、(内容的にはかなり近しいことを言っているはずやけど、常に抽象的な表現をする)現代思想の議論がまったくチンプンカンプンやったのは、議論を具体的な情景に変換して読めるかどうかの違いやったんちゃうやろうか。

バイトのルーティンや仕事のシステムを覚えられないのは、物事の手続きや流れをそれ自体情報として処理・記憶することができなかったからちゃうやろうか。何らかの視覚的・空間的メタファーでしか情報を処理できないが、ルーティンやシステムの仕組みというのはそう言ったメタファーに変換しにくい。数的な情報とタイプが似ている。

受けた注文を覚えられないのも、それが無色な名前の羅列に見えたからちゃうやろうか。もし一つ一つの注文につき実際の料理の盛り付けを想像していたら覚えられたやろう。しかしそれではいちいち時間がかかりすぎるので現実的じゃない。「唐揚げ」と言われたら鳥唐揚げが五つ皿に乗って横にレモンが置いてある情景を思い浮かべる、なんてしていたら、次から次へと客が料理の名前を言ってくるから、間に合わへん。

目の前の人の気持ちや考えていることが手に取るようにわかるのは、相手のごく微細な表情とか振る舞いに対して視覚的に敏感で、それが示唆する内面的な動態を感じるとることができるからなんちゃうやろうか。その視覚情報と内面的な動態との間の相関が正確かどうかは、あまり問題じゃない。微細な視覚的情報に常に意味を見出してしまう、という自分の認知的特徴が重要。

文章を書くのが上手いのも、もしかしたら、頭の中の考え(=書くネタ)が非言語的な形をとっているから、それを言語化するときにほかの人と違う何かが起きてるのかもしらん。

外国語の習得が早いことについては、何か関連があるのかどうかよく分からん。でも、例えば赤ちゃんが言語を習得するときには、初めには何も言語がない状態で習得する(つまり言語以外の認知能力をベースにして言語を習得する)んやということを考えれば、仮に自分が視覚的・空間的メタファーで全てのものごとを認識しているんやとすれば、何か関連があってもおかしくないように思う。

 

誰か、僕の中で何が起きているのか、この認知的特質は一体なんなのか、知っている人はいませんか。もしくは、知っていそうな人を知ってたりしませんか。