読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

人の気持ちがわかる事、分からない事、分からない結果として超絶わかるようになってしまった事

「人とのコミュニケーションが苦手。」

「どこがや。むしろダントツやわ。」

 

という会話を、これまでの人生で何回繰り返したか知らない。もちろん自分は、1行目のセリフを言う役。

しかしそんな会話をしながら、なんでコミュニケーションが苦手なのか、それが自分にはなかなかピンとこなかった。何か、コミュニケーションのエッセンスのようなものが、自分から欠けている。それはもしかすると、人間の人間たる所以の欠落、もしくはその一部分の欠損ではないのか、という気すらしてくる。しかし説明できない。

自分でもわからないので、相手に通じなくても文句は言えない。まるで存在しない問題に対して不平を並べ立てているかのように誤解され、無言の誹りが充満する。それを無言で耐えながら、それ以上どう説明のしようもなく会話は尻切れトンボに弱く、細くなっていく。《そう言うなら、説明してよ。》という無言の声は、《説明してくれないと分からない。》に変わり、そしてすぐに《分からせてくれないなら、存在しないと同じになってしまう。》へと変わる。自分自身は、これまた無言で《うまく説明できないけど、それはほんまや。》と言い、《説明できひんかったら、どうせ信じてくれへん。》と言い、そのまますぐに《こうやって、自分はまたコミュニケーションがうまい人ってことになるんや。誰もわかってくれない、誰にも伝えられない。》と言う。

そういう無言のやりとりが何回も繰り返された。それを繰り返した回数だけますます、自分はコミュニケーションが下手やという絶大な信頼は、より強固になった。それと同時に、コミュニケーションが上手いのに下手なつもりでいる変な人、という周囲からの懐疑も、ますます膨らんだ。

アメリカの大学院を諦める直接的な原因となった極端に遅い読書スピードと、それと関わっているように思えてきた人生の様々な(些細な)経験とについて前回書き、いろんな友達からアイディアを貰ったところ、その中にひとり「自閉症では」と言った人がいた。自閉症について書いたウェブサイトや本を読んでいると、確かにこれは、自分のことを書いているみたいや。ただし日常生活が送れないような深刻な自閉症とは違って、あれや、これや、自閉症者に見られる細かな症状が、それぞれ程度を落として自分の生活にこっそり(でも至る所に)出現している。いわば、自閉症のミニチュア版みたい。専門的にはおそらく、「非障害性の」自閉症スペクトラムと呼ぶんやろう。

そもそも「自閉症」というのは、専門的には既に廃止された用語らしい。いまは「自閉症スペクトラム障害」という。紫から赤までの色とりどりを纏めて「虹」と呼ぶように、自閉症スペクトラム障害にも色んなのがある。しかもややこしいことには、例えば「虹の中に橙色はあるのか」問題のように、内側での症状の区別や定義が定まっていないということ。さらにいえば、赤の外と紫の外にも、人間の目に見えていないだけであって、赤外線と紫外線がある。自閉症スペクトラムもそれと同じく、たまたま見える症状と、気づかない症状との間には、恣意的な区別しかない。そして最終的には、虹って結局、地球上に満ち満ちている「光」というものが、ちょっとした加減で特別なモノのように見えただけですよね、結局それは光そのものなんですよね、みたいな話になる。自閉症スペクトラム障害も、じつは人間の本性そのものがちょっと違った形で見えているだけなんじゃないか、という考え方が出てくる。

 

そういうわけで、フェイスブックのコメントで色んな人がさんざん「それは私も同じよ」「程度問題なんじゃないか」「だれしもそんな感覚を持って暮らしてるんじゃないか」と書き残して言ったのは、ごくごく理解できることであり、そして正しいことなんやと思う。

しかし、それは正しいことであり、同時に、正しくないんです。これはちょっと難解です。一つ一つの症状を取って見た場合、たしかにそれは「程度問題」に過ぎず、多くの人に共有されている「問題」かもしらん。でも色んな症状を総合して考えたり、また本人が生活する上で不便や苦痛を感じているかどうか、それの程度はどれくらいか、といったことを考慮し始めた時に、自閉症スペクトラム障害の射程に入る人と、入らない人とが分離し始める。

自分自身の場合、精神科の診察を受けたとしても、自閉症スペクトラム障害の診断が与えられない可能性は十分にある。なぜなら、日常生活に支障をきたしている程度が、そこまで大きくないから。しかし、何をもって「日常生活に支障をきたしている」と定義するのか。自分にとっては、支障をきたすギリギリの場面がしょっちゅうあるし、少なくともヒヤヒヤしたり失敗して後悔したりする苦痛は間違いなく存在している。それを「気にしすぎ」と呼ぶ人は、もちろんいるやろう。そこはもう、医者の判断次第なのでなんとも言えない。でも何であれ、自分にとってこれはもはや明確に、スペクトラムに掠っているか、内側です。虹で言うと、赤外線と赤色の境目ぐらい。「んーー、あそこは赤か??いやぁぁー、んー、難しいぃぃ、わからん!!全く透明と断言する自信はあんまりない。まぁギリギリ赤やろ」ぐらい。

 

前回の投稿の中でもとりわけ、「人の気持ちがわかってしまう」件が、人々の心中に有声無声の波紋を広げたことでしょう。《これは本気ではないやろう》《筆の勢いが余ってここまで書いちゃうのも、まぁ状況が状況なので同情してあげる》《いやまてよ、そんなこともあるんかな、いやないやろう、いやどうなんやろう》《人の気持ちがわかったつもりでいる。どんだけLOVE & PEACEやねん》とか、人々は思ったことでしょう。

あれから自閉症についての本を読んでさらに考えた今となっては、もっと正確に書けそうです。

混乱させてしまいますが、まず僕は、人の気持ちが、全然わからないんです。始まりはこれです。

自閉症の本を読んで初めて知ったんですが、世の中の人は普通、互いに何となく相手の気持ちを感じ取れるものらしいですね。しかしそれはどこまでいっても「何となく」であり、もちろん最終的には「他者は他者」なんでしょうけど、でも出発点には常に「共感」がある。のですか?そうなんですか?

「そうなんですか?」と言われても、そうとも違うとも答えられないでしょう。これが、難しいポイントです。でも僕の経験的には、人々は「常識的に」相手が嫌がる「であろう」ことはしない(ことになっている)し、相手の「気持ち」を考慮に入れてどんなことを言うべきで言わないべきかを、ごく「普通に」知っているようです。よね。そうなんでしょう?

もちろんどんな人も間違って相手を傷つけるし、顰蹙を買うこともある。が、僕から見るとみんなは、それを避けるための天性の才能を持っているように見えます。僕にはそれができない。この能力を、仮に「直観」と呼ぶことにしましょう。ぼくはこの「直観」が無いです。もしくは弱いです。

直観が無いとどうなるか。相手と話をしている時に、自然にわかってしまうはずの相手の気持ちがわからない。コミュニケーションというものが、その直観能力を前提として成り立っているとすると、このときコミュニケーションは破綻します。しかし僕は破綻したコミュニケーションを見ると、それが破綻しているとわかります。それは気持ちの問題ではなく、ものが正常に動いているか壊れているかの問題だからです。

おそらく自分のせいでコミュニケーションが破綻したのを見るのは、辛くて、嫌なので、避けたいです。人間には、直観能力の他に、知性・知的能力がある。知性とはつまり、観察して、演繹して、帰納して、結論して、応用する力のことです。この知性については、幸いに僕は欠落していなかった。むしろ、平均より優れているかもしれません。直観がなく、(高い)知的能力だけあるとき、もちろん問題を知的能力で解決しようとします。

人の感情と行動との間には、大抵ある程度のリンクがあります。怒った時は怒った顔をするし、嬉しい時は嬉しい顔をする。これは突き詰めていけば、もっともっと微妙な感情や些細な表情についても言える。でもそれはすごく微妙で読み取りが難しいので、普通の人はそんな微妙な感情と些細な表情の変化との間の相関については、特段の注意を払わないんやと思います。そのかわりに普通の人は、ごく常識的な、直観的な共感能力に従ってれば、相手の感情が何と無く想像できるし、それ以上立ち入った深く正確な共感というのは不要なんでしょうきっと。しかし僕にはその必要がある。直観がないから。

どんな知的技能もそうであるように、相手の感情をその行動や表情から読み取る技能は、訓練で向上します。普通はその訓練をする前に直観に頼ってしまうから、訓練するのが難しいんじゃないかな。僕は直観がなかったおかげで、生きること(社会的に生きること)が、その訓練をすることと一体になったと思う。

しかしその訓練と実践は、疲れます。相手の声のトーンが少し変わるだけでそこに感情を読み取ろうとする。語彙が少し変わるだけで何かを読み取ろうとする。声の大きさが変わるだけで。口角が少し上がっているだけで、少し下がっているだけで。目が少し見開かれるだけで。左手の指で右手の指を触っているだけで。姿勢の傾きが少しいつもと違うだけで。これらの観察と読み取りには、正解はひとつではない。答え合わせも、ほとんどの場合できない。 無限に観察を続け、無限に自問し続け、無限に仮説検証を試み続ける。そして正解やったと思えるごとに喜び、間違っていたと思えるごとに(そのために引き起こされた実際上の失敗とともに)落ち込む。

そしてこの技術は常に、現実に対して後追いです。事前に感情を予期することはできず、既にそこに生起している感情を事後的に読み取ることしかできない。したがって、どれだけこの技術が長じても、依然として顰蹙は買うし、かつ顰蹙を買ったことは自分の目がありありと察知する。その結果、失敗に落ち込む。

僕が「コミュニケーションが苦手」というときの「苦手」の意味は、もっと突き詰めれば、「果てしなく疲れるのに、結局最後はよくわからんで終わるし、そしてよく失敗を叩きつけられる。こんなこと、何故しなあかんの」ということやと思う。

しかし、果てしなく疲れながらも終わりのない仮説検証を繰り返し自分を訓練した結果、本当に微細な表面上の様子から、相手の気持ちがかなりの程度わかるんです。 そしてその「わかる」程度は、たぶん既に、普通の人たちが直観によって「わかる」程度を凌駕していると思います。だから、前回の投稿で書いたように、「相手の気持ちが手に取るようにわかってしまう」んです。前回投稿執筆時点では、こんな仕組みについて、これっぽっちも理解してませんでした。その後勉強して、わかりました。

成果としては対戦相手を凌駕していても、その仮説検証は終わることがないんですよね。何故なら、直観能力で気持ちが普通にわかってしまう時のような、「腑に落ちる」感覚がないから。だから僕のその「超能力」は、これからも進化を続けます。しかしどこまで進化を続けても、疲れるし、「やっぱりよくわからん」という最終的な結論はいつまでも変わらない。このことを、できれば周囲の人には知ってほしいと思っています。

 

ちなみに、学習能力検査で視覚的な認知能力が非常に高かったのは、これと関係してると思います。因果関係はどちらが先かわからないけど、あえて言えば相互のフィードバックやと思う。目で見て理解する能力が高かったからこそ、コミュニケーション能力の欠落についてそういう補い方が可能になり、そういう補い方が必要やったからこそ、目で見て理解する能力が研ぎ澄まされたんじゃないかな。

そして読書スピードが(特に英語で)遅いのは、このことの副産物という側面があると思う。視覚的な認知能力が高いから、ついそれに頼ってしまう。表意文字なら視覚的な文字が意味になり、表音文字なら、意味をまず視覚的イメージに変換して、その視覚的イメージを見ることで意味を理解する。28年間それでやってきた結果、もはやそういう読み方しかできひん。

他の人がどういうふうにものを読んでるのかは未だによく分からないんですが、おそらく、言語的な意味をそのまま言語的に理解してる(というか、それが出来る)んじゃないんですか。情景やシーンを描いた物語のような文章なら、その情景を思い浮かべるという意味で、僕も他人とそんなにプロセス・速度が変わらないと思います。が、抽象的な言葉や議論になると、僕と他人とでは読むプロセス・速度が異なってくるみたいです。僕は言語を、視覚的な図とか図形とか形とか空間模型とかに変換しているように思う。そのためにいちいち時間がかかる。いろんな人に聞きまわっている限りでは、どうもこれは特殊なことみたい。普通は、言語を言語的にそのまま(ってどういうことなのか不明やけど)理解しているよう。

しかしまだよく分からないことはいくつか残ってる。

 

1.自分自身も、英語と日本語では明らかに文字情報の処理プロセスが異なってる。日本語で読む場合は、視覚的な文字情報がそのまま意味に繋がってる感じがする。だから、その処理方法が他の人の読む方法と異なっているのかどうか、よく分からん。周りの人に聞いて回ったのは基本的に日本人なので、英語で読む場合に皆がどうやってるのかについては、正確には分かっていません。もし、英語運用をすごく訓練したか、あるいは日常的に行なっているような、「英語は自分自身の一部ですよ」という人がこれを読んでいれば、是非訊いてみたいです。

 

2.人とのコミュニケーションにおいて「直観」が働かないことは、文字情報を読むときに「言語的」処理が働かないことと、関係してるんやろうか。

ここで皆に訊いてみたいのは、人の気持ちをなんとなく直観的に想像したり理解する(「わかる」)ときの処理プロセスは、言語的ですか。分かるために言語を使っていますか。

「言語をつかう」というのが具体的に何を意味しているのか、と逆に問われそうですが、それは僕には分からないんです。なぜなら僕は言語を使って何かを理解することが、(たぶん)皆無だから。自分ではしたことがない行為・できない行為について理解を深めようとしているんです、なので「その行為というのが何の事を指しているのか分からんから、もう少し説明してくれ」と言われても、「いや、それを訊いてるんです」としか答えようがない。