なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

ノートを取る困難

夢を見た。久しぶりに、ありありと記憶に残る鮮明な夢。とはいえその大部分はすでに忘れた。1シーンだけはっきり覚えている。

教室に座って、教師が講義をしながら黒板に板書をしている。講義は発達障害について。縦書きで右から左に書き進んでいく黒板に対し、自分のノートは左から右に進む。講義の内容は興味深くて、勉強になる。話に聞き入り、ふと気づくとまだ書き写していない板書がかなり溜まっている。大急ぎで書き写す。書き写し終わったと思ったら、講義はさらに前に進んでいて、新たにたくさんの分量の板書が溜まっている。話を聞こうとするとノートが取れず、ノートを取っていると話が聞けない。ノートを取ることに精一杯で必死になる。そのうち、右から左に進む板書と左から右に進む板書との間で頭が混乱してくる。

こんな夢を見て初めて思い出したけど、そういえば中学高校の時以来、ノートを取るのがすごく苦手やった。話を聞くこととノートを取ることが同時にできない。聞くことに集中しても100%は分からないし、それに全部を記憶しておくことはできないので、次善の策としてノート取りに集中する。話は、耳に入ったところだけ聞き、追いかけられない箇所は無視してノート取りに徹する。後で見返して勉強しよう、と思ってそうやるので、授業中にその場で理解して覚える人と比べて効率が悪い。

しかもノート取りそれ自体も、ものを右から左へ書き写すことが苦手やったのを思い出した。一度に覚えられる言葉の量が少なく、細切れになんども見返してチマチマとしか進めない。間違い探しをしている人みたいに、首を縦に振って黒板とノートを延々と見比べ続け、一語ずつ書き写していく。

ノートのレイアウトも、特徴があった。これは、板書から書き写すのではなく空中に浮いている話や状況をメモに取るような状況で特に顕著で、大学の時から顕現していたが、特に会社で働いた時に他人と比べて気づいた。余白を極めて大きく取り、インデントを何段にも積み重ねて、大きな文字で書く。B5のノート1ページに、下手をすると5行くらいしか書かない場合すらある。メモ帳のような小さなスペースにはノートが取れない。たまに、小さなメモ帳にびっしり、罫線に沿ってずらっとノートを書いている人を見かけたが、あれは絶対に無理。そういうびっしりのノートは、英語圏では特に普通やったように見えた。自分みたいなノートは日本では他にもやってる人を見たことがあるけど、英語圏では見たことがない。ベトナムでも、人のノートはびっしりやった。

これもやっぱり、言語を言語として理解する(びっしり書く)のと、視覚的に理解する(レイアウトこそ命)のとの違いなんちゃうやろうか。英語もベトナム語も、表音文字で成り立ってる言語の話者においては、視覚的に理解する人がずっと稀なはずや。

こんなこと、ほとんど意識したことがなくて忘れたけど、夢を見て思いだした。こんなところにも、自閉症的傾向が表れている。

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