なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

発達障害の人が、「画像で考える」と言われたり、話に脈絡がなかったり発想が独特だったりするのは、本人の体感としてはどういうことなのか。絵を描いて説明してみる。

思考方法の違いを内側から考える

前回の投稿で、発達障害の人は「違う論理空間に住んでる」ということに触れました。これは具体的には、思考するときに「言語ではなくて画像で考える」ということやと思います。実際、これを示している脳科学の研究成果もあるわけです。たとえば、

これは学術論文ですが、日本語で書かれた本でもよく説明されてます。たとえば、村上靖彦自閉症の現象学」。他にはテンプル・グランディンが、この説を繰り返し強調していて有名です。

 

でも「画像で考える」「視覚的に考える」っていうのが、本人の頭の中ではどういう体感なのか、大抵の人には想像ができないのかもしれません。なので少しでも伝わってほしいと思い、Google AutoDrawとパワポを動かして、ちょっと説明を作ってみました。

 

村上春樹アンデルセン文学賞スピーチを題材にデモしてみる

「思考方法」を説明するのって、非常に難しいです。自分一人であれこれ考えるときのような「思考」の方法は、説明しようとしてもあまりにもフワフワしてしまう。なのでちょっと工夫が必要です。

その工夫として、こういうふうにやってみたい。すなわち、今みなさんの前に、何かの一つの文章が与えられました。そこに書かれてる文字情報をどのように頭の中に取り込んで、どのように頭の中で処理し、記憶し、そして最後にはどのように再びアウトプットするのか。そのプロセスの一つ一つを、解剖してみたいと思います。

さて、題材としての文章は何でもいいんですが、たまたま出会った村上春樹のスピーチを使ってみます。村上春樹は、以下の引用のように語っています(一部のみ抜粋)。 まずこれを、何も変な意識をせずに、いつも通りに読んでみてください。読んでみてもらった後に、普通の人が(たぶん)どう読んだのかと、僕がどう読んだのかを比べます。

 

 【受賞スピーチ全文】村上春樹さん「影と生きる」アンデルセン文学賞BuzzFeed

今日、ほとんどの批評家ととても多くの読者は、分析するように話を読みます。これが正しい読み方だと、学校で、または、社会によって、訓練されます。学術的視点、社会学的視点や精神分析的視点から、人々はテクストを分析し、批評します。

と言うのも、もし小説家がストーリーを分析的に構築しようとすると、ストーリーに本来備わっている生命力が失われてしまうでしょう。書き手と読み手の間の共感は起きません。

批評家が絶賛する小説家でも、読み手は特に好きではないということもよくあります。多くの場合、批評家が分析的に優れていると評価する作品は、読み手の自然な共感を得ることができないからです。

アンデルセンの「影」には、このような生ぬるい分析を退ける自己発見の旅のあとが見て取れます。これはアンデルセンにとってたやすい旅ではなかったはずです。彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめることになったからです。

でも、実直で誠実な書き手としてアンデルセンは、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、ひるむことなく少しずつ前に進みました。

僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。

そこで僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。

でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。

読み手とともに、この過程を経験する。そしてこの感覚を彼らと共有する。これが小説家にとって決定的に重要な役割です。

 

普通の人は(たぶん)どういう風に読むのか

普通の人がどう読むのかは、僕はあまり知らないんですが、自分の中にも一応普通の人みたいな側面が存在してることも事実です。自分のその側面を頑張って観察してみると、たぶんこういう風になってるんじゃないかと思います。

まず初めて文章に目を通す時、とりあえず情報を流し込んでいきますよね?キーワードをピックアップしていきつつ、文法や段落の構造に沿ってキーワードを相互に関連づけながら、まず情報を取り込むと思います。

あえて図示すると、こんな感じでしょうか。もちろん言語を二次元平面に落とし込むこと自体に無理があるので、あくまで擬似的な表現なんですが、あとで出てくる僕の場合の理解の仕方と比較するという目的のために、ひとまず受け入れていただけたら助かります。

図1:普通の人の理解の流れ (その1)

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重要そうなキーワードには特に注意を払いながら読んだと思います。また、前半はわりと言ってることが単純なのでキーワードが少なく、そのぶん一つ一つが大きく感じられたはずです。後半に行くと、複雑度が増した結果として情報量が多く、キーワードが多く感じられたと思います。その中でも「読者と」「共有する」ことは結論であるので、はっきりと大事な感じがしていたのではないでしょうか。以上を踏まえ、図1のようにしてみました。

さて、このようにして流し込んだ情報を、次は「理解」するために構造化しようとするかもしれません。その時、だいたいこんな感じで整理したでしょうか。

図2:普通の人の理解の流れ (その2)

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ここまでクリアに構造化するかどうかは人(場合)によって違うと思います。もっとふわっと受け止める人もいれば、図1のような情報の取り込みだけで終わる人もいると思います。

また、何人かの友人に訊いてみた結果として分かったのですが、図1的な段階の情報の取り込みは、極めて無意識に近い状態で行なっているらしく、そもそもそこの段階に「言語」や「言葉」が介在しているのかどうかすら、本人として自覚しにくいようです。

なので多くの人は、図1というよりむしろ図2の方が、自分の頭の中に存在している処理プロセスとして明確に感じ取れるのではないでしょうか。

 

発達障害の人(少なくとも自分)はどう読むのか

さて一方で、僕はこんな風に読みます。目で文字を追いながら、ごく少数のいくつかの言葉が頭に入った瞬間に、それらを纏めて一つの絵にします。絵が一つできた瞬間に、それを作る元になった「言葉」は頭から消えます。そのようにして絵が一つ頭の中にできます。そして、読み進めながらこれを繰り返していきます。

図3:自分の場合の理解の流れ(その1)

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ここでは、「批評家が文学を読んで学術的に分析する」という意味内容が、左上の本と記号群の絵で示されています。その結果として作家と読者の繋がりが切れてしまい、作家の生命力が読者に伝わらないことを、右下の横長の図で示しています。

上述のとおり、こういう絵が頭の中に出来上がった瞬間に、その元になった言葉は頭の中から消え去ります。「批評家が文学を〜」というふうに絵を説明しているのは、後付けで、つまり説明のために説明しているだけに過ぎません。実際は、僕の頭の中ではこの絵だけで意味として完結しています。つまりこの絵が十全の意味を帯びていて、「理解」の方法として完全に機能してます。

ただし図1と同様に、これについても二次元平面に落とし込むのは若干無理があります。実際に頭の中にある絵は決して二次元の絵ではなく、三次元的でもあるし、動くこともあるという意味で四次元的でもあるし、もっと言えばそこには「次元」の制約がそもそも無いとも言えます。何か抽象的な形のないものがあるんですが、ただしそれを「視ている」という感覚だけ明確にあるんです。「絵」であると同時に、具体的な情景であることもあれば、高度に「抽象的」なイメージのこともある。そういう類の、普段の生活で言う「絵」や「視覚」とはちょっと違う、特殊な意味での「(脳内)視覚」機能です。

いずれにしても、文章を読み始めた瞬間からすぐにこの「絵」の構築が始まり、それを構築するもとになった「言葉」は一瞬で頭から消えていきます。

図3は文章の冒頭部分でした。中盤あたりまで読み進めると、こうなります。

図4:自分の場合の理解の流れ(その2)

 

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これは説明不要やと思いますが、「自己発見の旅」「影」「トンネル」あたりを、このように理解しました。そして結論部分は…

図5:自分の場合の理解の流れ(その3)

 

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書き手の内面的な旅と影と自己を読者と共有する、という内容が、このようなイメージになりました。

これら3枚の絵は、文章に初めて目を通した瞬間から自動的に頭の中へ流れ込んでくる情報そのものなわけです。つまり普通の人の場合で言えば、図1(と、ある面では図2)に対応していると思います。

そしてこれらの絵を視たあと、最後に、文章全体を俯瞰する必要があります。それは、図3〜5を統合したような絵になります。

図6:最終的な全体の理解

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これが、普通の人でいう図2に対応しているんやと思います。

この図を見ると大抵の人は、「一つ一つの絵が文章の内容に対応していて、それらを全部合体させたんや、ということは分かる。しかし、これがどうやって図2のような論理構造を表現できるのか分からない」と感じるのではないでしょうか。

また同時に、こうも思うかもしれません。「絵本を読んでるみたい。直感的にはそういう情報処理の方法もあってもいいかもしれないという気がする。」

これら二つの感想を持ったとすると、それはどちらも正しいことです。ですが、もっと細かく考えてみれば、いろいろややこしい問題をはらんでいるのが分かってきます。そのことを以下で書きたいと思います。

 

何が問題になるのか

さて、どういう問題を孕むのかという説明をするために、今度は逆向きのプロセスを考えてみます。つまり、村上春樹の文章を読み終わった人が、その内容を思い出しながら第三者に説明する、という場面を考えます。

 

普通の人の場合

普通の人はどうなるか。この人は読むときに、図2(または図1)のように理解しました。時間が経ったら忘れていくかも知らんけど、朧げになったり霞んだりしながらも、記憶のおおもとは図2(または図1)です。

つまり、これを頭に思い浮かべつつ、そこから言葉を紡ぎ出していくことになります。

図2:普通の人の記憶

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これは、難しくないです。すでに論理が構造化されているし、記憶の中に直接的な単語も残っていたりする。その構造に沿って、言葉を思い出しながら、順序立てて繋げていけばいい。「批評家によっては、共感は生まれない。分析的な読みをすることで、物語本来の生命力が…(以下略)」という形です。説明のコミュニケーションは、それなりにスムーズです。

 

発達障害の人の場合

同じ要領で、発達障害の人の頭の中にどういう形で記憶が残っているかを想像してみてください。それは、こうなっています。

図6:発達障害の人の記憶

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この絵「だけが」頭の中に残っているんです。繰り返しになりますが、上の方で「この図がこの段落に対応していて…〜」という説明をしたのは、それはこのブログ上での便宜的な説明にすぎません。あくまで、本人の頭の中にはこの絵だけがあると思ってください。

 

この1枚の絵を「説明」するとは、どういう取り組みなのか

この絵に基づいて村上春樹のスピーチを説明しようとするとき、あなたならどのように説明しますか?それを考えてみていただくと、いくつか気づくことがあると思います。

  1. まず何より、絵を改めて解釈し直す必要がある。この本はどういう意味で、この記号群は何を指していて、この読者とペンが繋がったベルトは何のことなのか、という具合に、いちいち全てを再検討することになる。
  2. 解釈の余地に幅がある。記号群を見て、「あたまでっかち」と読み取ることも可能やし、「理論的」「抽象的」「理解不能」「こむずかしい」というふうに、似た方向性やけれども正確に言えば異なる解釈が、いくらでも出てき得る。
  3. 絵が絵として充足しているので、言葉に対応させて説明するというプロセスが独自の労力を要する。どういう言葉に対応させればいいのかが完全にオープンなわけやから、どういう言葉にすれば相手へ伝わるやろうか、とか、どういう言葉がこの絵を適切に表現してくれるやろうか、とか無数の観点から言葉の選択をしないといけない。
  4. どの部分から説明を始めたらいいのかよくわからない。絵の並びはかならずしも順序立っていないので、右から左、上から下というふうに直線的に追うことが難しい。もしかしたら、真ん中あたりの一箇所から手をつける方が説明しやすかったり、まず結論だけ言ってしまうのもアリかもしれない。

他にも感じることがあるかもしれませんが、ひとまずこれくらいにします。

さてこういう形で、「絵」として残っている記憶を説明するとなると、どういう気持ちになると思いますか?個人差があるかもしれませんが、僕はこういうふうになります。

  1. 記憶を言葉で説明するという取り組みのために、やらなければならない作業が多く、莫大なエネルギーを消費して疲れる。
  2. 説明のためのストレートな決まった手順がないから、うまく説明できるかどうか常に不安。
  3. 相手に伝わるかどうか、また的確に表現できているかどうかが不透明やから、常に詳しめに説明してしまう。

 

異次元の論理空間の間で翻訳すると言うこと

ごく単純な比喩としては、美術館でみた1枚の絵画の内容を、友達に説明することを想像してみてもらえば分かりやすいかもしれません。「あの絵、よかった!」と一言で終わらせることはできますが、それによって伝わるのは絵の内容そのものではなくて、自分が受けた印象にすぎません。少しでも具体的に絵画の内容を伝えようとすれば、「川が描いてあって、ボートが浮かんでて、岸辺に人が立ってて、向こうには橋が見えてて、日が沈んだ直後のような薄明かりの空で、上の方には月が掛かってて、…」と延々と説明していくことになりますが、どこまでいっても相手にとっては常に具体性に欠けます。その川は波立っていたのかどうか、橋は車が通っていたのかどうか、月は満月だったのかどうか。川面に橋の影は映っていたのかどうか。川岸の人間は何人いたのか。大人か子供か。絵を説明しようとする限り、具体性というのは永遠に完成しません。したがって説明する人は、何をどういう言葉で説明すれば的確で伝わりやすいのかを、無限に考え続けなければならないことになります。これは疲労と、不安と、冗長さを極端なレベルで引き起こします。

さてこのような苦労は、テクニックが必要やとかコツが要るとかいう単なる技術的な問題ではないです。これは、「違う論理空間の間で翻訳をしないといけない」という、もっと根本的で大きい問題です。たとえば日本語から外国語(英語でもいいです)へ翻訳をする際ですらも、英語にはない日本語独特の文化的背景を補足説明する必要があったりとかして大変で、疲れるし、言葉数も増えざるを得ないわけですが、今目の前にあるのは「日本語/英語」(どちらも言語)の違いよりもっと根本的な違いです。なんせ、「絵」と「言語」なわけですから、全く違うものです。扇風機の風で暗闇を照らす、というようなものです。 

 

「絵」は「絵」のままでいくらでも抽象的になりうる

今回はデモだったので、村上春樹の、すこし小説風の語りを題材にしました。その結果、絵は人物像とか本とかになりました。ところが、哲学とか思想とか経済のようなもっと抽象的な文章を読んだときも、同じように何らかの絵を経由して考えざるを得ないんです。

哲学はどんな「絵」になるのか、というのは当然の疑問やと思います。結論だけ言ってしまうと、もっと抽象的な「絵」です。それはなかなか、平面状にうまく描写できないような、何とも言い難い視覚的・象徴的(シンボリック)な図像です。たとえば今回でも、作家のエネルギーを光る星マークのようなもので表し、それが伝わっていない様子をグレーの星マークのようなもので表しました。このような図像をもっと多用して、かつもっと掴みどころのない感じにした絵を想像してもらえれば、哲学の「絵」とそんなにズレていないと思います。

ただし繰り返しになりますが、そもそも頭の中の「絵」には三次元とか四次元という制約がないので、「こんなかんじ」と言葉で説明することができないような代物です。つまりそんな「絵」によって思考している人間は、自分の頭の中の思考を言葉で説明することが極めて困難です。これこそが、まさに僕みたいな人間が抱える困難さなわけです。

 

なぜ偏見や誤解が生まれるか

今回は所与の文章を理解するプロセスについて説明しましたが、もっと一般的な思考プロセスにおいては、一つの考えから別の考えへどんどんと移り変わっていく必要があります。これを、「普通」の人は「論理的な」繋がりによって行っているやろうと思います。

一方で僕は、ひとつの絵がどんどん別の絵に変換されていくことによって、思考が展開していきます。どういう絵がどういう絵へと変換されるのか、また変換できるのかについては、どういう仕組みなのかよくわからないんですが、たぶん類似性とか、部分−全体の関係とか、何かしらの仕組みがあるように感じます。しかしそれは、いわゆる「論理」とは全く異なります。

したがって、僕が考えるときの思考の経路は、「普通」の人が考える時の思考の(論理的な)経路とは全く異なります。なので他人と何かを議論するとき、それぞれの考えたことを突き合わせる目的で自分の思考を開示しようとすると、話が噛み合いません。「そこ、どう繋がってるの??」「ちょっとまって、いま何の話?」という状況が頻発します。

とはいえ僕のことを個人的に知っている人は、必ずしも常時そういうズレが生じている訳ではない、と思うと思います。それは、僕の方で、「普通」の人の論理それ自体を(これまた画像的に)研究して理解して、それに合わせようと努力しているからです。例えばたまに、良かれと思って「考えたことを、自由に、話してみてよ」というふうに言ってくる人がいますが、あれは本当に困ります。こっちが自然に考えたことを正真正銘自由に語ったとしたら、まったく意味不明で終わるだけであって、議論になりません。新しいアイディア出しにはなるんですが。

言語の側を基準にして考えると、「絵で考えるなどという独特なことをするから、そりゃ難しいわ…」と感じると思うんですが、逆に絵の側から考えて見てください。この絵による思考でも、完璧に理解ができるし、記憶ができるし、自分の頭の中では操作もできるし糧になるんです。問題なのは、それを別の論理空間へと翻訳しないといけないという、たんに “ 外的に ” 、 “ 強制された ” 事情のせいにすぎません。人間のコミュニケーションは言語を解さないと難しいから、このことは確かに仕方ないんです。でもコミュニケーションのために仕方ない、という事実は、思考方法それ自体の有効性・質・能力とは全く無関係です。コミュニケーションという、外側から見える表出だけを見て判断してしまうから、「この人はわかってない」とか、「論理が破綻してて何言ってるかわからない」、果ては「頭悪い」とかいう偏見や誤解が生まれるんです。絵で考える人間の側からすれば、胸が煮え繰り返るほど腹立たしい。

 

これは驚きに値することではないか

さて以上を踏まえれば、今回比較した「普通」の思考方法と「発達障害」の思考方法は、180度根本的に異なっています。今回は例として文字情報の理解の仕方について考えましたが、冒頭に書いたとおり、このような違いが全ての思考プロセスにおいて同様に存在していると考えるべきです。情報の咀嚼、情報の処理、情報の操作、情報の記憶から始まり、意味の解釈、概念の構築、概念の連想、意見の形成まで、思考方法の差異が全面的に支配していると思ってください。

しかし一方で、私たちは一つの同じ世界に住んで、コミュニケーションを(ある程度)うまく行なっています。会話できるし、それなりに議論できるし、意見のすり合わせも喧嘩もできる。同じように、発達障害(高機能)の人は勉強も一応ちゃんとできるし、普段の生活も営める。つまり思考方法が根本的に180度違うにもかかわらず、社会的な世界を共有している。これは、驚くべきことではないでしょうか

このことは、現実の状況を出発点にして考えればそれは当たり前のことのように思えます。しかし行なっているプロセスの違い出発点にして考えれば、両者が当たり前に同じ世界を共有しているのは驚くべきことです。いわば、色覚障害の人とそうでない人が、全く違う世界を見ながらにして実際の生活上は「キュウリは緑。リンゴは赤。」と合意できていることと同じような驚きです。

 

終わりに

発達障害の人は一般的に、「話に脈絡がないけど、よくよく聞いてみるとちゃんと論理的に考えてることがわかる」と言われます。思考が「跳躍」しているとも言われます。個人差があるやろうからはっきりとはわかりませんが、今日書いたことはこれの説明にもなるような気がします。

また僕自身のことに限っていえば、僕は何かを説明しようとして文章を書くと、常に恐ろしい分量の言葉を書いてしまいます(このブログの記事全てがそうです)。それは、「いっぱい書きたい」とか、「少しだけ書くのでは不満」とかではないんです。自分の中の感覚としては、「何かを説明したい」とき、つまり「何か考えたことがあって、言葉にできる気がする」という時のその説明というのは、絶対に、必然的に、膨大な言葉として出て来てしまうんです。なんかこう、自分の「考え」が、それ以外の存在の仕方を知らないかのような感じです。短くまとめよう、とか、少しだけ書いてあとは後日にしよう、とかいう発想自体が、そもそも僕の中には存在する場所がないような気がします。そういう発想は、図1のように言葉で考えている人の発想なんじゃないかという気がします。

つまり、「何かを考えた。そしてそれを言葉にできる気がする」という時は、すでに大きな絵が一枚頭の中に出来上がっているときであり、「言葉にできる」のはつまり、その絵の全体像から各部分まで隈なく意味と相互関係が理解できている時、に他ならないということ。そういう時でないと、そもそも「何かを考えた」とか「それを言葉にできる気がする」という気持ちにならない。そしてそれは、相手に伝わるくらいちゃんと説明できると感じている時なので、そういうときは既に漏れのない網羅的な説明が完成している。だから、「文章長い」とか「メール長い」とか言われるのは、まぁ現象としては正しいんですが、どうしようもないんですよね。長く書く以外、文章を書く方法がないんです。これは、疲れるし、周りに迷惑をかけるし、さらにそれが理由で疎まれるので、自分としても辛いです。

 

お断り

最後になりましたが、以上の記述は全て僕個人の内面的な体感をベースにして、自分で発達障害について勉強・研究したこと及び友人への聞き取りを加味して構築した考え方です。その性質上、一般性・普遍性の担保はできません。とはいえ、個別的なことを徹底的に掘り下げて追究するからこそ開ける地平があると思うので、あえてこのようにしています。また「発達障害の場合の〜」とか「普通の人の場合の〜」と十把一絡げにして書いたのも、この目的のために便宜的に選択した書き方に過ぎず、実際には「普通」という決まったものがある訳でもないし、「発達障害」が全員同じという訳でもありません。その辺りはご容赦ください。

一般論を知りたい方は、出版されている専門書をご覧ください。専門書を通覧していると、逆にこういう個別的かつ掘り下げた記述というのが見つけにくい、ということに気づいてもらえると思います。