なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

サンシャワー展、東南アジア現代芸術。当たり前の世界観と当たり前ではない別の世界観について。それを経験する場としての展覧会についての体験記(レビュー)。またヴァンディ・ラッタナ作「独白」について。

サンシャワー  東南アジアの現代美術展  80年代から現在まで」という展覧会が六本木で開催している。

 国立新美術館森美術館の両方を使って膨大な数の作品を扱っていて、対象の年代も80年代〜現在までと大胆にカバーしてる。東南アジアについての現時点における総決算のような展覧会なんではなかろうか。これを、5日間かけて舐めるように観てきた。その感想を書いて、面白さを紹介するとともに東南アジアへの関心を少しでも広めたいと思う。レビューでもあり、体験記でも感想でもある。

 ヴァンディ・ラッタナ作「独白」

 いろいろ書きたい感想はあるけれど、少し独特な印象を持ったある一つの作品の体験について、まず取っ掛かりとして書いてみたい。

 それは、森美術館のかなり最後に近いセクションで、歴史との取り組みをテーマにした箇所だった。

 大きく取られたスペースの片隅の壁に、家庭用程度の小さなTVスクリーンが掛けられ、一見すると平凡な森の一角を撮っただけのように見える映像が映っている。熱帯の太陽が照りつけて風もほとんど吹かず、見るからにうだるような暑さ。そのような、少し開けた森の一角。

 その前に置かれた小さな長椅子に座り映像を観始めると、男性が誰かに語りかけるモノローグと、それに合わせた映像であることがわかる。スクリーンの横に取り付けられた小さなプレートには、作品のタイトルとしてヴァンディ-・ラッタナ作「独白」とある。

 そういえばこの部屋の入り口にあった解説で、「『独白』は、作家自身が生まれる前に亡くなった実の姉へのメッセージである」とあった。このモノローグがそれなのだろう。

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カンボジアのマンゴーの双樹

 舞台は、作家の生まれの国であるカンボジアだった。作家自身らしき独白の男性は、家から遠く離れた場所の、ある二本のマンゴーの木のもとへ出掛ける。いまから40年近くまえ、男性が生まれる前に亡くなった姉は、マンゴーの木の下に埋められた。姉が埋められた当時は苗木だったそのマンゴーの双樹は、いまや大木となった。薄緑色のような小さく控えめな花を、葉と見紛うほど無数につけている。樹高が高すぎて、実がなっても人間の手が届かないだろう。

 話したことも、微笑みあったこともない、見知らぬ姉への愛情を語る男性。母や父は、もはや姉のことを語ろうとも、その名前を言おうともしない。生きていたならばもう40歳ほどになっていたはずの姉は、マンゴーの木の下で、きっと今も眠っている。でもその大木の木陰は広い。ここなのか?あそこなのか?それともそこだろうか?男性は手がかりのないまま、姉の眠る場所を探す。そして最後には、その辺りに落ちていた朽ちた一本の竹と、乾いた一握りの赤土と、そして辛うじて手が届いたマンゴーのひと枝を持ち帰った。男性の感情の吐露とともに、緩慢な映像が進んでいく。

ひとつの事実と衝撃

 ところがその緩慢さとは裏腹に、独白の終盤のある時点で、まるで何事でもないかのように一つの重要な事実が明かされる。マンゴーの双樹のもとに眠るのは姉だけでなく、五千人もの人間であるというのだ。姉一人がそこに眠っているものと勝手に思い込んでいた私は衝撃を受ける。そこで初めて、「姉がいるのはここか?あそこか?」という言葉が、単なる場所探しという意味を超えて、顔の見えない無数の亡霊の中から姉を探し出すという、生者と死者を隔てる壁ゆえの不可能な捜索をこそ指していたのだと気付かされ、頭を殴られたような鈍いショックを受ける。姉を殺めた内戦は、同時に五千人もの人間を殺めた。その場所で。そしておそらく、そのような場所がカンボジアには数え切れないほど存在している。無数の亡霊と墓標のない墓地という想像が瞬く間に広がり、姉はその中に投げ込まれる。名前を語られなかった姉は、このとき、存在としても無名性を確立する。

 不意を突くあまりの衝撃に私がたじろいでいる間、私の背後には他の来場客が次々と去来する。一組が来ては、マンゴーの双樹の画が次の画面に移り変わるまえにもう立ち去っていく。木陰の画から次の画面に移り変わるよりも早くに立ち去っていく。画面の移り変わりはあまりに鈍重で、マンゴーの双樹はあまりに変化がなく凡庸に見える。男性の独白もまた、あまりに抑揚に欠け落ち着き払っていてる。長椅子に腰掛けることなく去来する客は、極端にテンポを抑えたその映像をほんの数秒間眺めるだけで、興味を失い立ち去っていく。独白の男性は、全編中で一度だけ、感情を高まらせ抑揚のついた声で、姉への苛立ちを語る場面がある。しかしそのとき、私以外に誰もそれを目撃する人はいない。乾燥したカンボジアのうだる暑さそのもののような鈍重な映像が、不意打ちによって私の心にもたらした鈍い心の痛みは、他のどの客とも共有されずに、ただ部屋の端で垂れ流され続ける。

 朽ちた竹と赤土とマンゴーの枝木を持ち帰った男性は、それを父母に渡す。父母は、聞こえないような声でブツブツと何か文句を言ったり、何も言わずに黙っていたりしたという。名前を言われることも、思い出を語られることもない姉は、その形見を届けられても涙を流されない。映像は、父母の表情すら決して映さない。姉をめぐる家族の歴史はあまりにも重く、姉を見知らない弟を除いては誰も正面から向き合うことができないのではないか。

 姉のみならず父母さえもが無名で顔のない存在として語られるこの独白において、私が察し得ることは限られている。しかしそれは一つの確信として立ち現れる。照りつける灼熱の太陽と、変化なくそそり立つマンゴーの大木と、そして緩慢な男性の独白の裏側に、語り得ない闇のような悲しみが隠されているという確信。そしてそれは、その鈍さゆえに、誰にも気を止められず部屋の片隅で垂れ流され続ける。まるで悲劇の歴史を、悲劇的なすれ違いそれ自体によって再演しているかのように。

垂れ流される見事な表現

 作家自身やその家族の心に鉛のようにのし掛かる悲しみと負の歴史は、作品の表現によって見事に伝わってくる気がする。個人的な、家族の悲しみ。語るにはあまりに重い負の過去。それがごく一般的な家族史であるという残酷な歴史。それら全てに対し、いまだ完全には折り合えないまま高齢を迎えた父母。直接は識らないからこそ果敢に出向いて行けた、弟である作家自身。しかし彼もまた、父母がマンゴーの枝木と赤土に反応を示さないことに、複雑な共感を示す。カンボジアの乾いた熱気そのもののように緩慢で鈍重で暑苦しく、また全てを退けて茣蓙に横になっていたいような重々しい気分にさせるこの映像によって、これら全ての暗く重いメッセージが見事に表現されている気がする。

 しかし、まさにその緩慢さゆえに、作品は多くの観客の関心を得られない。映像と悲しみはただ、部屋の片隅で、気づかれないまま垂れ流される。見事に表現できたからこそ伝達に失敗するというのは、何という皮肉だろうか。

 

 このすれ違いは、何故起きたのだろう。それは必然だろうか。私は、立ち去って行った来場者を非難すべきなのだろうか。

 

現代芸術を現実の中に位置付ける

 一般的に現代芸術は、私たちの日常世界を「当たり前」たらしめている固定観念や偏見に対して、そっと疑問符を貼り付ける。

 世界を何らかの方向に変えていくことは、まずその目指すべき世界を想像するというステップからしか始められない。つまり、何をどう変化させて、代わりにどんな世界を構想するのか、という想像力が、全ての始まりになるということ。しかしまさにこれこそが、非常に難しい。なぜなら、当たり前になってる世界観の中では、それの外側に出て自分自身を見つめ直すことは普通はできないから。もしそれが簡単にできるなら、そのような世界観はそれほど「当たり前」ではない。簡単には逃れられない「当たり前」こそ、真に挑戦する価値のあるものだといえる。その難しい課題を自ら背負って頑張ってるのが、現代芸術だろう。

 現代芸術のこのような位置付けに照らせば、日本において「東南アジアの」現代芸術を展示し鑑賞することは、そもそも矛盾しているかもしれない。フィリピンやインドネシアの作家が、彼らの生きてきた世界と歴史の「当たり前」に対して疑問符を付けようとする試みは、ごく普通の日本人にとってどういう意味がありえるだろうか。その「当たり前」を共有していない日本人にとって、「当たり前への挑戦」は、魅力を持たないのではないか。「独白」が関心を獲得できなかったのは、当然なのではないか。

 ところが、「当たり前」に挑戦している作品は、その当たり前の世界観や前提や存立条件を必然的に含み込んでいるはずだ。100%完全に何かを拒否した作品など、もはやその文脈の中に位置づけることが不可能になってしまい、逆に批判として成立しなくなるからだ。

 私たちは、このような「非-当たり前の提示の中に含み込まれた当たり前」を意識して観ることができないだろうか。そうすれば、本来なら当たり前を批判するはずの現代芸術が、逆に「何が当たり前なのかを知るための見事な道具」、いわば合わせ鏡のような洗練された道具に変身する。

 そういう活用の仕方は、必ずしも簡単ではないだろうと思う。ひと目観るだけで終わることなく、観ながらあれこれ考える必要があるし、社会政治経済文化についての背景知識があるほどそういう見方が容易にもなる。とはいえ、ある程度なら誰にでも可能なはずに違いない。誰にでも訴えられる普遍性を持った作品こそが、良い作品であり、したがって展覧会に持ってこられてるだろう(と期待したい)から。

東南アジアの現代芸術を日本人が観るということ

 だから東南アジアの現代芸術は、私たち日本人にとって、日本の現代芸術を観るよりも複雑さのレイヤーが一枚増えている。作品がどんな世界観を非-当たり前として提示しているのかを考える前に、そもそもどんな世界観が当たり前なのかを感じ取らなければならない。まずそれを感じ取った上で初めて、普段日本の現代芸術を観ながらするように、何が非-当たり前として提示されてるのかを探る、というステップに進んで行く必要がある。ステップが一つ多く、手間暇かかって緻密な作業になる。

 サンシャワー展を鑑賞することを、このような手続きとして考えてみようではないか。そうすればサンシャワー展全体が持つ、非常に貴重な価値が立ち現れる。それは、サンシャワー展が、作品や作家を取り巻いている世界(つまり東南アジア)について知るための一級の機会になってくれる、という価値である。

 東南アジア世界について知りたければ、それを解説した歴史の本を読んだり、飛行機に乗って身をもって体当たりすることも出来るし、そうすべきであることは間違いない。でも、そのように正統派の「勉強」をしたときに必ずぶつかる壁がある。その壁とは、「この歴史と社会については分かった。では、そこの中に生きている本人たちはその社会や歴史について何を思い、どのように未来を展望して、何に苦しんで、どんな喜びを見出しなが暮らしてるのか?」という、掴み所のない素朴な疑問である。そんな疑問にはっきりと答えてくれる学術書はないし、旅行で体当たりしたとしても、曖昧模糊としたイメージの海に溺れてしまう。

生身の人生を知るための道具

 現代芸術を観ることは、この疑問への答えを見つけるための格好の手段になる。広く認められた歴史や政治状況といった、本から得られる知識だけでなく、もっと生身の人間の生き様、人生、暮らしとしてその世界がどのようなものなのか。そのような観点から、東南アジアについて知ることができる。作家は、自分自身の個人的な幸福や苦悩を踏まえつつ、常にそれを広い社会の状況につなげながら作品を作る。そのため部外者である私たちにとって、すばらしい窓口を提供してくれる。

 ところで、無知の鑑賞者である私たちは、作品に含まれてる世界観のうちどの部分が当たり前でどの部分が非-当たり前なのかという判断ができないこともある。ならば、当たり前のものを非-当たり前と誤解したりその逆であったりということが起き、それは致命的な間違いのようにも思える。

 しかし、それはそれで構わないと私は言いたい。誤解を恐れずにいえば、作家が提示する「非-当たり前」すらもが、突き詰めればその世界の現状そのものであるはずだ。その世界において可能な表現しかそこには存在できないはずであり、したがって私たちの目の前の作品も、それがどれだけ現状への批判であったとしても依然としてその世界にしっかりと所属している。矛盾しないよう正確な言い方をするならば、つまり作品は、その世界に属しつつ、その世界の中の何かをズラしたり裏返したり、あるいはある部分を切り離して別の部分にくっつけたりするに過ぎず、全く無関係の何物かを外から持って来てそこにドンと置き立ち去っていくのではない、ということ。作家はその世界の責任あるメンバーとして、つねに説明責任を果たすべく、そこに立って自ら鑑賞者を招き入れる。だから無知の鑑賞者である私たちも、当たり前と非-当たり前の判別ができないことを恐れる必要などない。単に作家を信頼して、そこに身を委ねて感じるままに感じ取ればいい。それによって、東南アジアや作家の出身国について根本的に間違った理解をしてしまうことなどほとんどあり得ないのではないか。それが、サンシャワー展のように綿密な調査とキュレーションによって準備された展覧会の、代え難い良さなのかもしれない。

したがってサンシャワー展は、矛盾などではない。むしろ逆である。展覧会が全体として、東南アジアという地域世界とそこでの人間の生き様について知るための最高のテキストブックになる。

 

関心の外側と内側

 さて「独白」に戻ろう。東南アジアを知るための格好の窓口としてサンシャワー展を見るとき、「独白」の皮肉は何を教えてくれるだろうか。

 私たちは、何かに関心を示してそれを知ろうと行動するとき、常に知識の内側と外側の境界線上を不安定に揺れ動いている。すっかり知識の内側にある事柄に対して、私たちは関心を抱かない。それは既知だから。しかし一方で、すっかり知識の外側にある事柄についても、私たちは関心を抱かない。なぜならそのような事柄は全く理解不能であるので、自らの問題意識や好奇心を刺激しないから。

 来場客にとって、サンシャワー展は何らかの意味で知識の外と内の境界線上に位置付けられているに違いない。そして個々の作品も、多かれ少なかれ似た位置を占めている。

 ところが当然ながら、個々の作品ごとに、その境界の外側か内側に向けて少しズレた位置を占めるものもあるだろう。「独白」もまた、多くの来場客にとって、どちらかの方向にズレていた。映されたマンゴーの双樹が、単なる平凡な、つまり既知のイメージとしての森に見えたかもしれない。もしくは逆に、亡き姉に語りかける弟という個人的な状況が歴史社会的背景にどう繋がるのかが見えなかったかもしれない。

 しかしこれら二つの種類の無関心は、実は円環的に繋がってはいないだろうか。知らないことと、知りすぎていること。そのどちらもが、誤解というものと常に紙一重であるように思う。私たちが知っていると思うもの、それは常に、驚きを惹起する可能性とともにある。私たちが知らないと思っているもの、それは常に、予期せぬ共感の可能性とともにある。

作品が実演するもの、展覧会に足を運ぶ意味

 この両義性は、「独白」において見事に実演された。なぜなら次から次へと去来する何組もの来場者の横で、私という一人の来場者は、目を釘付けにされて魅入り、作品から多くの情感を得たからだ。共感と無関心の分水嶺は、鋭利で見定め難く、私たちはいとも簡単にそのどちら側かに押し流されてしまう。

 分水嶺のどちら側に押し流されるのかというのは、個々人の関心だけでなく、偶然にも依っている。私はこちら側に流され、立ち去った彼はあちら側に流された。そこに必然性はない。

 そしてそのような言い方には、「この作品においては」という留保をつけねばならない。別のあの作品においては、きっと彼はこちら側に流れ、逆に私はあちら側に流れて無関心のまま立ち去ってしまっていたに違いない。偶然のいたずらによって、来場者は全く異なる「お気に入り」の作品を見つける。

 サンシャワー展の見紛うことのできない特徴は、86組ものアーティストが参加するというその規模だ。また言うまでもなく、その規模から帰結する多様性。そのようなサンシャワー展においては、誰しもがそれぞれの偶然性と関心に応じた魅力を見つけることを可能にするだけの潜在性と懐の広さが、間違いなく保証されている。

 そうやって魅力を発見すること。その一つ一つの魅力とそれを楽しむ心。それがそのまま、現代芸術を窓口として東南アジアの世界観を知ること、つまり東南アジアの当たり前と非-当たり前の両方を知ることになるのだと思う。

 

 展覧会は10月23日まで。期間中、サイドイベントも多数。ぜひ行ってみてください。 http://sunshower2017.jp/

 

youtu.be

 

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