なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

発達障害を自覚することは、自分を研ぎ澄ますこと。三つの具体的な、素晴らしい変化について。

自分が発達障害だと気づいた後のこの世界では、とても素晴らしいことがたくさん起きました。

「ラベルを得て安心した」というのはよくある話で、そういう段階は自分にもあった。でも本当に素晴らしいことはそこからもっと先に進んだ場所にあって、それは以前には想像すらできなかったようなことです。

三つのことについて書こうと思います。が、それら全てを敢えて一言で纏めるなら、「自分について理解が深まったことで、自分の能力と感覚が研ぎ澄まされた」ということのはずです。とはいえこの抽象的な要約だけでは、それがどれほど素晴らしいことなのかが伝わりません。その素晴らしさは、具体性の中に宿っています。

自分の「眼」への信頼

一つ目は、自分の「眼」には特別な何かが宿っていると知って、眼を頼りにして生きるようになったこと。特別な力が宿った眼を頼りにする生活は、豊かです。

無意識だった眼の力

眼を通って入ってくる情報を、僕は極端に高い解像度で捉えることが出来ている。一度通ったことのある場所は、たとえその風景の具体的な要素情報は記憶していないくても、その場所に存在している非常に細かな特殊性の集合を眼が覚えていて、二度目に通ればたいてい「一度通ったことがある」と分かる。風景のどの部分を覚えているのかは自分でも分からなくて、ただ単に眼が、「この場所を知っている」と教えてくれる。

眼が覚えてるのはおそらく道の角度、太さ、明るさ、背景となっている町並みの遠さ、並木の高さ、等の情報のようであり、したがって数年くらい時間が経って道路沿いの建物が入れ変わったりしても、眼の記憶には支障をきたさない。

対面して会話する人間が普段と少しでも違う表情を見せれば、その変化に気づくだけでなくて、その変化の背景にどういう文脈があったりどういう感情の変化があるのかが、分かる。それは直感的に分かる。推測や推論はしていなくて、ただ眼が教えてくれる。眼の力を発揮している場面はこの他にも日常生活の中に無数にある。

ドキュメンタリー映像を通して世界にアクセスする

発達障害について勉強した結果、この特性が自分の独自性なんやと自覚的になることができた。道を覚えることや相手の感情を汲み取ることは以前から得意やと知っていたし自覚の前後で大きな変化はないけれども、思ってもみなかった大きな変化があったのは、ドキュメンタリー映像を意識的にたくさん観るようになったこと。これまで眼の力を発揮させていたのは自分の両手が届く生活の範囲内やったけれども、今はその力を、両手の届かないもっと広い世界について画面を通して知り学ぶための手段として、全力で活かすようになった。

ドキュメンタリー映像を観るとき、僕は、たぶん他の人が同じ映像を観るときより何倍か豊富な情報をそこから引き出し、他の人にとってみればそこに写っていないはずの世界を、知り理解している。僕にとってのドキュメンタリー映像は、他の人にとっての小説なんじゃないかな。皆が小説を読んでやるように、僕は映像を観ることで、見知らぬ人の人生を覗き見、そしてこの世の無常を知り、人間社会の儚さを知る。文字の形で書かれた小説を読みながら想像を膨らませようとするよりも、僕には、人間の顔が写され、それに光があたって影ができ、被写体の表情が撮り手の挙動一つ一つに反応しながら劇的に変化していくのを観ている方が、何倍も何倍も感動する。そこには、人間社会や生と死についての示唆が無限に写り込んでいる。おそらく他の人には見えていないものが、僕には見えている。

だから僕は、ドキュメンタリー映像を見て世界について学ぶことにした。僕にとってこれは非常に効果的な情報チャンネルで、それは心に楽しく、頭に刺激的であり、余暇としてリラックスできる。だからNHKオンデマンドを契約して、興味のあるドキュメンタリーを片っ端から観ている。ドキュメント72時間にはほんまにお世話になっている。最近ディレクターが変わったっぽくてクオリティがガクッと落ち、落胆を隠せないでいる。

思えば昔から、本を読むなら小説よりエッセイが楽しめたし、いつもこれを公言していた。また過去に見た映画のなかで最も素晴らしいと思ったものは、The Act of Killingというドキュメンタリー映画であり、これ以外にわざわざDVDを買った映画はなかった。エッセイを楽しんでいたときもThe Act of Killingに感動していたときも、その楽しみは自分の「眼」の特別な力がもたらしてくれているのやとは、気づいていなかった。今はそれを知っている。ドキュメンタリー映像を観るという行為の中に、自分の能力の活躍の場があり、自分の愉悦の源泉があることを知っているから、僕はドキュメンタリー映像を観る。

演劇を観ることで自分を活躍させる

また同じように、僕は演劇を観る。肩と胸を微かに膨らませては縮ませている役者の呼吸が見えるし、目線の動きという完璧な演技が見える。役者が床に横たわったときの、裸足の足裏に張った筋肉の緊張が見えるし、その緊張が作り出す足裏の皺も一筋一筋が見える。役者と観客(自分)との間の、ほんの数メートルの距離が見える。その距離が演出によって見事ぶち壊される瞬間が見えるし、演出が失敗して距離が広がる瞬間が見える。

演出家、脚本家、役者、舞台、つまりまとめて演劇というのは、そういった細部への視線を求めてくれている。そういった視線を送ることができる「眼」によって初めて察知できる繊細さや完璧さや違いといったものを、舞台関係者全員が全力で追究している。だから僕は、演劇を見ることで自分の能力を活躍させられるし、そこに自分の愉悦の源泉がある。

以前は、演劇というものに不思議な魅力を感じていながら、その魅力との付き合い方を分かり兼ねていた。ときどき思いついたように劇場に行っていたけど、そんなに頻繁ではなかった。でも自分の眼の力に気づいた今は、信念を持って、全力で演劇を観る。知識はほぼゼロやし全くの素人と言っていいくらいやけど、でも演劇の細部への視覚的感性に限って言えば、演劇に対して目の肥えた玄人と同じくらいの鋭さを持っていると信じて、自分らしい観劇を全力で行う。

自分の「眼」が持っている力に全幅の信頼をおいて、それを通して意識的に世界へアクセスする生活は、非常に豊かです。自分だけの豊かな世界を、独り占めしている。

発達障害を持っている他人への洞察と共感

世界の構成要素としての発達障害

発達障害は、困った概念です。

発達障害の傾向が全くない一部の人にとっては、それが何なのかが全く分からない。

一方で、少しでもその傾向を持っている人というのは割合として非常に多くて、身の回りを見渡せばたちどころに発見できる。ではその本人たちにとっては分かりやすい概念なのかというと、実はそうでもなく、むしろ発達障害という言葉は本人たちの心をザワつかせる危険な概念です。多くの人が意識的・無意識的に、それを自分の生活から遠ざけ、聞かなかったことにし、自分は関係ないと思いたがる。

なぜならそれが、「障害」という言葉を含んでいるから。自分に「障害」(の傾向)があるなど当然認めたくないし、実際自分は無事に社会生活を営んでいる。誰でも、そう考えるのは自然なことやと思う。

だから多くの人は、発達障害という概念とは無縁のまま、しかし発達障害と隣り合わせに(自分の中にそれを有して)暮らしている。繰り返しになるけれどもその数は非常に多い。しばしば「1割程度の人が発達障害」と言われるけれども、何らかの関係する傾向を持っている人は3~4割に達するんじゃないかと思う。

世界の構成要素を理解し、思いを馳せること

ここまで多く見積もると、「それだけ多いなら、障害と呼ぶのはおかしいんではないか?」という議論が必ず出てくる。でもそれが「障害」であるのかどうか、それを「障害」と呼ぶのが間違っているか正しいかという問題は、端的にいって、どっちでもいい(どうでもいい)。重要なのは、次の三つのこと。

  1. 脳機能の発達に関するある特定の傾向性が存在していること、
  2. それが帰結しやすい社会生活のスタイルや物事の得意不得意にも、特定の傾向性があること、そして
  3. その脳機能の発達に関する傾向性には、脳神経学的な(未だ完全には解明されていない)仕組みが存在していること。

そしてその仕組みを(未解明の範囲内であっても)知り理解することによって、身の回りの3~4割(なのか何割なのか知らんけど)を占める多くの人が感じている困難に、的確に思いを馳せることができる。そういう人たちは普通、その困難を人に説明できず、解決策を見いだせず、そしてたいてい、自分が困難を抱えているということを自分自身でさえ明確には認識できていない。発達障害について知識を深めたことで、そういう人たちの気持ちに思いを馳せることができるようになった。

言い換えれば引き出しを増やすこと

言うまでもないが、「あなたは発達障害ですよ」なんて言わない。単に一つの可能性として、相手の性格やコミュニケーションの背後に発達障害との関連があるかもしれないと念頭に置くだけ。もしそうだったならば、相手の発言や行動をどのように受け止めるべきなのか、と、可能性の一つとして常に考えること。

それは押し付けでも決めつけでもない。相手が密かに持っている、表面には見えない内面の困難について、自分の想像できる範囲を押し広げることができたということ。相手への共感の引き出しが増えたということ。

ここで重要になるのが、その引き出しが有意義であるような相手というのの数が非常に多いということ(上記の「3~4割なのか何割なのか知らんけど」という点)。経済的困難への配慮ができるようになることも一つの大切な引き出しやし、性的マイノリティへの配慮ができるようになることも一つの大切な引き出しやから、発達障害への配慮との間で優劣はない。でも単純に量的な特徴として、こちらが発達障害への引き出しを持って臨むことが有意義であるような相手というのは、非常に多い。

自覚後、社会生活の質が向上した

この引き出しを持ったことで、ある種の社会的シーンにおいて、他人との交流の質が深まったのを感じる。いま仕事で、発達障害のある生徒への家庭訪問を行っているけれど、以前の自分なら到底できなかったレベルで思いを馳せることが出来ている。正確に言えば、以前であっても、今やっているのと同じ方向性で思いを馳せることは出来たやろうと思う。でもそれは暗闇のなかで手探りで進むような自信のない作業になっていたやろう。今は自分の見立てや配慮の仕方に自信をもってる。発達障害についての確固たる理解があるから、それが出来ている。その本人にも保護者にも、自分からは発達障害の「は」の字も語っていないけれども、そこにそれがあることを知っていて、それを踏まえた配慮をしている。そして相手から「発達障害」の言葉が出てくるのを、黙って聞いている。そういう引き出しが増えた。

直接的な支援の現場でなくても、何気ない普段の社会生活のなかで、この引き出しが活躍する場面は極めて多い。今住んでいるシェアハウスの住人にも、かなり典型的な人がいる。僕はその人と上手く付き合えないので、極力避けて、会話をしないようにしている。でもその判断の裏には発達障害についての理解があり、これによって無用な軋轢や相互不信を回避できている。こういう引き出しによって、自分の社会生活の解像度が増している。それをはっきりと感じる。発達障害について学んだことで、社会生活の質が上がった。

文字情報を介した知識へのアクセス

 文字で小説を読むよりも視覚でドキュメンタリーを観るほうが良いと書いたけれども、実は文字を読むことについても静かな革命が起きている。

本を読むのが遅いという問題から始まったこのブログ

このブログを書き始めたきっかけでもあるわけですが、僕の発達障害の一つの特徴として、本(=まとまった分量の文字情報)を読むのが他人よりも際立って遅いという問題がある。日本語では1時間に10ページほどしか進めず、英語では1時間に3ページほどしか進めないという状況だった。そのパフォーマンスは、たまたま調子の悪いときにそうやというんではなくて、コンスタントにそうなのであり、それでも中学生の頃から一貫した努力で少しずつ改善した結果なのだ、ということを改めて書いておきたい。

ところが、発達障害について自覚し勉強していたある時、天の導きとしか言えないような不思議な瞬間の思いつきによって、読書の速さを上げる方法を発見した。それは世にも不思議な、右目を黒い幕で隠して左目だけで読書をするという方法。過去のエントリーで詳細に書いているので省くが、今の時点で改めて振り返って一言でまとめるならば、眼の能力の一部を束縛することで逆に効率的な情報処理ができるようになった、ということなんやと思う。この方法により、大雑把に言って日本語で1時間に20ページくらい、英語で1時間に6ページ以上読めるようになる。つまり2倍加速している。ただし実際にはバラつきがあり、単純な2倍よりも早かったり遅かったりと色々。詳しくは過去のエントリーを参照のこと。

anthroish.hatenablog.com

中学生の頃に、本を読んで知識を広げたいなぁと漠然と思うようになって以来、20代の終盤に差し掛かる現在に至るまで、どれほどどういう形で頑張っても読書量に限界があることが、本当に辛いと感じてきた。制約のあるなかで少しでも勉強したいと思って、日本の大学ではいつも授業直前のギリギリまで図書館で本や論文を読んでいて、あるとき友達から「キャンパスで見かけるとき、いつも走ってるよな」といわれ、ハッとしたことがある。本は借りれども借りれども、その5%程度しか読み切れずにまるまる返却する。全然読み進められないけども、すこしでも自分にプレッシャーを与えることで、なるべくたくさん勉強しようとしてきた。

このブログで書いたようにアメリカで勉強が辛かったことはもとより、学位を無事に取得したイギリスの学生生活も、ほんまに過酷やった。周りの人が一応それなりに休日や余暇を確保していることがほんまに意味不明で、せっかく誘われても断らざるを得ず、悔しい思いをしながら諦めた交友関係もあった。

本を読むのが速くなって、世界が近くなった

だから本を読むのが2倍速くなって、世界が変わった感じがする。大げさに聞こえるかも知らんけど、おそらく聞いた人が感じるほど大袈裟な意味では自分は言っていなくて、かなり文字通り世界が変わった感じがしている。例え話やけど、視力が2倍良くなるメガネを与えられた瞬間は、こんな感覚なんじゃないやろうか。生まれてからずっと鼻が詰まっていた人が、手術で急に嗅覚を得たときのような。

正確に言うなら、世界が変わったというか、世界にアクセスできるようになったという感覚。そこにある世界それ自体は変わってないし、その世界がそこにあることは以前から知っている。でも、どう頑張っても制約があってアクセスできなかった。それがある日、突然、アクセスできるようになった。

2倍というのがどれくらい劇的な変化なのかは考え方様々やけど、今の自分としては、たかが2倍、されど2倍、という感じを持っています。たしかに万能とは程遠いけど、でも以前と比べればぜんぜん違う。

速さに加えて、質的な変化も劇的

さらに、速さとそれに伴う情報量の増大もさることながら、読書における精神的・身体的な負担の軽減というのがとりわけ強く感じられる。

というのも、この片目読書によって起きた変化としては、(上記のエントリーでも書いていますが)情報が脳みそに流れ込んでくる際の質的な感覚にもかなりの違いがある。以前より、本に書いてある内容がスッキリわかるという感覚がある。別の側面としては、以前よりもシンプルにしか理解できないという特徴もある。以前の自分は非常に深読み(精読)するタイプであり、シンプルに筋を理解するということがどうしてもできなかった。2倍速の片目読書によって、精読に対比されるものとしての所謂「速読」的な読み方ができるようになったんやと思う。そしてその読み方は、他の多くの人が一般的に行っている読み方と非常に似たものやと思う。

この読み方は、疲労がたまりにくい。この片目読書をやって初めて、以前の自分がどれほど疲労の溜まる読み方で強行していたのかということを、ヒシヒシと実感した。ここまで自分で言うと顰蹙を買うかもしれませんが、以前の自分の読書の努力は、かなり正統的な意味で「障害を努力で乗り越えていた」タイプやったと思う。他の人の読書のやり方を出来るようになって初めて、そのことが分かった。他の人にとって読書がどれほど楽なことなのかを、初めて知った。

神龍(シェンロン)が降臨したレベル

だから、2倍速という量的な改善に加えて質的な変化もあり、全体として読書という経験が非常に負担の少ないものへと変わりました。これによって、文字情報を介した世界へのアクセスが劇的に改善した。本当に浮き立つような気分であり、飛び跳ねて喜びたい気分です。こんな風に書いても対して喜びが伝わらないかもしれませんが、本当に文字通りの意味で飛び跳ねて喜びたい気分なんやと想像してもらったなら、僕の心境に関して決して遠くない理解やと思います。

「一生に一度だけ、ただひとつ神様に願い事を出来るなら、それは読書を早く出来るようにしてほしいということ」。そういう言葉を、たぶんこれまでの人生で二度、実際に口にしたことがありました。それくらい、読むのが遅いという問題は自分にとって辛いことでした。いま速くなってどれほど嬉しいか、想像してみて欲しいです。

発達障害を受け入れたら全員がこうなるという保証はない。けれども...

以上の素晴らしい変化は、僕という人間の固有の背景の上に成立した、極めて個別的な事象に過ぎません。わざわざ言う必要もないと思いますが、発達障害について自覚してそれを受け入れたら、全員が同じ変化を経験するわけでは決して無い。

でも、どんな人でもその人なりに、受容して徹底的に研究することで、何かしらの興味深い変化は起きるやろうし、その中にはポジティブな変化も少なくないやろうと思う。

自分の場合で言えば、一番良かったのはやはり、徹底的に勉強したことじゃないかと思います。専門医が一般医向けに書いた本をたくさん読みました。ある程度の教養があれば、そういう本は素人でも理解できます。医者が一般人向けに書いた解説書やハウツー本を中途半端に読むよりも、最先端の研究を背伸びしてでも読み漁るほうが、最終的には圧倒的に大きなメリットがあると思います。自分が読んだ本について一言ずつ感想を書いたエントリーもあります。参考にして下さい。

anthroish.hatenablog.com

 

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