なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

安田祐輔「暗闇でも走る」を読んで考える

去年の冬から、とあるベンチャー企業で仕事をさせてもらってきました。それもこの5月で契約満了で終わりとなります。

その会社の社長が本を出版したので、読みました。

honto.jp アンチ・アマゾンでhonto.jpのリンク。公告ではないです。

概要にあるとおり、著者の安田さんは幼少期いらい壮絶な三重苦・四重苦を経験してきた方です。この本は、それら一つひとつをどのように乗り越えてきたのかを記したものです。

同時代を生きること

安田さんに比べればずっと恵まれた家庭に生まれ、たいした苦労もなく育ってきた自分にとっては、この本に書かれてるような苦境はあまりにも遠い世界のことのようであり、またそれが自分と同じようなごく普通の場所で同時代的に起きていたということに不思議な感覚すら持つ。

例えば安田さんにとっての転機の一つだった9.11とそれに続く戦争。その歴史的事件について僕自身が持っている個人的な記憶というのは、中学1年生のある晴れた日、自宅に帰ると母がいて、リビングルームでテレビがついている。掃除がされた後らしき清々しい空気が部屋に充満していて、広く取られた3方向の窓から午後の日差しが明るく差し込んでる。そのなかでテレビから、貿易センタービルの映像が繰り返し流れていた。歴史的な事件であることはわかったけれど、幼く、平和に暮らす自分にとって、それは平凡な日常の中の一つの事件でしかなかった。(9.11が起きた日本時間をいま調べてみて、当時18時間くらい事件を認識せずに過ごしていた事がわかり少しショック。)

その同じテレビ映像を見ながら、当時18歳の安田さんは、苦しんできたそれまでの自分がそれでも生きるということの意味を問い、「なにか」をすることで意味のある人生にしたいと決意し、そして浪人を経て大学時代の活動までつながる道を辿り始めた。

「辿り始めた」と簡単に言ってしまえば簡単に聞こえるけれど、偏差値30から東大を目指して猛勉強をするために、毎日公民館の自習スペースで自分の脚を椅子に(文字通り)縛り付ける生活を始めた、ということらしい。そのころ僕は、中学校で思春期らしい人間関係の悩みを生きて、部活を辞めたり、テレビゲームをしたり、英語の勉強にはまったりして、平凡に暮らしていた。

同時代を生きるというのはまさにこういうことなんやと、不思議な感覚を覚える。

何が突き抜けていたのか

とはいえ安田さんのような恵まれない環境は、その部分的なものであれば経験している人は多くいるはず。そのなかで、安田さんだけがここまで突き抜けて、一つの意味ある事業をこうやって軌道に乗せることが出来たのは、何が違ったんやろうか。

一つ思ったのは、「うえに上がるために何かをする」というときに選びうる方法として、「勉強する」という古典的な選択肢がその古典的な威力を遺憾なく発揮したんやろうか、ということ。つまり、方法の選択が正しかったんではないか、ということ。

これは自分自身の経験からも感じることやし、安田さん本人からも似たことを聞いたので間違いないはずやけど、論理的な思考や知的な体力というのは、訓練によって圧倒的に伸ばしていくことができる。安田さんが壮絶な受験勉強を2年間も続けたということを本で詳しく知るに及んで、その期間が安田さんにとって、単に受験のための知識だけでなく総合的な知的体力を伸ばすためのすごく大切な期間に(結果的に)なったんじゃないかと想像した。一緒に仕事をさせていただく中で、安田さんが本当に知的で、頭の回転が速く、理性的で論理的なことを感じてる。テンポが速いのでついていくのが大変。

塾を経営するためには、社会にどんなニーズがあるのかを的確に把握して、それを数字に落とし込んで考え、多様な人間と円滑にコミュニケートしながら構想を練り上げて、それを現実の制約の中で具体的に実行していかないとあかん。大変な知的能力が求められるし、自分には到底できない。一緒に仕事させてもらうなかで、この人がそれをこれまで見事に続けてこられたのは大いに納得、という感じがしている。そしてその地盤は、受験勉強を含む高負荷の勉強のプロセスの中で克己的に鍛えてこられたんではないやろうか。

「うえに上がる」と決意したときに、特定のスキルを身につけようと思う人もいるやろうし、芸術方面で一発あてるのを目指す人もいれば、まずは地道にお金を貯めようと考える人もいておかしくない。どんな選択肢を選んでも間違ってるわけではない。ただ、大昔から多くの人が選んできた「勉強で頑張る」という選択肢は、大昔も今もやっぱりそれなりに有効なものなんやろう。それを地で行っているのがこの人なんやな、という印象を得た。

だからこそ、その仕組みを再生産することそれ自体を事業目的としているこの会社は、正しいのかもしらん。この点について正直に言ってしまうと、「何度でもやり直せる社会を作る」ことをミッションとしながら、手段を勉強に限定していることについては、かつては釈然としない印象を持っていた。他にもいろんな「やり直し」があっていいのでは?と思っていた。でも安田さんの来歴を詳しく知るに至って、大いに納得させられた。

のほほんと育った自分、壮絶な生い立ちの著者。その間に通底するもの

同時代を生きながら、自分とは全く違う世界がそこにあった、と書いた。

でも実をいえば、(これは周囲の人間からは賛同を得られないやろうけれど、)自分も自分なりに生きづらさを抱えてきたのであって、この本を読みながら自分の経験と通底するものを幾つも感じた。壮絶な生い立ちの安田さん本人の前では到底言えないけれども(とはいえ多分これを読んでいるので言ってしまったのと同じことになるけど)、人間一人一人の経験は量的に(どっちのほうがより大変か、というふうに)比較できるものではなく、それぞれの質的な(固有の)経験こそが大切やと思うから、自分の経験を振り返りながらこの本を読んで、自分と著者との間に通底するものを見出すことは、間違っていないと思う。たとえ自分がどれほど恵まれた環境に育ったとしても。(そして、このことを安田さん自身はきっと認めてくれると思う。)

安田さんの言葉の中で、特に自分の思いを見た気がしたのは、「意味ある人生にしてやる」という悲壮なまでの決意。

彼の人生が大きく転換し始めたタイミングには、二つのモノがうごめいていた。まず一方では、18歳までの過酷な生い立ちと、その中で人間への信頼を失い、「自立したい」と思ったこと。他方で、「意味のある人生を生きたい」と思い、その頃たまたま世界の惨状を目にして、何かしなければいけないという使命感が降りた。安田さん本人から否定されるかもしらんけど僕が読んで感じた印象は、この前者と後者が、実は直接的には繋がっていないということ。(最終的にキズキ共育塾を運営するに至って、直接に繋がった。)にもかかわらず、強い使命感で猛烈に勉強し、活発に活動した。

この「繋がってなさ」と「猛烈さ」には既視感がある。

(周囲の人間から賛同は得られないやろうけど←くどい)自分自身が、安田さんには全く及ばないながらも、そこそこ猛烈に頑張ってきたという意識があって、それはこのブログで詳しく書いてきたことでもある(読むのが極端に遅くて、それをカバーするために必死にやってきたけど、そもそも他人より極端に遅いということ自体に気づくのに29歳までかかった)。

また一方で、なぜ自分はそこまで頑張るのか?と問われれば(実際、親しい友人からは時々問われる)、それは中学3年生の時にひとり静かな部屋で「意味のある人生にしたい」と心で泣いていたことから全てが始まってる。暴力を受けたわけでもなければ、貧困にあえいだわけでもないし、誰かにいじめられたわけでもないけれど、当時の自分には(今の自分にも)人生が非常に無意味なものに思えて、かつそれに耐えられず、自分で意味を作ろうと強く思った。一般的な思春期がどうなのかは知らんけど、人生が無意味なものと感じることは多くの人が経験してるやろうし、何かを成し遂げようと思うことも多くの人が経験してるやろう。たぶん自分が他の人と違ったのは、(1)無意味であることに耐えられなかったことと、(2)意味を作ることでその問題を解決しようというモチベーションがいつまでも持続したこと、の二つなんやと思う。

平和で不自由のない生い立ちから考えれば、あまりに唐突で、「繋がっていない」。

こういう意味での「人生への態度」が、安田さんと自分との間でかなり通底しているように感じた。その背景になっている量的な意味での苦労の度合いは全く比較にならないけれども、ある面で、質的な経験としては共通性があるように思う。

共通性の原因を探る

この共通性について、それの背景となる何らかの原因や仕組みを勘ぐることは、可能やと思う。安田さんのような比較対象と見比べながら考えたことはなかったけど、これまでずっと考えてきた中で自分の息苦しさの原因かなと可能性を疑ったのは、

  1. まず単純に、「時代」。バブル崩壊とほぼ同時にこの世の中に生まれてきて、自分よりも上の世代とのあいだに圧倒的な物質的・思想的断絶があったこと。
  2. 時代という切り口とも関わるけれど、「文化の混交性」。アメリカ的な価値観を受容してきた自分の親世代と、それを歪な形で引き継いだ自分との間の葛藤。(→これが人類学的な研究関心へと直結している。)
  3. そして最後に、つい1年前に初めて気づいたこととして、「発達障害」。人生の意味といった曖昧な問題について突き詰めて考えてしまうこと、それに対して論理的な答えを求めてしまうこと、意味があるか/ないかの「全か無か思考」に陥りがちなこと、思い込んだらやめられないこと、そもそも人間関係が希薄なため社交の中に生きがいを見つけにくいこと、など、発達障害の特性に照らして考えれば「生きる意味を作る決意」はもっともな帰結とも言える。

1の「時代」については、いみじくも安田さん自身がはっきりと意識していることでもある。ひきこもりや不登校、ひとり親世帯といった社会問題は、安田さんが子供の頃には全く認知されておらず、大人になってから初めて「あぁ、あの頃の自分の経験は、その後おおきく社会問題として認知されるに至る状況の典型的な事例だったんだ」と気づいたという。ひきこもり・不登校・ひとり親世帯という具体的な観点では自分には当てはまらないけれども、それを大きく「時代」という形で切り口を広げてみれば、やっぱり自分も時代の潮流にしっかりと動かされていたのかもしらん。そう考えてもおかしくない。

2については、10年後くらいに、研究の成果として何かの発言をできれば嬉しいと思ってる。

3については、何でもかんでも安易に「発達障害やから」と(冗談はさておき真剣に)言ってしまうことは慎むべきやと思うのでなるべく控えたいが、安田さん本人が発達障害の傾向を持っていることからも妥当な気がしてる。

まとめ

というわけで、この本を読みながら自分の経験に引き付けて感じたことを書いてきた。纏めるとそれは「時代(同時代性)」、「勉強することの偉大さ」、「発達障害の生きづらさ」の三つということになりそう。

ただ、あくまでこれは「自分の経験に惹き付けて感じたこと」の範疇に収まるものだけを書いたんやと、よく記しておきたい。この本の内容が触れている社会問題や人生経験の機微はほんまに幅広くて、読む人それぞれで全く違うメッセージを受け取ることになると思う。自分には経験の厚みが足りなくて理解しきれてない箇所も、たくさんあると思う。なにかキーワードが引っかかったら、ぜひ読んでみてほしい本です。

なお本の内容から離れて一言だけ。キズキで仕事をさせてもらったこの半年間は、自分にとって、(同僚やクライアントには失礼になってしまうけれど)とても貴重なリハビリの期間となった。去年東京にやってきた時点での心理的脆弱性と怯えた表情からは、考えられないほど元気に回復した。本当に助けられた。

また経済的・心理的に安定することができたこの期間をうまく活用して、自分にとっての「やりなおし」も無事に駒を進めることができた。キズキで働いている人は、そこで働くことそれ自体がその人にとっての「やりなおし」であることが多い。自分も幸い、その輪に入れてもらうことができた。働かせてくれたことに大感謝。

本ブログは、Amazonアソシエイトプログラムに参加しています。Amazonアソシエイトのリンクから商品が購入された場合に(Amazonから)紹介料を得ています。ただしアソシエイトリンクは書評的な言及の際のみに留め、かつ逐一明記しています。単なる言及の際は通常リンクを貼っています。