トロントに入るために
マニラの空港は薄暗かった。
使途の分からない贅沢なスペースが広がっているかと思えば、逆に順路を遮るようにして手摺が備え付けられ人の流れを遮っている。どれが順路なのか分かりにくく、人を混乱させる空間である。
トランジットはこっちか? 恐る恐る進むと、International Transitと書かれた看板が見えた。
デスクがある。制服を着た職員が、職務中とも休憩中とも取れない拍子抜けしたニヤケ顔で話し込んでいる。一人は一応椅子に座って、なにやら乗客のパスポートを見ながらパソコンに入力をしているらしい。
カナダへトランジットなんですが、と伝え、パスポートを見せる。職員が何かキーを叩く。「そこの部屋で待ってなさい」。やはりニヤけた顔で言うが、僕のパスポートを返してくれない。
「パスポートは?」
「あとで返す」
通された部屋は、もっと薄暗かった。そしてあの職員は、僕のパスポートを持ってどこかへ行ってしまった。
「あとで」とはいつの事なのか、なぜ没収されたのか、そしてこの部屋は何なのか。なにひとつ分からなかった。
部屋はまるで建物の隙間を壁で囲ったような妙な形をしていて、一人がけのソファが幾重にも並べられている。ソファとソファの間は律儀にベッドランプが備え付けられ、スイッチを動かせば灯りがついた。高い天井には電灯がなく、ソファの数だけ置かれたベッドランプが部屋をぼんやりと、下から照らしていた。
奥の側には、同じくトランジット客と思しき人達がソファに掛けている。しかし手前には、飛行機の乗客とは思えないような男たちが何人も座っている。ある男はカップヌードルをすすり、ある男はランプ越しに隣の男と話をしている。どの男も手ぶらで、顔は浅黒く日に焼け、皺を刻んでいる。僕が見やると、じっとりと張り付くように見返した。それからしばらく、その男は僕から眼を離さないようだった。僕は、肩に掛けたカバンを守るようにして後ろへ手を回した。
部屋の壁にはテレビが備え付けられ、数年前に世界中でヒットしたアメリカンポップが繰り返し繰り返し流れていた。この部屋にいる自分以外のすべての人間が、この曲名と歌手名を知っているだろう。聴き飽きて、もう耳にすら入っていないかも知れない。
僕は自分のベッドランプを付けたり消したりした。
やはり自信を持てなかったので、立ち上がって職員に声をかけた。「パスポートは返ってきますか?」
「あとで返す」
そういって、さっきの職員はまた不謹慎なニヤケ顔を晒した。
これ以上自分にできることは何もないので、僕は諦めてソファに戻った。男の視線を感じながら、テレビ画面の映像を眺めた。やがて男はどこかへ去っていった。だんだんと様子が分かってきたのだが、手ぶらの男たちは空港の清掃や運送職員らしかった。トランジットの待合室と職員の休憩室を兼ねたものとして、フィリピンなりのおもてなしを凝らした結果、ベッドライトとアメリカンポップに辿り着いたらしい。
そうやってしばらく我慢していると、さっきの職員が戻ってきた。
そして部屋全体に向かって口を開いた。
「オーケー、とーろーんとー!」
そうだ、トロント行きだ。
ところが部屋にいる誰も、彼の方を見ない。彼はすぐに気がついてもう一度言った。
「トゥロノゥ!」
奥の乗客が振り向き、立ち上がった。それを見て、職員はまたふざけたニヤケ顔をこぼした。僕の方に向けてニヤけたようだった。
Torontoは普通、いくつも音が脱落してTronnoのように発音する。「とろんと」では通じないことを、英語に親しんだフィリピン人である彼はよく知っている。正しい発音で乗客を正しく案内したフィリピン人の彼は、
「レッツゴー!」
そう言って、風を切って部屋を出ていった。パスポートはまだ返ってこない。
彼について行ったのは僕の他に9人だった。カナダ人らしいシックな服装で、中東の顔立ちをした男女(夫婦のようにも、姉弟のようにも見えた)、大学入学前の卒業旅行を終えてカナダに帰るといった様子の、様々な顔立ちの若い男4人組、そして中国人留学生3人。
飛行機にたどり着くまで、彼は何やらいろいろな場所へと僕たちを連れ回した。
彼はパスポートの束を持っていた。その中に僕のパスポートもあるに違いない。その束を色々な職員に渡して確認させ、なにかの処理をさせる。
最後に搭乗ゲートへ辿り着きパスポートを配ってお開きとなった。これで安心、と思った途端、最後の最後になって、僕のパスポートだけが束の中にないというドッキリが待っていたが、それも袋の隅に紛れていたというオチに終わった。
搭乗ゲートでは、パスポートとビザの入念なチェックがあるようだった。僕の前にいた中国人留学生は、パスポートを赤外線で確認されている。
僕もそのつもりでパスポートを渡す。フィリピン人の女性職員たちは、それが日本のパスポートであることを見て取ると、顔が少し綻ぶように見えた。そして笑いながら互いに何かを言い、ごく簡単な検査だけして僕に返した。
タガログ語は分からなかったが、「チャイナ」という言葉が聞こえた。妙な部屋で散々待たされた理由と関係しているように思えてならなかった。
そうやって、トロント行きの飛行機に乗った。