なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

中二病についてのノート

とはいえこの中二病についてすごいと思うのは、状況がかなりオープンなことです。毎週書かされる300ワードの「ポジションペーパー」では、僕はいつもこの「モノの人類学」をぼろくそに(とはいえ一応アカデミックな雰囲気のベールの中で)こき下ろしてるんですが、ほかの学生も僕ほどではないとはいえそれぞれでそれなりに批判的なことを書いたりしてます。そして授業のディスカッションでも、学生全体が持ってる「モノそれ自体」への無関心がゆえに話はすぐに逸れて、(モノが媒介してる)人間性や人間同士の関係や人間とモノとの関係について関心が集まりがち。モノそれ自体への関心やその有効性を疑問視する発言もたまにある(自分もその一人。というか、自分がメインか)。こういう状況を受けて先生は頻繁に「先週まではモノそれ自体の物質性や物と物の関係性について、まぁあんまりうまく行かなかったけど、考えましたが、今週は…」という風に言ったり、「また話が逸れてきました。モノについての話へと戻りましょう。それにしても、モノについて話したくないというこの異常なまでの抵抗があるね。ははは。」と言ってみたりする。なかなか自由な雰囲気でよろしい。アメリカらしい。

今日は学科のイベントで他大学の人類学の先生が来て、彼が今書いてる本の一部について発表して意見交換するというセミナーがありました。そこに例のモノ先生も来ていた。内容はモザンビークの政治と歴史みたいな人類学的なトピックやったんですが、図らずも(?)その招聘スピーカーが「モノの物質性とかモノが持ってる力とか、そういうものが非常に重要な要素として浮かんできた。それについて書こうとしています」みたいな話をし始めた。これに反応したモノ先生は、横にいた自分の学生二人(うち一人が自分)のほうを見てニヤニヤしながら、「ほら見てみ」と、したり顔。スピーカーの話が終わって質問セッションに入ると、モノ先生は「モノの力について、という話をもう少し聞かせてくれませんか」と力強く乱入。特に、モノのvibrancyなる概念を(奇妙にも)提唱している特定の学者に言及しながら質問。そうするとこのスピーカーは明確に、「モノそれ自体の力とかvibrancyに注目することはしたくない。なぜならそれをやると人間の主体性が見えなくなるから。モノに着目しているのは単純に、それが人間の関係性や権力関係や歴史や記憶を媒介するからに過ぎない」と、このモノ先生のスタンスを真っ向から全否定するクリティカルヒット。これにはさすがのモノ先生もたじろいで、それ以降ずっと下を向いている。なんともこの先生は、ほんまにいい人なんです。正直で、やさしい。僕が勉強の苦労について相談するときなんかも、ほんまによく親身になって聞いてくれる、すごく優しい人。こういう場面でも、その繊細さがありありと見える。

セミナーが終わって皆が立ち上がって帰るときに、モノ先生「ほら、授業で勉強していることそのものでしょう?授業ではすごい抵抗が起きてるからな。あんなに抵抗が起きるとはぜんぜん予想しんかった」と自分の授業の意義深さを主張。いやむしろ今日のセミナーは、その真逆を示してたんでは??と思った僕は、「いやいやいや、人間のことを知るための道具としては、モノはすごく面白いですよ。僕はそういう立場ですし、今日のスピーカーも同じ立場やと思います」と、やはり抵抗。そうしたらモノ先生が言ったのは、「でも彼はOlder generationだから仕方ない。君は若いから、自分の立場を再検討してみてもいいでしょう?」と。これ自体は良い言明だと思うので、「そうですね。ニコニコ。」と返して穏便に終わりました。ちなみにモノ先生とスピーカーは、とある大学院の博士課程で同級生だったそうです。

モノ人類学には依然としてぜんぜん納得しないけど、いずれにしてもこのモノ先生がやろうとしている取り組みをめぐるポリティックスと、それについて回ってるちょっと可笑しな滑稽さや自由奔放さは、非常に興味深い。教えてもらってる立場でありながら、なんとなく先生と対等に議論をしている感じがあって、楽しいです。それを受け入れるモノ先生の度量は計り知れない。モノ先生恐るべし。

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