なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

正当化、または後悔の念につけるクスリ

気持ちを整理するために、またここを使わせてもらう。

周期性なく時折、大学院を辞めたことが良かったのかどうかという疑問が、むくむくと蘇ってくる。絶対的に正しい判断というのがあるわけじゃないから、常に、理由を並べ立てて自分を納得させるか、説得に失敗して後悔の念に苛まれるか、どちらかになる。

辞めた直接的な理由は、まず精神的な健康状態が耐えられない(耐えるべきじゃない?)くらい悪かったこと。勉強のことを考えるだけで、胸が締め付けられるように苦しかった。とりあえず一旦勉強のことを考えないようにして、映画を見て過ごそう、と思っていたら、そうやっているうちに何週間も経ってしまっていた。基本的に休みの日が存在できないくらいキツキツの大学院生活では、何週間も何もしないというのは、ほぼそのまま落伍を意味する。何週間も何もできないくらい精神状態が悪くなってしまった理由は、まず第一に教員と障害支援室の悪魔的な猜疑・冷酷さのため、そして第二に、そもそも読書が全く話にならへんくらい追い付かへん(かつ、そのためにクラスの議論にもついていけへん)かったことから来たプレッシャー。

万一障害の認定を受けられたら、教員と障害支援室からの猜疑も取り払われるし、特別措置も可能やったかも知らん。大学の近くにあった心理学センターはその「障害」を審査できひんかったけど、いま自閉症の本を読んでいる限りでは、日本でちゃんとした専門家にかかれば自閉症スペクトラムの診断を得られたかも知らんと感じる。たとえば休学して日本に一時帰国して、日本の専門家に掛かり直せば、そういうことが可能やったかも知らん。

ただ、これには実務的な障壁と根本的な問題があると思う。実務的には、休学は最低1学期をちゃんとこなした学生にしか(少なくとも原則では)認められず、その1学期をこなすための学期末課題に(上述のとおり)全く手をつけられなかったんであるから、休学の申請をすることが難しかった。これは大学側に打診したわけではないから、もしかしてもしかしたら例外的に休学が認めらた可能性はゼロではないけど、でも判断主体になるべき学科長があの有様(あの手この手で蹴落とそうとする)やから、そんな情状的な考慮はされへんかったやろう。

そしてそもそも論として、万一、仮に猜疑も晴れて特別措置が取られたとしても、英語で勉強する限りは、読むのが他人の10倍遅いことそれ自体はそう簡単には改善しないやろう。日本語ですら、中学生の頃から意識的に速く読むように努めてきて、少しずつ少しずつ速くなってきたに過ぎない。優に10年くらいはかかっている。仮に特別措置があったとしても、ギリギリの仕事量を強いプレッシャーの下で3年間こなし続けないといけないことになる。これは、極度の苦痛やと思う。生まれ持った(?)困難さを押して、苦痛に耐えて努力することは、良いのかどうか、必要なのかどうか。少なくともこれまではやってきた訳やけど、そもそもその考え方を、見直すのがいいんじゃないか。

これには答えがない。広告会社や、戦略コンサルや、金融業で働いている人たちは、事実、そういう極度の苦痛を耐えてるのかもしれない。内面的な経験の問題やから、どれくらいの苦痛なのか、どっちの方が苦痛なのか、という比較はできない。他人と比べても、分からない。自分一人で、自分の心に問うて、判断するしかない。

自分の能力・不能力をうまく活かす生き方というのが、アメリカで大学院に行くこと以外に存在しているかもしらん。どういう基準で「うまく活かす」と呼ぶのか、それもまた極度に難しい。どれくらい苦しい道のりなのかだけじゃなくて、好みかどうか、楽しいかどうか、その道で目指せる達成レベルはどれくらいか、社会貢献の質とレベルは、経済的安定はどうか、それから、仕事以外の人生の要素との兼ね合い(家族や住む場所や気候や友人ネットワーク)、そういったもんを複合的に考える必要がある。

そういう複合的な、ほかの要素との兼ね合いのもとで、アメリカの大学院で学ぶ苦痛を考えた時に、どういう判断ができるか。勉強はやっぱりしたいけど、それだけを言うなら日本でやれば良い。日本語の方が圧倒的にハンデが小さい。アメリカで給料もらいながら博士課程をやるのと比べて日本では経済的に苦しくなるけど、幸い実家から京大には通えるし、日本にも学振制度がある。一方で、今後日本の外に住む可能性を考慮した場合、日本の学位よりもアメリカの学位の方が圧倒的に有利やろう。しかしそれも、日本の外に住んでかつ大学の職を求める場合というのは、自分一人で生計を立て貯蓄もするという訳ではない特定の状況のもとでしか、起きひんやろうから、だから日本の学位しか持っていないとしてもクリティカルではない。そもそも万一東南アジアの大学で職を求めるなら、日本の学位で十分やし。日本の外で、大学以外の職を求める場合は、そもそも人類学を勉強した時点で学位の出所はあんまり関係ないやろう。

つまり日本でやり直せば、勉強して生計を立てるっていう自分の望みも(相対的に)現実性があると同時に、それによって(アメリカでやるのと比べた場合に)犠牲にするものも、実はそこまで甚大ではない。アメリカでやるのは、あくまで付加価値といった感じか。入学も認められて給料までもらえる程度の(本来的な?)実力をもっていて、その付加価値を発揮できるはずやったのに、これを諦めざるを得ないというのは、どこまでいっても残念ではあるけど。でも人生、失敗や挫折があってなんぼやろう、きっとそういうことなんやろう。

翻ってそもそも、大学で勉強することが自分にとって良いことなのかどうか。これは極論やけど、まず勉強は自分でもできる。確かに、大学院に入り直した時は「やっぱり制度として押し付けられる課題や、歩くべきレールがあると、効率がいいなぁ」と思ったのは事実。でも今から振り返ってみればそれは逆に、自分らしい勉強ができひんということであり、そして、自分は特殊性を持った個人であるがために自分らしい勉強というのがとても必要なんじゃないか。

そして次に、研究を自分の生業にしていくのならば、読むのが遅いという特殊性にともなう苦痛は、一生ついて回る。仮にこれが克服が難しい困難なのであれば、その道を目指すことは、自分を苦しめ続けるだけなんじゃないか。読むのが遅いだけじゃなくて、抽象的な言葉は理解に苦しむ、という事実もある。一方で、以前からずっと書いているように、自分には、本を読むことよりも得意なことが多くある。苦手なことを選んで、苦しみながら楽しむよりは、得意なことを選んで、気持ちよく楽しんだ方がいいんじゃないか。

さらに極め付けは、研究職を目指していた理由は、(1)勉強できて楽しい、(2)本を書いて世に問える、のふたつであって、正直なところ「研究」それ自体がしたい訳ではなかった。一般的な考え方として(1)と(2)のふたつを総合して「研究」と呼ぶのだ、ということなのかもしれないけれど、いずれにしても、自分にとってはその二つが個別の活動として重要なんです。勉強するなら、人類学に限らず興味のあるテーマ・分野は幅広いし、本を書いて世に問うなら、学会に閉じられた研究書よりは一般向けの本を書きたい。二つが繋がっていれば、互いへのフィードバックとして効果的ではあるけど、自分の満足を満たす活動としてそのリンケージが必須であるわけではない。しかし実際上の仕事を選ぶにあたっては、この二つをうまく執り持ちつつ成立する生業として、研究職が一番ベターかな、と思ったんです。

 

さてそんなふうに考えて、辞めたことを正当化していくと、大まかに言って2つの選択肢が浮かび上がってくる。ひとつは日本の大学院に入り直すこと。もうひとつは、自分が「気持ちよく楽しめる」全く別の職業を探し出すこと。前者は、アメリカよりマシとは言えやはり少しの苦痛を何とかマネージするべきやろうという発想。後者は、普通に世の中に転がっている職業の中からは見つからんやろうから、一発大博打みたいなもので、道無き道を自分で作り出す必要があるんじゃないか。

 

こうやって整理するとまた少し落ち着いた。これにより引き続き、自閉症についての本を読んで、自分の特徴について理解を深めていかんとするわけです。

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