チップは3ドルだけよ
東南アジアに行き慣れると、どこの国に行くにしても空港タクシーに身構える。ぼったくられるのではないか。トロント・ピアソン空港から市内に走るタクシーは定額制とのことだったので、認可された車両に乗りさえすれば大丈夫らしかった。
次の懸念はチップである。事前に調べた限りでは15%〜20%というが、15%ちょうどを払うのはなにかセコいようで気が引け、かといって大雑把に切り上げるなら大判振る舞いである。あまりにも慣れなくて、いつもぎこちなく、気が揉む。アメリカでそうだった。
出国ゲートを通り抜けてタクシー乗り場へ通じる道の途中、両替所の前に立った。タクシーがカードを受け付けない可能性がゼロではないので、すこしくらい両替しておこう。
カウンター越しに座る中華系のオバちゃんが僕の日本円を受け取り、電卓を弾く。
それを見ながら、「タクシーって、そこですよね?」
ちょうどいいと思って、オバちゃんに訊いた。
オバちゃんはわざわざ身を乗り出して、「そう、そこの出口から出るの」と指差す。
「タクシーに乗るならチップの小銭が必要でしょうから、10ドルを砕いておくからね」
あぁ、ありがとうございます、親切なオバちゃん。オバちゃんは声が大きいが親切である。
「3ドルでいいからね、チップは3ドル」
訊いていないが、オバちゃんは大変ためになる情報くれた。しかし本当だろうか。
「3ドルだけですか…?市内までなんですが…」
まだ緊張してドギマギしてる僕の滑舌の悪い言葉を遮って、オバちゃんは
「市内までで3ドルよ、それ以上出さなくていいから」
と念を押した。
オバちゃんはすでに札束と小銭を手元に用意し、僕の前に差し出そうとしている。僕はそれを拾い上げ、財布に収める。
3ドルっておかしくないか? 定額料金は60ドル強だから、15%なら9ドル以上だ。
僕の前に札と小銭を差し出した次の瞬間から、オバちゃんは横の人と世間話始めていた。僕が財布に収め終わる頃には、世間話が一周した。
もはや周回遅れ以外の何物でもないが、今からでもやはり確認すべきだ。
「オバちゃん、すみません、あの…。定額料金なので60ドルくらいなんで、15%って聞いてるので3ドルじゃないと思…」
「3ドルよ、市内までで3ドル」
ここまで言われれば、もはや3ドルなのだろう。お礼を言って、タクシー乗り場に向かった。
南アジア系のドライバーの車に乗った。
事前に調べた地理情報によれば、住まいはスパダイナ駅のすぐ近くである。
「スパダイナ駅までお願いします。そこから2ブロックだけ下がった場所です」
タクシードライバーは、スパダイナ駅を知らなかった。市内に3路線しか走っていない地下鉄の、かなり中心的な位置にある駅である。
「俺らは空港から郊外の住宅へ走るだろ。だから市内の地下鉄は知らないんだよ」ということだった。言葉はアクセントがあるが、流暢である。カナダにしばらく住んでいるのだろう。
僕は「なるほどそうですね!」と、にこやかに受け流しながら、住所がわかる紙を持っていないかどうか鞄やポケットを探してみる。何も見つからない。仕方がないので彼のスマートフォンを借りて、グーグルマップで「スパダイナ駅」と検索した。
「本当にこの場所か? 間違いないか? 住所をちゃんと教えてくれないとダメなんだよ」。ドライバーはいたく不満そうである。
「そうですよね、次から気をつけます!」と言って無視した。
「そういえば、カード払いはできますか?」
カードは手数料を取られるので嬉しくない、現金で払ってくれ、とのことだった。
「現金が十分に無いんですごめんなさい、いま着いたばかりなので」
僕はとても丁寧に答える。ドライバーは不満そうである。
「あと、これ定額料金ですよね。62ドルでしたっけ」
「64ドルだ。あと、心づけだ」。ドライバーはそう言って、前を向いたま右手で指を擦った。
これはどう考えても、チップは弾まない流れである。3ドルでいいだろう。
目的地に着く頃には、もう暗くなっていた。街灯の少ない道に車が停まった。
せっかくオバちゃんが小銭を託けてくれたので、僕はカードで定額料金を払い、小銭でチップを払いたい。そうすれば、3ドルだけチャリンと落としても、闇夜に紛れて颯爽と逃げ去れるに違いない。
ドライバーが手元の機械で金額を入力する。海外でカード払いをした人なら分かるだろうが、金額入力の次の画面でチップの割合も選択し、一括で引き落とすことができる。
チップについては客自身が操作するものである。
ところがこのドライバーは自分の手で操作し、「これでいいな?」と15%にカーソルを合わせた。「あ、ちょ」と僕が言っている間に、彼はどんどんOKボタンを押していく。瞬く間に15%が引き落とされた。
これはおかしい。
しかし金はすでに引き落とされた。今から苦情を言っても周回遅れである。
とはいえ周回遅れでも、おかしいものはおかしい。
「チップだけ小銭で支払いたかったんですけど」
「駄目だよ、カードで一緒に払ってよ」
「15%より少なく払いたかったんですけど」
「15%より下はないよ」。彼はそう言って、選択画面に表示されるのが15%、20%、25%であることを示して見せた。
この機械は、自分で任意の数字を入力することもできるのである。それを僕は知っている。でももう、さすがに面倒だ。僕は黙って車を出た。勉強料ということにしよう。5ドルや6ドルで、ケチ臭いことは言わない。
突如として、ドライバーは嬉しそうで張り切っている。トランクへ走り寄り、荷物を取り出す。
「これは大学の寮か? 学生なのか?」
道中ずっと黙っていたのに、ここにきて突然僕に話しかける。僕も頑張ってニコニコ答える。トロントは暑いだろう、日本はもっと暑いのかそれは大変だ、頑張ってくれ会えてよかったよ。そんな会話を交わした。
会えてよかったも何もあるまい。しかし彼は心がこもっていた。僕はといえば、不満と、頑張って物事のやり方を覚えていこうという前向きな気持ちとがないまぜになった、複雑な気持ちだった。