なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

非行と社会について。正義のために戦っている友人たちにお願い

世間では、「アメリカ社会は自由と先進性を体現していて素晴らしい」と考えられてる。そこに絶望的な経済格差があることや人種差別の歴史をいつまでも引き摺っていることについては、世間はつい目を逸らす。美しい面に着目してそれを賞賛する。

物事の悪い面より良い面に着目するのは良いことなので、そのこと自体を一般的に非難するつもりはない。

僕はと言えば、アメリカ社会が良い面を持っていることは頭ではよくわかっている。でも頭で理解することと、自分の目でまざまざと目のあたりにすることとは、全く乖離しうるし、後者のほうが何倍も重々しく脳裏に焼き付く。アメリカの負の側面を、これでもかというくらい見せつけられ、叩きつけられた。

それで帰ってきて「アメリカはやばい国やった」と大声で言って回っていると、これは世間の認識と完全に乖離してる。

世間の認識と乖離しかつ極めてネガティブな主張というのは、めちゃくちゃ悪い効果を自分にもたらす。その主張が真実かどうかはさておいて、とにかく悪い効果をどんどん自分にもたらす。

人々は、

「アメリカに負の側面があるとしても、アメリカ人全員がそうなわけない。色んな人がいるはず。十把一絡げにするのは間違い。」

「負の側面があるのはどこの国も同じ。それなのに敢えて特定の悪い面を喧伝し避難するのは、悪意にもとづいた不公平な行い。」

「人間それぞれでいろんな苦労を生きてるのに、自分の苦労だけ喚き立てて、しかもそれをアメリカのせいにするなんて、幼稚で有害。」

そういうふうに思われてるのがありありと分かった。どれも『まとも』な『正論』やと思うし、素晴らしくリベラルな(=思い込みや偏見から解放された)思想やと思う。

誰も僕の主張には耳を貸さず、貸したとしてもせいぜい、「辛い思いをした人の話を聞いてあげる」程度でしかない。主張の内容自体を真剣に取り合って「そうかそうか、そういう世界の仕組みになってるんやな」と頷いてくれる人は、一部の例外を除いてまずいない。

つまり、自分の目でまざまざと目の当たりにしたアメリカの負の側面について声を上げるという行為が、自分への悪い効果として跳ね返ってくる。簡単に言うと、

・相手にされない

・間違ったことをしていると見られる

・逆に非難される

そして、これらをヒシヒシと感じるから、

・肩身が狭くなる

・誰も信じてくれないと感じる

・味方がいない、全員が敵やと感じる

・人間関係を自分からシャットアウトしがちになる

という結果になる。シャットアウトすればするほど、周囲の人間の好意や支援を感じ取りにくくなり、ますます敵ばかりに見えて肩身が狭くなる。悪循環になってる。

この1年近く、こういう内面的状況を生きてきた。

そこで本題に入るが、こういう状態は、「非行」に走る青少年の状態そのものなんちゃうかと思った。

非行に走る青少年は多くの場合、家庭や学校で恵まれない境遇にあって、社会の闇を自分の目でまざまざと目のあたりにして、それへのやるせない不満をどこかに吐き出したくて不本意にも非行へと向かってしまう、のやとすれば、自分はそれと全く同じ構造の中にいる。

勉強なんかろくにできる家庭環境にないのに、教師はうわべだけの優しさだけ装いつつ自主退学を迫る。それで他にやりようがなく退学してしまったら、教師が言っていた「自分なりの道」なんて結局は肉体労働しか無いし、それで苦しい人生を生きてくことになっても誰も責任を取ってくれない。

まるで「嵌められた」かのような無力感から、刹那的な快楽のために「非行」と呼ばれる行為を行う。学校で助けてくれなかった教師も同級生も、「非行はよくない」と『正論』だけ言って白眼視する。友だちと思っていた同級生に騙された思いがして、自分には味方がいないと感じる。困っていても助けを求めることに躊躇し、人との交流が減り、人間関係が希薄になっていく。

そういう「非行」と社会的没落のストーリーがあるとしたら、自分はそれと全く同じ構造のなかにいると思う。

もちろん、自分の場合は仮にこれまでの人間関係を毀損したとしても新しい人間関係をゼロから作っていく力があると思うし、作っていこうと思うから、このまま単純に「無縁社会」の淵に落ちていくとは思わない。

けれども、社会が非行者に向ける冷たい視線がどれほど身と心と人生を切り刻むものか、すこし分かった気がした。この悪循環に一度囚われたら、そこから抜け出して前向きに人生をやり直していくためには尋常じゃないスキルとパワーが必要やと思う。自分の場合は、上で書いたような典型的な「非行のストーリー」ほどは深刻な状況ではないし、今の状況から少しずつ抜け出していくスキルとパワーがあると信じたい。

でも世の中の若者全員がそういうスキルとパワーを、16歳とか19歳とかの時点でしっかり持ててるかどうか。絶対にそんなことはないやろう、と断言できる。ごく一部の幸運な人と力強い人がなんとか抜け出して、うまくやれなかった人は無縁社会の淵に沈んでいく。

不運な境遇や出来事は誰にでも起こりうるのやとすれば、きっかけは誰にでもあるということ。そのきっかけが起きたときに、では何が、非行者を「淵」に落とし込めていってしまうのか?

それは、『正論』です。正論は、あらゆる力の中で最大の力であると同時に、それは無敵の暴力でもある。

殴られたら、殴り返すこともできるし、法に訴えることもできる。不当な非難をされたら、それは事実じゃないと反論すればいい。

でも、『正論』で攻撃されたら? どうしようもない。ただ「そうだ」と頷き、「自分が悪い」と自責するしかない。でも頷いても自責しても、非行に走らざるを得なかった原因は何一つ解決されない。解決されないまま、自分が社会において価値が無いように感じ、肩身が狭くなり、居場所がなくなり、人間関係が壊れていく。それはつまり、すでにある問題の上に別の問題を上塗りすること、問題を解決からますます程遠い場所へ押しやってしまうことでしかない。『正論』は、無敵の暴力です。

 

これは、論理的に考えて思ったことを言ってしまいがちな自分への、自戒でもある。自分も気をつけるから、だから僕の周りに無数にいる、賢くて、明晰で、論理的で、正義を尊重して、世の中が良くなるように頑張っている人たち。僕自身もその一員やと思っていたし、今もそうでありたい。でも、そうであることそれ自体が、ある場面では逆に無敵の暴力として姿を現して、その暴力を自分が知らずのままに行使しているかもしれない、ということに自覚的であってほしい。そうやって「正しくない」人々が社会から排除され、その人達を不幸の淵に追いやっていくんです。オモテ面が『正論』なら、そのウラ面はきっと、無敵の暴力です。

どっちがオモテでどっちがウラかなんて、自分が決めてしまってはダメなんです。

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