なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

ベルリンから来る

 

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留学生向けのワークショップ会場は、古めかしい建物のダイニングルームだった。ハリーポッターの大食堂を小さくしたような部屋である。定刻ギリギリに到着したので、一つだけ空いていた席に座る。 椅子のクッションは不自然に柔らかく沈み、背もたれは極端に直立して変な姿勢を強いた。

隣り合った人同士はすでに自己紹介を済ませて手持ち無沙汰で、着席した僕に視線が集まった。こういう場合は自分でリズムを作ってしまうほうが楽である。話しかけられる前にこちらから話しかける。相手もみな留学生で、自信を持ってリードする立場の人は誰もいない。聞けば工学、化学、宇宙科学、そういった分野の学生だそうだ。自分は人類学で、ベトナムのことを研究している、と話す。

すると一人が、「ベトナム?それなら…」と言いながら、長机の端に座った一人に視線を向けた。それなら何なのかがハッキリと説明されないまま、言葉のバトンが端の彼に渡る。その本人は背中を丸めてテーブルクロスを見つめるように座っていたが、促されてこちらを見遣る。胸につけたシールにTrungと書かれているのが見えた。チュンと読めば、ベトナム語の名前である。

三席ほど離れているチュンは、こちらの会話を聞いていなかったようで、渡されたバトンを受け取りながらも不安げである。状況がわからず、何も言わない。「それなら…」といった工学の学生が、「彼はベトナムから来ているらしい」と付け加えた。チュンは低い声で「はい」とだけ小さく言い、また不安そうに黙った。ワークショップの司会者がマイクで何かを喋り始めたので、自分も、工学の学生も、チュンも、みな司会者の方を見た。

そうやってチュンと知り合った。

チュンはベトナムから来た、わけではなかった。

両親はベトナム人だけれど、ベルリン生まれ、ドイツ国籍のベトナム系ドイツ人で、ベルリンの大学院で情報工学を専攻している。交換プログラムに参加して1学期間だけトロントに滞在するらしい。チュンはここ数年に渡って何度かベトナム渡航した以外はずっとドイツで育ち、ベトナム語もあまり得意ではない。ハノイの親戚宅に泊めてもらうと、親戚一同チュンのことを心配し、一人では外出させてくれないのだという。一方で、ドイツで学業的に成功を収めてきたチュンは、おじ・おばがチュンの従兄弟たちに示したい模範的存在である。

「ちょっとはベトナム語が上手になりたいんだよね。おじの家に泊まるたびに同じ基本的な会話ばかりしていては、仕方がない」

チュンの両親は留学生としてドイツに渡り、結婚し、うまくドイツ人社会に定着した。一人目の子供であるチュンは、ドイツ人として育てられた。別れ際、チュンの力強い握手は、ドイツ人のそれだった。ベトナム人は握手が柔らかい。

チュンと僕は「フォーが食べたい」という胃袋的了解において意気投合し、後日待ち合わせて華僑街へ繰り出した。

海外生まれや海外育ちのベトナム人を「越僑」と呼ぶ。越僑がどんな人生を送っているのか好奇心があったので、僕はベルリンの越僑コミュニティについて色々と訊く。チュンはどんなことも快く教えてくれた。

それから何週間か経ったある日、チュンからメッセージがあり、

トロント大学ベトナム人学生会のイベントに行こうか迷っているんだけど、興味あるか?」

トロントベトナム人学生も、殆どは越僑である。大いに興味がある。しかし日本人一人でベトナム人学生会に乗り込むのは辛い。チュンと一緒ならかなり行きやすい。ちょうどよい。

それは、年初のキックオフイベントだった。

6時、チュンと僕が集合時間より少し早くに到着すると、ちょうど受付が始まったばかりである。貸し切った教室の中に、黒板へ向けてぎっしりと椅子が並べられているが、まだほとんど誰も来ていない。準備をしているらしい学生会メンバーたちが行ったり来たりする。二列目以降の椅子はなにやら狭苦しいので、チュンと僕は最前列に座る。受付を済ませた何人かの参加者は、まだ座らず周囲で喋っている。

ずらりと並んだ椅子に、チュンと僕だけがぽつりと腰掛けていた。

だんだんと参加者が集まる。

やがて椅子が全て埋め尽くされた。

それでも足りず、四隅は立ち見だ。

そのイベントは、ベトナム人学生会の今年度のイベント予定発表と執行メンバーの紹介を兼ねて、簡単なベトナム料理を食べてクイズ大会をするというものだった。

さっきからその辺を往来していたのは、この執行メンバーたちだった。開始と同時に黒板の前に立ち並び、カナダで育ったらしい英語で順番に自己紹介をする。互いの自己紹介に茶々を入れ、掛け合いが賑やかで微笑ましい。どうも雰囲気がベトナムっぽい。大げさなはにかみ笑顔と、欧米人とは少し違うジェスチャー

教室を埋め尽くした参加者たちの会話は、南部、北部、中部の方言が入り乱れる。英語があまり上手でない人もいれば、ネイティブらしい人もいる。

あちこちで人と会話が錯綜する。揚げ春巻きとチャーハンとセブンアップを肴に、教室が熱気に包まれる。チュンと僕は隅に立って、揚げ春巻きを食べながら部屋を見渡し、

「盛り上がってるね」

「まあまあいけるね」

そんな悠長な会話をした。

やがてアナウンスがあり、クイズ大会が始まった。プロジェクタで映し出した問題はベトナム文化に関するもので、殆どが僕でも分かる簡単な問題だが、それを大騒ぎしながら教室全体でやる。手元のアプリで回答を早押しするという、文字通り全員参加の民主的ゲームであった。カナダで生まれ育ったベトナム人学生にとって、答えは必ずしも常識ではないらしい。正答数と早押し時間が総合得点になる。外国人である僕にとっては程よい難しさだが、他の参加者も全く同じように感じているらしかった。

問題がすべて終わると、最高得点を叩き出した学生の名前が発表される。優勝者が立ち上がって、誇らしげに前方へ出ていく。ここまでは全員が注目している。ところが、何やら景品が贈呈されるらしい段になると、もはや誰もあまり注目していない。参加者はすでにお互いにおしゃべりを始め、とにかく盛り上がっていて、収拾がつかない。

そのままクイズ大会が終わり、おしゃべりは会場全体に広がった。ますますの熱気と、これが最後までダラダラと続くであろうという雰囲気が明白だ。チュンと僕は無言のうちに、「退出するタイミングだ」と目配せする。

熱狂をあとに残して、部屋を出る。

外はすっかり暗く、人通りがない。

少し歩いてから、

「お腹は足りたか?」

どちらともなく聞き、いや、料理が少なかった、という。

ティム・ホートンに入って、スープを注文した。

セルフサービスのため、テーブルにはゴミが残っている。ナプキンで払う。床も少し汚い。天井の明かりが弱く、通りの暗さと馴染みが良いようだった。

食べながら少し話す。自分一人では今日のイベントに行こうかどうか迷っていたので、二人で行けてちょうど良かったよ、と、互いに同じことを相手に感謝した。

「それにしても、メンバーも参加者も、みな仲がいいよね」

チュンも僕も、このことが印象に残った。

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