なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

イギリスで修士やって切り抜けたこととか全然関係あらへんですわこれ

おまえ前イギリスで1年間勉強してたやんけ、大変やなんて今更ちゃうの?という声は、自分の中からも聞こえてくる。それが、それほど今更でもないんです。なんでか、っていうのはだいぶ複雑な説明になる。

まず関連で思い浮かぶのは、イギリス大学院の高度に商業的な性格と、それと対照的なアメリカ大学院の本格的な教育体制。

イギリス(SOASだけか?)では、何十人もの学生が一つのプログラムに参加する。教授が一人一人に目を届かせることは全く埒外。学生を分割してディスカッショングループを作る「チュートリアル」の教員(「チューター」)ですら、学生へのケアはチュートリアルの中だけでほぼ完結。教員との面談といえば、最初に一度コースコーディネータと面談したこと、最後に指導教授と3回(回数が決まっている)の論文指導をしてもらったことを除けば、それ以外に記憶はない。1年間のプログラムやから、ちょっとしたキャリアアップのために入学する学生も多い感じがする。学生のバックグラウンドはバラバラで、これまでアカデミックな道を歩いてきたことじゃない人が多いし、これからもアカデミックな道を歩くつもりのない人も多い。授業での議論は、自身の経験に基づいた事例検討的な発言や、まったくの思いつきのような発言も多く、また理論的に熟していない(悪く言えば、アカデミズムとしては必ずしも成立していない)発言も多い。そして極め付けは、ひとつの単位はレクチャーとチュートリアルで構成され、レクチャーは日本みたいなひたすら講義するやつ、チュートリアルは10人くらいの少人数に分かれて議論だけするやつ。レクチャーは聞いていてわかるし録音も出来るから、仮にチュートリアルの議論がついて行けへんでも、最悪レクチャーだけわかって論文を読んでいればそれでなんとかなる気がしてた。最後に、大学の運営は、学費を主な収益源とする(と思う)。

一方アメリカ(この大学だけか?)では、学科に在籍する一学年の学生がたったの8人(それでも平均より多い)。毎週でさえ、会おうと思えば教員と面談できる(すでに4人と8回面談済み)し、積極的にそうすることを期待されている(何度も言葉にしてそう伝えられる)。最短5年の腰を据えたプログラムやから、学生はみんな真剣やし、それぞれアカデミズムの道で生計を立てることを念頭に置いて本気で勉強している。実務者キャリアは少なく、少なくともPhD修了後は研究の道に入ることが前提のはず。授業での議論もこれに対応して、理論的に筋の通った発言が多い。また教員・学生の両方が、議論を生産的に方向付けることを意識して行っている(ただし、高度な議論をしているかどうかはまた別問題)。授業、とは言っても、レクチャーは基本的に行わない。すべての授業が議論ベースで、イギリスでいうチュートリアルだけしかない感じ。授業以外に毎週、外部講師を招聘するレクチャーを学科が運営していて、学生はそこに参加することを期待される。レクチャーの翌日にはその外部講師とのランチがあり、ありとあらゆる人類学者と直接話す機会が作られている(ランチの参加者は学生10人強)。別の学科もありとあらゆるセミナーを運営していて、情報が常にメールで流れてくる。学費は支払わず、大学の予算が学生の生活費・学費などすべてのコストについて面倒を見る。学費・生活費以外の面でも、あらゆるサポート体制を完備。博士候補生を雇用して学部生(・博士課程学生)の勉強のサポートをするWriting Center(1.5時間のマンツーマン家庭教師、毎週受けられる)、年間(?)を通して外国人学生の英語の世話をするELP、充実した保険センターなど。すべて大学の予算で運営しており、学生は1ドルも支払わない。

こういう環境のもとでは、なんとか単位だけとって乗り切ろう、という気にはならない。5年後6年後に論文を書くとき・書き終わったときに、ほんまにプロの研究者として一人前になっていられるかどうかは、今この環境において一つ一つを順番に吸収していけるかどうかや、という感じがヒシヒシとする。それだけに、一回の授業がまったくついて行けへんかったら、その日を無駄にした気がして(実際無駄にしてる)落ち込む。

次に思い浮かぶのは、イギリス(SOASだけか?)の国際的な環境と、アメリカ(ここだけか?)のアメリカンな環境。

SOASは、少なくとも自分が出席している授業などでは、半分以上が外国人やったんちゃうかな。外国人を相手に授業や議論をすることが当たり前の環境やった。英語能力、文化的作法、コミュニケーションの違い、などなど、すべてが既に考慮されていた。外国人やからといって疎外感を感じることはなかった。ついていけなくても、それが普通やった。

アメリカでは、授業ではほとんど全員が英語ネイティブで、しかもマジョリティがアメリカ人。アメリカ人は、もちろん人種的・バックグラウンド的には多様やけど、でもアメリカ式のコミュニケーション的基盤を共有している人達という意味では、外国人からは一線を画している。英語ネイティブじゃない人も、修士まで英語で上がってきたインド人やったり、妙にbookishで流暢な英語を喋る南東ヨーロッパ出身者やったり(非ネイティブであっても、そもそもヨーロッパ諸語から来ている人達はアジア諸語から来ている人と比べて圧倒的に有利なはず)。頑張って英語勉強してここまで来ましたという感じの人は、ほんの数えるほど(先輩のトルコ人、イラン人、教員のロシア人、ギリシア人、そして自分)。したがって、議論の際はテンポが圧倒的。すべての学生が、他のすべての学生の発言を逐一すべて理解しているような印象を受ける。極めて強い訛りで話す学生や、若者らしく異様なスピードでかつ音を頻繁に脱落させながら話す人や、いろいろいるが、そういった発言すら、すべての学生が基本的にすべて理解している模様。授業外の面談や個人的な会話においても、こちらが外国人やということはあまり考慮されない。これは外国人学生が少ないからということではなくて、おそらくアメリカの文化的特質なのかと理解している。どんな出自であれ、どんな英語能力であれ、すべての人が平等に市民。不要な配慮はしない、なぜなら対等だから。これについては後日、別のエントリーで書きたい。とにかくそういうわけで、外国人やからといって逃げ場がない。一週目から早速、一人前のコミュニケーション参加者として振舞わなあかん。

なぜイギリスとアメリカでこんなに違いを感じるのか、という問いに対しては、制度的にはとりあえずこれくらいやろうか。すぐ上で触れたように、アメリカの文化的な特徴も自分にとってはズッシリ重い。これについては後日。

発言小町に感動したところから始まるブログ

大学院留学がつらい。 : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

さて記念すべき第一稿目は、上の発言小町を読んで感動したという話から始まります。

ナンノコッチャわからんので、少しは説明を...。

2016年10月から米国東部、アイビーリーグの大学院にて、文化社会人類学を専攻する博士課程(標準5年)プログラムを開始しました。始まって約4週間が終わったいま、ものすごく辛いです。

初めの1、2週目は、授業(といっても主に学生のディスカッションが授業内容のほとんどを占める)でみんなが喋ってる言葉がほんまに聞き取れず。早いしアクセントあるし、そして人類学特有のあの回りくどい表現で延々と続く抽象的・繊細な物言い。たんにレクチャーなら、わかる。議論やからこそ、意味わからん。文脈も背景も論理も配慮も全部ぶった切って、ありとあらゆるバックグラウンド・癖・アクセント・速度の学生が縦横無尽に繰り広げる阿修羅のような議論のテーブル。

1週目は夏の間にリーディングを済ましていたから、リーディングには問題無し。が、2週目からは問題有り。三日に一回は明け方の4時・5時まで読み(もちろん土曜日曜なんて関係ない)、それでも全部は読めずにスキミングでごまかす。さすがに身体の危険を感じ、かつ気力が持たず、3週目からは、読む対象をさらにセレクティブにする。

今更ながら、読む速度が極端に遅いことを改めて真剣に考え、これはそもそも異常な遅さなのではないかと考え始め障害支援室へ。3,800ドルの認知・心理・学習能力検査テストを受けることに。ただし健康保険と大学の支援制度のおかげで、ほぼ自腹はなし(すごい)。

同時に、大学の予算で運営している学生サポート制度をフル活用。Writing Centerなるレポート・論文執筆支援のメンター制度に殴り込み、ライティングメンターにリーディングを教えてもらう(破天荒)。メンターは歴史学科の博士候補生。真剣に相談に乗ってくれ、ほんまに助かる。ただしこのメンタリングによって、普通みんなが取り組むリーディングの戦略やコツはほぼ網羅的に実践済みという事実が発覚し、これ以上どうしようもない感を露呈。

4週目は、当初非常に良い人と思われた学科長との間で文化摩擦的なミスコミュニケーション(+それと絡まった形でアカデミックシーンでの文化摩擦)を経験し、拠り所を失った気がして精神的なダメージ計り知れず。心理的・身体的に追い詰められた状態での精神的ショックに耐え切れず、カウンセリングオフィスへ。面談中泣きそうになる。ちなみに面談の予約のために受付に電話した時には、電波が悪かったのか名前の綴りとかがなかなか伝わらず、受付の人にうんざりされたことに落ち込み、電話を切ってから泣くという始末。そういえばその前の週にもトイレで一回泣いた。

そして今日から始まる5週目。今日のクラスはいつにも増して手に負えない炎上ぶりで、全くなんのことを言っているのか(言ってる言葉はわかるがその意味が)わからない。ひどく落ち込む。

というところで、これはどうも場違いな場所に来た、これは完全に落ちこぼれて帰国する画しか思い浮かばない、という気持ちが四日に一回くらいは浮かんでは消え浮かんでは消えする毎日です。ちょっとリアルな鬱っぽさにも、危険を感じている。そんなときにふと思いついて、「アメリカ PhD つらい」とGoogle検索をしてみたら冒頭の発言小町。なんという、惜しみのない応援の言葉たち。泣きそう(4回目)。

これを読んで感動してみて気づいたのは、自分を冷静に俯瞰してみる目を持ててなかったということ。冷静に考えれば、PhDのコースワークの評価は主に書き物によって行われる。授業でよくわかってなくても、ある程度はごまかせる(ロンドンで修士をやったときも結局それがすべてやった)。しかも頑張って読み物はやってるんやから、一番重要な発想やアイディアは理解しているはず。学科長とのコミュニケーションがうまくいかんかったとしても、人間そんなもんや。落ち込みすぎや。冷静になるゆとりがないのはわかるけど、冷静になれればきっと冷静になれる(←人類学の議論は往々にしてこんなんです)。

自分のことを文章にしてみたら、強制的に冷静になれるやろう。これはきっといい道具になるに違いない。では、これからどうぞよろしくお願いします。5週目も「なんだかんだで、まだいます」。まだまだこれからも、「なんだかんだで、まだいます」と言い続けられることを願って。

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