なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

トロントに入るために

マニラの空港は薄暗かった。

使途の分からない贅沢なスペースが広がっているかと思えば、逆に順路を遮るようにして手摺が備え付けられ人の流れを遮っている。どれが順路なのか分かりにくく、人を混乱させる空間である。

トランジットはこっちか? 恐る恐る進むと、International Transitと書かれた看板が見えた。

デスクがある。制服を着た職員が、職務中とも休憩中とも取れない拍子抜けしたニヤケ顔で話し込んでいる。一人は一応椅子に座って、なにやら乗客のパスポートを見ながらパソコンに入力をしているらしい。

カナダへトランジットなんですが、と伝え、パスポートを見せる。職員が何かキーを叩く。「そこの部屋で待ってなさい」。やはりニヤけた顔で言うが、僕のパスポートを返してくれない。

「パスポートは?」

「あとで返す」

通された部屋は、もっと薄暗かった。そしてあの職員は、僕のパスポートを持ってどこかへ行ってしまった。

「あとで」とはいつの事なのか、なぜ没収されたのか、そしてこの部屋は何なのか。なにひとつ分からなかった。

部屋はまるで建物の隙間を壁で囲ったような妙な形をしていて、一人がけのソファが幾重にも並べられている。ソファとソファの間は律儀にベッドランプが備え付けられ、スイッチを動かせば灯りがついた。高い天井には電灯がなく、ソファの数だけ置かれたベッドランプが部屋をぼんやりと、下から照らしていた。

奥の側には、同じくトランジット客と思しき人達がソファに掛けている。しかし手前には、飛行機の乗客とは思えないような男たちが何人も座っている。ある男はカップヌードルをすすり、ある男はランプ越しに隣の男と話をしている。どの男も手ぶらで、顔は浅黒く日に焼け、皺を刻んでいる。僕が見やると、じっとりと張り付くように見返した。それからしばらく、その男は僕から眼を離さないようだった。僕は、肩に掛けたカバンを守るようにして後ろへ手を回した。

部屋の壁にはテレビが備え付けられ、数年前に世界中でヒットしたアメリカンポップが繰り返し繰り返し流れていた。この部屋にいる自分以外のすべての人間が、この曲名と歌手名を知っているだろう。聴き飽きて、もう耳にすら入っていないかも知れない。

僕は自分のベッドランプを付けたり消したりした。

やはり自信を持てなかったので、立ち上がって職員に声をかけた。「パスポートは返ってきますか?」

「あとで返す」

そういって、さっきの職員はまた不謹慎なニヤケ顔を晒した。

これ以上自分にできることは何もないので、僕は諦めてソファに戻った。男の視線を感じながら、テレビ画面の映像を眺めた。やがて男はどこかへ去っていった。だんだんと様子が分かってきたのだが、手ぶらの男たちは空港の清掃や運送職員らしかった。トランジットの待合室と職員の休憩室を兼ねたものとして、フィリピンなりのおもてなしを凝らした結果、ベッドライトとアメリカンポップに辿り着いたらしい。

そうやってしばらく我慢していると、さっきの職員が戻ってきた。

そして部屋全体に向かって口を開いた。

「オーケー、とーろーんとー!」

そうだ、トロント行きだ。

ところが部屋にいる誰も、彼の方を見ない。彼はすぐに気がついてもう一度言った。

「トゥロノゥ!」

奥の乗客が振り向き、立ち上がった。それを見て、職員はまたふざけたニヤケ顔をこぼした。僕の方に向けてニヤけたようだった。

Torontoは普通、いくつも音が脱落してTronnoのように発音する。「とろんと」では通じないことを、英語に親しんだフィリピン人である彼はよく知っている。正しい発音で乗客を正しく案内したフィリピン人の彼は、

「レッツゴー!」

そう言って、風を切って部屋を出ていった。パスポートはまだ返ってこない。

 

彼について行ったのは僕の他に9人だった。カナダ人らしいシックな服装で、中東の顔立ちをした男女(夫婦のようにも、姉弟のようにも見えた)、大学入学前の卒業旅行を終えてカナダに帰るといった様子の、様々な顔立ちの若い男4人組、そして中国人留学生3人。

飛行機にたどり着くまで、彼は何やらいろいろな場所へと僕たちを連れ回した。

彼はパスポートの束を持っていた。その中に僕のパスポートもあるに違いない。その束を色々な職員に渡して確認させ、なにかの処理をさせる。

最後に搭乗ゲートへ辿り着きパスポートを配ってお開きとなった。これで安心、と思った途端、最後の最後になって、僕のパスポートだけが束の中にないというドッキリが待っていたが、それも袋の隅に紛れていたというオチに終わった。

 

搭乗ゲートでは、パスポートとビザの入念なチェックがあるようだった。僕の前にいた中国人留学生は、パスポートを赤外線で確認されている。

僕もそのつもりでパスポートを渡す。フィリピン人の女性職員たちは、それが日本のパスポートであることを見て取ると、顔が少し綻ぶように見えた。そして笑いながら互いに何かを言い、ごく簡単な検査だけして僕に返した。

タガログ語は分からなかったが、「チャイナ」という言葉が聞こえた。妙な部屋で散々待たされた理由と関係しているように思えてならなかった。

 

そうやって、トロント行きの飛行機に乗った。

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異国の災いと運命

 

地震があったとき、レオナルドは人生で初めての体験に腰を抜かしそうになっただろう。

たぶん奥さんと手を取りあいながら、為す術もなく部屋の中央でしゃがみ込んだ。

今のが地震だよな、すごかったな… 

と、奥さんと互いに慰め合いながらテレビをつけ、インターネットで検索をしてみただろうか。落ちた物がないかを見回したり外に出て見たりとひとしきりのことをしているうちに、あっというまに時間が経ったに違いない。

 

あんまり動揺したので思いつかなかったが、これは大事件なので、誰かに話したい。ついでに、今の地震が普通のことなのかどうかもぜひ訊きたい。

それで地震のちょうど一時間後にメッセージを送った相手が、僕だった。

まだ余震があるかもしれないから、と基本的な考え方を教え、英語で書かれたウェブサイトや防災アプリのリンクを送った。

翌日も翌々日もレオから

「どうだ? 大丈夫だよな? 大きいのは来てないよな?」

「日中より夜の方が揺れが多いように思うが、なんでだ?」

と、頻繁にメッセージが来た。

 

それから数日後にカフェで会った際も、やはり地震の話題に触れた。レオの最大の懸念は、

「大きな地震がまた来るのか来ないのか? 来るならいつ来るのか?」ということだった。わからない。そう答えても、「一般的にはどうなんだ? すぐ来るのか、数日経ってから来るのか?」と食い下がった。

感情表現に関して、レオは慎重な男である。ときには「これについて俺は驚いているぜ」「感動しているぜ」「うんざりしているぜ」といった感情のパッケージをわかりやすく提示するが、それがレオ本人であるようにはあまり見えず、抑制されたパッケージの裏の本当の姿は滅多に垣間見れない。でもこのときは、理知的な質問の向こう側の生身の感情がよく見えた。

「もうフィールドワークへ行ってしまおうかな、タイに」

日本から逃げちゃうぞ、という意味らしい。

「冗談だよ」

 

 

レオはイタリア北部の実家を若い頃に飛び出して、アジアを放浪し、何の縁だかタイのシャーマンの家庭に住み込むことになってから、タイを離れられなくなった。タイ人の奥さんとも結婚した。今や彼は、タイ研究で食っている人類学者である。

タイ人の神秘的な世界観では「中心」が力強く、「周辺」は中心から「パワー」を貰う。首都のような「中心」はまた、神秘的なあの世とも繋がっている。パワーはいつも、この世のものならざる「何か」と表裏一体だ。レオはそういった「コスモロジー」論を専門にしている。

 

大阪北部地震から1週間後、タイでは、洞窟に閉じ込められた少年サッカーチームの話題がメディアを賑わせた。地元の人たちが遠足でよく行くという深い深い洞窟の奥に、25歳の若いコーチ率いるチームがたどり着いた時、天候が崩れ、大量の雨水が流れ込んで入り口を塞いだ。

洞窟は現世と神秘世界とを繋ぐ境界の空間であって、そこに入って行くことで人間はパワーと危険との両方を一身に受ける。レオがメディアに載せた論説によれば、タイ人にとっての洞窟の意味とはそういうことらしい。だからコーチに率いられてチームが洞窟に入ることは、単なる無神経な遊びというわけではない。

タイの全国民が注目し、それどころか世界中からプロが結集して救出作戦が続いた。国の中央から遥か離れた北部辺境にある奥深い洞窟で、危険と神秘とが混ざり合った力がうごめいている。

 

ところでレオと同じ大学には、フオンという友人がいる。彼女はベトナム出身の大学院生で、人類学研究室に所属して沖縄のシャーマニズムと占い師について研究している。沖縄本島での一年間のフィールドワークを終えて、最近京都に帰って来た。

去年フオンと会った際、彼女は僕に、シャーマンはベトナムでは普通の存在なのだと教えてくれた。彼女の地元にも信頼できる占い師がいるらしい。沖縄から戻って来たばかりの彼女は、今度は「スピリチュアリティー」という考え方を熱心に語った。30分以上話していたと思う。沖縄でフィールドワークをしながら、スピリチュアリティーの本を読んでいたのだという。

彼女に「地震は怖くなかったか?」と聞いてみた。

「全然怖くない。地震で死んでも、それが運命だということ」

さすがである。

 

 

僕はフオンとレオを引き合わせたいのだが、なかなかタイミングが合わない。フオンはフィールドワークの報告をするゼミがあるし、レオはいくつもの原稿の締め切りに追われていて、京都観光にすら興味を示さない。

 

ある朝、レオからメッセージが来た。

「携帯電話がなんども鳴って、日本語でメッセージが表示されるんだが、これはなんだ?」

地震か!? と思って机の下に入っていたんだが…」

前日あたりから急速に雨脚を強めた前線で、西日本は不穏な空気になっていた。レオの携帯に入ったのは、京都市内の避難勧告らしかった。確かにその日、市内ではあらゆる場所で携帯が鳴り響いていた。

夕方、レオが家の近くの川を見に行ったといって、写真を送って来た。

「全然問題なさそうだったよ」

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(C) 本人

普段の市内の川の様子を知っている人間としては、これはかなりのものであり、今にも溢れ出しそうに見える。少なくとも「全然問題ない」ことはない。

彼の住む地区を調べてみると、かなり以前から「避難指示」が発令されていた。避難指示が出ても避難しない人はたくさんいるし、彼は頑丈な三階建てのアパートの二階部分に住んでいるというので、とりあえずは大丈夫だろう。でも西日本の状況を見ると今回の雨は本当にすごい。なにが起きるかわからないから、避難という選択肢も真剣に考えて欲しい。

僕がなんども情報を提供しつつ危険について細かに説明する一方で、レオは締め切りに追われているらしかった。だんだんとイライラし始めているのが感じられ、最後には

「今日避難しろということか?」

「いま避難すべきという意味ではないけれど、周りの状況をよく見て注意して欲しいと思い、避難のことを言った」

「わかった」

そういう、すこし息の詰まるやり取りになった。

 

結局翌日から雨は収まり、写真の時点が最大の水位だったらしい。「雨が止んで、全く問題なくなったよ」という連絡は特にないまま、静かに数日が過ぎた。

梅雨が明けて、蝉が鳴き始めた。彼の周囲にも問題はなかったのだと解釈した。

 

その間、フオンはゼミでフィールドワークの報告を終えたが、見通しは必ずしも明るくないらしい。フィールドワークを追加でやらなければいけない可能性があって、これから一ヶ月間の頑張り次第なのだという。

 

「今週は大学の方に来ることはあるか? 今週末からタイにフィールドワークに行くから、それまでに会えるかどうかと思って」

雨のあと最初に来たレオからの連絡だった。

結局互いの都合が合わず、レオはそのままタイへ飛んだ。フオンを紹介するタイミングも、残念だがないままに終わった。

豪雨で洞窟に閉じ込められた少年たちが全員無事に救出されたというニュースが、ちょうど出たばかりだ。辺境にある神秘の洞窟でおきた奇跡の救出劇は、もちろん、タイ人のコスモロジーにとって隠れた意味を持っている。それについて調査しまた語る資格を、レオは十分に持っている。彼にとっては、救出劇が佳境を迎える傍で原稿を書いていたここ数日にも増して、忙しい滞在になるに違いない。

 

そんなこんなで、レオは奇しくも、天災に呪われた日本から脱出できることになった。

 

 

シェアハウスを通り過ぎる

僕が居間でパソコンを叩いていると、テレビを見ていたハサンが僕の向かいの席に移動してくる。それを僕が視野の端で観察していると、彼はテレビと僕とのちょうど中間あたりに視線を向けて、ほとんどそのまま固まった。話しかけたいのだろうか?

「今日はバイトどうだった?」

僕から水を向けると、よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりだ。

「old manが来て。嫌なヤツだった。ボスに苦情を言いやがった。俺は普通に仕事しているのに。ba***rdだ」

ハサンはトルコ系のイギリス人で、ワーホリで日本に来て1年近くになる。イトーヨーカドーで働いている。ハサンの接客の声がたまたま聞こえなかったold manが店長に苦情を言い、ハサンはいわれのない注意を受けた。

「日本人だから、というわけじゃない。イギリスのユニクロにもいた。どこでも起きることだと思うけど。でもあいつはba***rdだ」

ハサンは人生のあるとき、自分のルーツであるトルコが、日本という国との間に文化的・人種的な繋がりがあることを知った。ロンドンのユニクロで働き、Japan Centre(ロンドンで有名な日本食料品店)で働き、「イギリス人は誰も応募しないから簡単に取れたよ」というワーホリビザで日本に来た。沖縄で土産物を売り、東京に来てこのシェアハウスに住み、そうして今、僕の向かいに座っている。

日本に住みながら見聞を広めてみると、トルコは中央アジアと繋がりが深いということを発見した。モンゴル語にはトルコ語と共通の語彙がある。中国には昔からトルコ系民族が侵略を繰り返した。モンゴルに行ってみたい。中国に行ってみたい。でもお金がない。働いて貯めないと。ハサンは今も、中退した大学の学生ローンを少しずつ返済していた。

ハサンは、日本滞在を延ばす方法を真剣に探していた。最大の問題はビザで、ワーホリの1年ビザが切れたあとも滞在するためには仕事が必要だ。ハサンは日本語がそこそこできるし漢字も読めるので単なる旅行者よりずっと情報を持っているはずだが、それでも難しいらしかった。大卒でないため、日本語を極めるのでない限り正社員の職が見つけられないとしても、不思議ではない。それでも情報へアクセスできれば少しでも変化があるかと思い、僕はいろいろアイディアを出した。兄の会社も紹介した。もっとも手っ取り早い職であろう英語教師についても、彼はすでにトライしていたが、改めて求人応募してみるよう勧めた。

「ba***rdだ」

その日ハサンは、old manに煮えくり返っていた。

僕はまた仕事探しを勧めてみたが、ハサンはイトーヨーカドーの職場が嫌いというわけではなかった。斉藤さんという初老のフロア責任者がいて、良くしてくれる。「サイトウサンは良い」のだそうだ。「オバアチャン、サイトウサン、かわいい」と、楽しそうに話した。可愛い老女がこの世にいることは、僕もよく知っている。

それでもイトーヨーカドーは正社員になれないから、ビザは出ない。ハサンはその日からまた、食卓でノートパソコンを覗き込み、仕事を探しているようだった。

 

シェアハウスには、マレーシア人の若いカップルがいる。明けても暮れても、居間のソファに並んで座りノートパソコンを二枚開いて、ネットゲームをやっている。日本語学校に通っており、4月から大学に入学したいのだという。日本語学校のテスト前には、パソコンの横で教科書を開く。ネットゲームは対戦相手とチャットで会話しながら、音声もつないで声でも会話する。

「チャットか音声か、どちらかだけではダメなの?」

僕が思わずそう訊くと、男の子のほうが

「ははは、そうだね。クレイジーだから」

そういって楽しそうに笑い、またゲームに没頭した。

チョウというその男の子は、父親と頻繁に電話をしていた。彼女と付き合っていることを、お父さんはあまり快く思っていないのだという。チョウ君も、彼女に厳しかった。

 

old manに煮えくり返った日から数日が経った。ハサンが仕事から帰ってきた。玄関の扉を開けて、居間圏キッチンの広い空間を、まっすぐに歩く。歩きながらいつも首を少し傾けているのは単なる癖だろうが、話しかけない限り僕たちと目を合わさないのは、それが彼なりの共棲術であるに違いない。

スーパーの値引きフライドチキンをレンジから取り出し、食べ始める。それを見ながら、僕が話しかける。

「仕事見つかった?」

すると、思いがけずハサンは僕を直視し、答えた。

スカイプで面接を受けることになった」

英語教師の仕事だという。ほら!やっぱりあった!よかったじゃないか。ハサンも少し興奮しているのが分かったが、感情の扱いが苦手な人だった。視線がすこし泳ぎ、声には力が入っていた。

「まだわからない。単なる面接だから」

どんどん受ければいい。面接は翌日の午後だという。

翌日の夜、僕が帰宅すると、ハサンが食卓でパソコンを見ていた。面接はどうなったのだろうか。僕は居間に座り、パソコンを開いて仕事をする。

横目でハサンを見る。普段どおりにも見えるし、何かがあるようにも見える。

ハサンが立ち上がったときに、思い切って訊いた。

スカイプ面接はどうだった?」 職場見学に招かれた、だろうか。そんなことを予想しながら訊いた。

ハサンはキッチンの中央に立ち止まって、目をカッと見開いて僕を直視した。

「受かった。受かった」。静かだが、明らかに興奮していた。

受かった!? 面接一回で、すぐに受かったのだ。正社員でビザが出ることを前提に求職していたから、これはつまり採用されてビザが降り日本滞在を伸ばせるということだ。おめでとう!!

「仕事はどこで? 御茶ノ水? 新宿?」。僕も興奮していたので、何から言えばいいかわからず、とりあえず職場の場所を訊いた。なぜ御茶ノ水が最初に出たのかわからないが、英語学校と言えば御茶ノ水のような気がした。

「ペキン」

‥‥え? 北京?

「ペキン。そう」

ハサンは唐突に言って、それから繰り返した。目は相変わらずカッと見開かれ、興奮していた。

僕は甲高い声を上げて笑った。

え? 東京じゃなかったの? 日本じゃなかったの? 北京なの? 中国に行くの?

宿舎付きで、ビザも出るらしい。外国人を英語教師としてたくさん採用している学校で、ウェブサイトもそこそこちゃんとしている。

すごいじゃないか!中国に行きたいって、言ってたじゃないか。

それで、受かったから北京に行くの? その仕事をやるの?

「まだ考えているけど、多分行くと思う」

おい。すごいな。

僕は俄然、北京に行くことを応援した。新しい人生が開けるかもしれないし、なにより仕事がもらえて給料が入り、しかも行ってみたかった北京だ。モンゴルにも近い。

「もう少し考えるよ」。ハサンは適切な程度に慎重だった。

 

その場にはチョウ君と彼女がいた。二人はハサンと僕の興奮した会話を余所目に、淡々とゲームをこなしていた。

ハサンが寝室に戻ってから、僕はチョウ君に話しかけた。

「北京に行くって、すごいよね」

チョウ君は興奮していなかった。

「ちょっと、怪しいと思う」

面接一回だけですぐに採用、という簡単さを訝っていた。

それはもちろん、まっとうな感覚ではある。でも、イトーヨーカドーでビザ満了まで働いて、イギリスに帰って、それでまたスーパーの店員の仕事を探すのと、怪しさを押して英語教師として北京に飛び込むのと、どちらがいいだろうか。

チョウ君は興味なさげに、またゲームに戻った。

いずれにしてもハサンが決めることだ。

 

翌日のハサンは、北京に行く方向に傾いていた。

しかし翌々日あたりから、やはりやめると言い出した。

「母さんがカンカンに怒るから」

日本に来るだけでもすでに母親に猛反対され、それを振り切ってやって来た。いま、前触れもなく突然「今度は中国」などとなれば、

「アンタ、ナニカンガエテンノ、バカヤロー! となるに決まっている」

という。母親の真似をするハサンは突然に饒舌で、母親への愛情が溢れている。

「僕にとっては家族が大切だ。いいチャンスだったかもしれないけど、母さんに言えない。無理だ。トルコ人だから」

トルコ人の家族愛は深くて、ネバネバしている。母親の反対という話はこのとき初めて耳にしたが、これまで何人ものトルコ人と付き合ってきた僕に違和感はない。

やめると言い始めてからは、辞退する意思が急速に固まっていった。

 

突風のように巻き起こった北京行きは、夢と立ち消えた。

それまで日本趣味やモンゴルへの好奇心を語っていたハサンは、ぽつりぽつりと、家族がどれくらい大切なのかを話すようになった。自分にとっての優先順位に、改めて気づいたというふうだった。

「なんにしても、自分にとって何が大切なのかをしっかり考える機会になって、良かったね」

僕がそう言うと、あながち否定もせず、黙って首を揺らした。縦とも横とも取れなかった。

 

ハサンは子供が好きだということで、後日、東京の英語教育幼稚園の仕事に応募して職場見学に行ったが、自分のイメージと合わず辞退した。「体験勤務」の位置づけと彼の辞退について、雇用者側と少し揉めた。

イトーヨーカドーを辞めるときには、「来週書類に判子を押して、それで辞めになる。ハンコを押したらもう引き返せない」「明日押す」「今日押す」と、何度も僕に話した。ハサンにとってはイトーヨーカドーが、日本との繋がりそのものだった。仕事を辞めれば収入がなくなり、涙のような貯金が尽きる前に、早々に立ち去らなければならない。

 

チョウ君と彼女は、無事に大学に合格した。しかもチョウ君は面接の印象が良かったらしく、奨学金付きの入学だ。おかげでバイトを始める必要がない。彼女だけが居酒屋のバイトに出かけていくのを毎日見送り、帰ってくるまでに手料理を作る。日本語学校から卒業したため日本語の勉強をする必要がなくなり、ゲーム漬け生活がますます亢進した。

二人は同じ大学に通うのだが、チョウ君は「彼女が甘えすぎ」だから、互いの住まいをわざと離れた場所に取った。一緒に住むことはそもそもお父さんに禁止されているのだというが、住まいを離したのはチョウ君自身の判断だった。

 

 

ハサンは、ロンドンの以前の職場であるJapan Centreに連絡し、帰国次第また復職できることになったのだという。

帰国がかなり近づいてから僕は、ハサンが漢字マニアであることを知り及んだ。自分の漢字ノートを持っており、気に入った漢字を何百回、何千回と書写してひたすら練習していた。だから僕はロンドンで日本語を教える仕事を探してはどうかと強く提案したが、ハサンはイメージが持てず、首を縦に振らない。

彼の書く漢字は日本人顔負けで、少なくとも僕よりもバランスが取れて上手だった。極めて複雑な漢字も熟知していた。驚異的だ。できれば、なんとかして日本に残って欲しかったが、それも仕方がない。

今度はモンゴルへ旅行に行けばいいよ。僕が励ますと、ハサンは

「お金を貯める」

と、静かに言った。

 

以前から僕とハサンで話題にしていた近所のウイグル料理屋に、シェアハウスの住人たちで食べに行った。送別会だ。美味しいのかどうか未知のままで飛び込んだが、思いがけず絶品が出た。

ウイグルは、中国のトルコ系民族だ。店長とも、トルコ語が少し通じた。

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3月、ハサンとチョウ君たちは、ほとんど同時にシェアハウスを発った。

成田空港までの電車賃を心配してしまうほど、ハサンはギリギリだった。いまはJapan Centreで働き、次のアジア行に思いを馳せていると願いたい。

 

安田祐輔「暗闇でも走る」を読んで考える

去年の冬から、とあるベンチャー企業で仕事をさせてもらってきました。それもこの5月で契約満了で終わりとなります。

その会社の社長が本を出版したので、読みました。

honto.jp アンチ・アマゾンでhonto.jpのリンク。公告ではないです。

概要にあるとおり、著者の安田さんは幼少期いらい壮絶な三重苦・四重苦を経験してきた方です。この本は、それら一つひとつをどのように乗り越えてきたのかを記したものです。

同時代を生きること

安田さんに比べればずっと恵まれた家庭に生まれ、たいした苦労もなく育ってきた自分にとっては、この本に書かれてるような苦境はあまりにも遠い世界のことのようであり、またそれが自分と同じようなごく普通の場所で同時代的に起きていたということに不思議な感覚すら持つ。

例えば安田さんにとっての転機の一つだった9.11とそれに続く戦争。その歴史的事件について僕自身が持っている個人的な記憶というのは、中学1年生のある晴れた日、自宅に帰ると母がいて、リビングルームでテレビがついている。掃除がされた後らしき清々しい空気が部屋に充満していて、広く取られた3方向の窓から午後の日差しが明るく差し込んでる。そのなかでテレビから、貿易センタービルの映像が繰り返し流れていた。歴史的な事件であることはわかったけれど、幼く、平和に暮らす自分にとって、それは平凡な日常の中の一つの事件でしかなかった。(9.11が起きた日本時間をいま調べてみて、当時18時間くらい事件を認識せずに過ごしていた事がわかり少しショック。)

その同じテレビ映像を見ながら、当時18歳の安田さんは、苦しんできたそれまでの自分がそれでも生きるということの意味を問い、「なにか」をすることで意味のある人生にしたいと決意し、そして浪人を経て大学時代の活動までつながる道を辿り始めた。

「辿り始めた」と簡単に言ってしまえば簡単に聞こえるけれど、偏差値30から東大を目指して猛勉強をするために、毎日公民館の自習スペースで自分の脚を椅子に(文字通り)縛り付ける生活を始めた、ということらしい。そのころ僕は、中学校で思春期らしい人間関係の悩みを生きて、部活を辞めたり、テレビゲームをしたり、英語の勉強にはまったりして、平凡に暮らしていた。

同時代を生きるというのはまさにこういうことなんやと、不思議な感覚を覚える。

何が突き抜けていたのか

とはいえ安田さんのような恵まれない環境は、その部分的なものであれば経験している人は多くいるはず。そのなかで、安田さんだけがここまで突き抜けて、一つの意味ある事業をこうやって軌道に乗せることが出来たのは、何が違ったんやろうか。

一つ思ったのは、「うえに上がるために何かをする」というときに選びうる方法として、「勉強する」という古典的な選択肢がその古典的な威力を遺憾なく発揮したんやろうか、ということ。つまり、方法の選択が正しかったんではないか、ということ。

これは自分自身の経験からも感じることやし、安田さん本人からも似たことを聞いたので間違いないはずやけど、論理的な思考や知的な体力というのは、訓練によって圧倒的に伸ばしていくことができる。安田さんが壮絶な受験勉強を2年間も続けたということを本で詳しく知るに及んで、その期間が安田さんにとって、単に受験のための知識だけでなく総合的な知的体力を伸ばすためのすごく大切な期間に(結果的に)なったんじゃないかと想像した。一緒に仕事をさせていただく中で、安田さんが本当に知的で、頭の回転が速く、理性的で論理的なことを感じてる。テンポが速いのでついていくのが大変。

塾を経営するためには、社会にどんなニーズがあるのかを的確に把握して、それを数字に落とし込んで考え、多様な人間と円滑にコミュニケートしながら構想を練り上げて、それを現実の制約の中で具体的に実行していかないとあかん。大変な知的能力が求められるし、自分には到底できない。一緒に仕事させてもらうなかで、この人がそれをこれまで見事に続けてこられたのは大いに納得、という感じがしている。そしてその地盤は、受験勉強を含む高負荷の勉強のプロセスの中で克己的に鍛えてこられたんではないやろうか。

「うえに上がる」と決意したときに、特定のスキルを身につけようと思う人もいるやろうし、芸術方面で一発あてるのを目指す人もいれば、まずは地道にお金を貯めようと考える人もいておかしくない。どんな選択肢を選んでも間違ってるわけではない。ただ、大昔から多くの人が選んできた「勉強で頑張る」という選択肢は、大昔も今もやっぱりそれなりに有効なものなんやろう。それを地で行っているのがこの人なんやな、という印象を得た。

だからこそ、その仕組みを再生産することそれ自体を事業目的としているこの会社は、正しいのかもしらん。この点について正直に言ってしまうと、「何度でもやり直せる社会を作る」ことをミッションとしながら、手段を勉強に限定していることについては、かつては釈然としない印象を持っていた。他にもいろんな「やり直し」があっていいのでは?と思っていた。でも安田さんの来歴を詳しく知るに至って、大いに納得させられた。

のほほんと育った自分、壮絶な生い立ちの著者。その間に通底するもの

同時代を生きながら、自分とは全く違う世界がそこにあった、と書いた。

でも実をいえば、(これは周囲の人間からは賛同を得られないやろうけれど、)自分も自分なりに生きづらさを抱えてきたのであって、この本を読みながら自分の経験と通底するものを幾つも感じた。壮絶な生い立ちの安田さん本人の前では到底言えないけれども(とはいえ多分これを読んでいるので言ってしまったのと同じことになるけど)、人間一人一人の経験は量的に(どっちのほうがより大変か、というふうに)比較できるものではなく、それぞれの質的な(固有の)経験こそが大切やと思うから、自分の経験を振り返りながらこの本を読んで、自分と著者との間に通底するものを見出すことは、間違っていないと思う。たとえ自分がどれほど恵まれた環境に育ったとしても。(そして、このことを安田さん自身はきっと認めてくれると思う。)

安田さんの言葉の中で、特に自分の思いを見た気がしたのは、「意味ある人生にしてやる」という悲壮なまでの決意。

彼の人生が大きく転換し始めたタイミングには、二つのモノがうごめいていた。まず一方では、18歳までの過酷な生い立ちと、その中で人間への信頼を失い、「自立したい」と思ったこと。他方で、「意味のある人生を生きたい」と思い、その頃たまたま世界の惨状を目にして、何かしなければいけないという使命感が降りた。安田さん本人から否定されるかもしらんけど僕が読んで感じた印象は、この前者と後者が、実は直接的には繋がっていないということ。(最終的にキズキ共育塾を運営するに至って、直接に繋がった。)にもかかわらず、強い使命感で猛烈に勉強し、活発に活動した。

この「繋がってなさ」と「猛烈さ」には既視感がある。

(周囲の人間から賛同は得られないやろうけど←くどい)自分自身が、安田さんには全く及ばないながらも、そこそこ猛烈に頑張ってきたという意識があって、それはこのブログで詳しく書いてきたことでもある(読むのが極端に遅くて、それをカバーするために必死にやってきたけど、そもそも他人より極端に遅いということ自体に気づくのに29歳までかかった)。

また一方で、なぜ自分はそこまで頑張るのか?と問われれば(実際、親しい友人からは時々問われる)、それは中学3年生の時にひとり静かな部屋で「意味のある人生にしたい」と心で泣いていたことから全てが始まってる。暴力を受けたわけでもなければ、貧困にあえいだわけでもないし、誰かにいじめられたわけでもないけれど、当時の自分には(今の自分にも)人生が非常に無意味なものに思えて、かつそれに耐えられず、自分で意味を作ろうと強く思った。一般的な思春期がどうなのかは知らんけど、人生が無意味なものと感じることは多くの人が経験してるやろうし、何かを成し遂げようと思うことも多くの人が経験してるやろう。たぶん自分が他の人と違ったのは、(1)無意味であることに耐えられなかったことと、(2)意味を作ることでその問題を解決しようというモチベーションがいつまでも持続したこと、の二つなんやと思う。

平和で不自由のない生い立ちから考えれば、あまりに唐突で、「繋がっていない」。

こういう意味での「人生への態度」が、安田さんと自分との間でかなり通底しているように感じた。その背景になっている量的な意味での苦労の度合いは全く比較にならないけれども、ある面で、質的な経験としては共通性があるように思う。

共通性の原因を探る

この共通性について、それの背景となる何らかの原因や仕組みを勘ぐることは、可能やと思う。安田さんのような比較対象と見比べながら考えたことはなかったけど、これまでずっと考えてきた中で自分の息苦しさの原因かなと可能性を疑ったのは、

  1. まず単純に、「時代」。バブル崩壊とほぼ同時にこの世の中に生まれてきて、自分よりも上の世代とのあいだに圧倒的な物質的・思想的断絶があったこと。
  2. 時代という切り口とも関わるけれど、「文化の混交性」。アメリカ的な価値観を受容してきた自分の親世代と、それを歪な形で引き継いだ自分との間の葛藤。(→これが人類学的な研究関心へと直結している。)
  3. そして最後に、つい1年前に初めて気づいたこととして、「発達障害」。人生の意味といった曖昧な問題について突き詰めて考えてしまうこと、それに対して論理的な答えを求めてしまうこと、意味があるか/ないかの「全か無か思考」に陥りがちなこと、思い込んだらやめられないこと、そもそも人間関係が希薄なため社交の中に生きがいを見つけにくいこと、など、発達障害の特性に照らして考えれば「生きる意味を作る決意」はもっともな帰結とも言える。

1の「時代」については、いみじくも安田さん自身がはっきりと意識していることでもある。ひきこもりや不登校、ひとり親世帯といった社会問題は、安田さんが子供の頃には全く認知されておらず、大人になってから初めて「あぁ、あの頃の自分の経験は、その後おおきく社会問題として認知されるに至る状況の典型的な事例だったんだ」と気づいたという。ひきこもり・不登校・ひとり親世帯という具体的な観点では自分には当てはまらないけれども、それを大きく「時代」という形で切り口を広げてみれば、やっぱり自分も時代の潮流にしっかりと動かされていたのかもしらん。そう考えてもおかしくない。

2については、10年後くらいに、研究の成果として何かの発言をできれば嬉しいと思ってる。

3については、何でもかんでも安易に「発達障害やから」と(冗談はさておき真剣に)言ってしまうことは慎むべきやと思うのでなるべく控えたいが、安田さん本人が発達障害の傾向を持っていることからも妥当な気がしてる。

まとめ

というわけで、この本を読みながら自分の経験に引き付けて感じたことを書いてきた。纏めるとそれは「時代(同時代性)」、「勉強することの偉大さ」、「発達障害の生きづらさ」の三つということになりそう。

ただ、あくまでこれは「自分の経験に惹き付けて感じたこと」の範疇に収まるものだけを書いたんやと、よく記しておきたい。この本の内容が触れている社会問題や人生経験の機微はほんまに幅広くて、読む人それぞれで全く違うメッセージを受け取ることになると思う。自分には経験の厚みが足りなくて理解しきれてない箇所も、たくさんあると思う。なにかキーワードが引っかかったら、ぜひ読んでみてほしい本です。

なお本の内容から離れて一言だけ。キズキで仕事をさせてもらったこの半年間は、自分にとって、(同僚やクライアントには失礼になってしまうけれど)とても貴重なリハビリの期間となった。去年東京にやってきた時点での心理的脆弱性と怯えた表情からは、考えられないほど元気に回復した。本当に助けられた。

また経済的・心理的に安定することができたこの期間をうまく活用して、自分にとっての「やりなおし」も無事に駒を進めることができた。キズキで働いている人は、そこで働くことそれ自体がその人にとっての「やりなおし」であることが多い。自分も幸い、その輪に入れてもらうことができた。働かせてくれたことに大感謝。

発達障害を作るのは社会か自然か

「ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか」という本を読んだ。ADHDという「障害」をめぐる科学史(医学史)の本。

ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか

ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか

 

 著者はイギリス人。自分自身が子供のころ「多動」だったが当時は「やんちゃ」くらいにしか思わなかった。その後、科学史の研究の過程で多動の少年と出会い、また息子が多動であることからこの概念について考えるようになって、ADHDについてのこの研究を書いた。

要旨

今日、ADHDという概念は世界中で用いられているけど、それは1950年代からアメリカに生まれ出て、20世紀末に近づいて初めて世界へ輸出された。いま日本で主流の理解は、「ADHDとは、脳の神経学的な器質に起因しつつ、環境要因と器質要因との相互作用によって生活上の困難として表出する、行動の特性」というもの。でも歴史的には、複雑な変遷を経て発展してきた病理概念である。

ひとつの背景は、1950年代、60年代の始まりの時期において、アメリカが科学技術立国を盛んに目指したこと。時代は冷戦真っ只中で、57年にはソ連スプートニクを打ち上げた。国民の知的・科学技術的水準に危機感を持った政府や専門家が、学業的に不振な一定の集団を問題化し、対処すべき病理としてこれを概念化した。それが、今日のADHDにつながる「多動・注意欠陥」の端緒。

アメリカでの多動概念の発展に寄与した別の背景は、多動の治療に効果があるとされた薬(リタリン)を販売する製薬会社の努力。製薬会社は、医師や学校やPTAに働きかけ、薬と一緒に「多動」概念それ自体を売り込んだ。

この本が指摘してるもうひとつの背景は、精神科医療の3つの派閥の間の主導権争い。まずユダヤ人の米国移住に伴ってアメリカで隆盛を誇った、フロイトから始まる「精神分析」、つぎにミシェル・フーコーに代表される、社会が病理を作り出すと考える「社会精神科」、そして精神は生物としての身体や神経学的な脳の機構に根拠付けられるとする「生物学的精神科」。精神分析は、「エセ科学」という誹りに脆弱で、自分自身に科学的な権威を与えることを常に渇望していた。社会精神科は、階級や環境を問わず多動症状が観察されることを、説明できなかった。そして、薬を使うことで多くの「患者」をマス規模で「治療」できる生物学的精神科が、権威を獲得していった。

しかし、そうやってアメリカで発展した生物学的なADHDの概念は、他の国に輸出される段になってみると、各国が病理について考える時に持っている価値基準の違いに応じて変化していった。アメリカにおけるADHDと全く同じものとしては普及しなかった。普遍・唯一のものとしてのADHD概念は疑わしい。社会的な環境要因や親子関係や食品添加物が、神経学と同じくらい関係しているし、またADHDの裏返しである教育的な要求も、重要な要素である。

筆者の主張はそういうことです。

日本の状況に照らすと

日本の専門的な医学書では、生物的側面と社会的側面とが並列的に強調されていて、この本の考えとかなり近いADHD理解が主流やと思う。しかし一方で、もっと一般の人口に膾炙したADHD理解においては、それは脳神経学的な器質であるという考えが比較的優位にあると思う。世界のどこの国でもそうであるように、日本では、「科学」的な専門知への信頼が厚く、「一般人」は自分たちにわからない化学や生物学といった「科学者の知識」を信奉していて、場合によっては盲信にもなりがち。他の国よりも、日本は特にその傾向が強いかも知らん。

つまりADHD(やその他の発達障害)は、恐らく、半分は生物学的なものであり、半分は社会的なものである。単に生物学的な器質にのみ着目していては見えてこないものがあり、この本はその見えにくいものをはっきりと見るための案内のようなものです。

結論の章から印象深い一節を引用する。

私の学童期には、慎重に使用されていた「革ひも」の脅しが、確かにほとんどの時間、私が列から離れないようにするのに効果的であった。このような体罰が今日おこなわれると、それは一般には身体的虐待とみなされるし、そのことは正当なのであるが、このために子どもと大人の間の関係のバランスがいくぶんか変化した可能性はある。たぶん多動症のような障碍の一部は、そのバランスを埋め合わせるために生じたのだ。その結果大人は物理的ではなく生物化学的に子どもを統制するようになった。それはトラジンのような抗精神病薬が化学的拘束衣として使用されたのと同じ措置である。(P285。強調は僕) 

ガラガラと崩れる昔の社会と、急速に立ち上がる新しい社会

以上は本の紹介。以下は僕自身の見解。

ADHD(やその他の発達障害)は、社会の変化によって生まれ出てきた。それは間違いなく事実やと思う。例えば、僕の知ってる70歳近いある男性は、恐らく発達障害やけど決してそれを認めようとしないやろう。「精神医療なんて、捏造や」(抄訳)とよく口角泡を飛ばして言っている。それはある意味ではそのとおりであって、実際、彼は生まれてから彼なりにうまく(?)生きてきて、ある種の社会的なステータスも獲得した。かつて成功者やったのに、急に「障害」なんて呼ばれても、「ふざけるな」と思うのが自然やろう。

でも時代が変遷して社会が変化して、周囲の環境がかつて個人に対して求めていた資質・行動・能力の基準がガラガラと崩れ去り、新しい基準が急速に立ち上がっていっているのが、この現代という時代。かつての基準の中で成功した彼は、昔築いた努力の術や成功の方法の枠内でしか物事を考えられない。そのとき彼の器質的な特性が、新しい世の中で、かつて上手くいったほどには見事な適応ができない。昔なら発達障害とは呼ばれなかった単なる性格・人格が、今の時代に発達障害と呼ばれるのであれば、それはごくシンプルに言って「社会の変化が生んだ障害」というべきやろう。

しかしその一方で、「発達障害? あぁ、世の中が変化して、昔は普通のことやったのが、今どき変な名前をつけるよね」とか、「俺が『障害』? 俺が障害やとしたら、いったい障害っていう言葉はどういう意味なんや」とか言って片付けてしまうことは、全力で阻止しなければならない。時代が変化して初めて誕生した「障害」は、だからといってそれが虚構であるわけでは決してない。今の時代が今の時代であることは厳然たる事実であって、そのなかで生きづらさを感じるある種の特質がある限り、それは障害として認知され、配慮され、理解されていくべきもの。昔はどうだったか、は関係ない。僕たちが生きているのは今の時代やから。

絶対に忘れない言葉

その男性はもう70歳近くて、「障害」なんて言葉をいきなり受け入れるには歳を取りすぎたかも知らん。本人がストレス無くやっていけることが一番大事やと思うから、無理に押し付けるものではない。でも僕は、とある人に対して全力を尽くして状況と気持ちを説明し、協力を求めたときに、その人から言われた言葉を一生忘れない。

これまでの人生で誰にも知られず生きづらさを感じてきたこと。それが生きづらさであることすら知らなかったこと。その困難が具体的な問題へと結晶化してアメリカの大学院でつらい経験をしたこと。焼き捨てるように帰国した後、自分で勉強しつつ医者も頼り、その経験を医学的に根拠付けたこと。そして、それらすべてを踏まえて、自分の特性を把握しながら改めて再チャレンジしたいこと。そのために「あなた」に協力してほしいこと。それら全てを一通の手紙に込めて送った相手は、こういうメールを返した。

発達障害は、社会の変化で、いままで「障害」とは考えられていなかったことが「障害」と見なされる面があると理解しています。XX君に適した勉強の仕方、生き方があると思いますので、気持ちを強く持ってください。Y田(~~にて)

気持ちを強く持ってください? 適した勉強の仕方がある? 最大限の力を振り絞って、自分を強く保つことによって、今この手紙で説明したプロセスを踏んできた。そしてこの手紙を送ること自体も、気持ちを強く持とうと力を振り絞ってるからこそ出来ること。「社会の変化で障害とみなされるようになった側面がある」なんて、そんなこと、百も承知や。それらを全部踏まえたうえで、こうやって相談してる。知ったようなことを言って、有耶無耶に済ませるな。協力を断るなら、はっきりと断ればいい。ふざけるな。

「社会の変化によって生まれた概念」と言って済ませてしまうことは、その本人の持ってる内面的な苦悩や、どうしようもない生物学的な制約を、根本から無視してしまうことになる。いかいも学者っぽい「知的」で「物分りの良い」そういう考え方が、世の中の言説の裏に隠された真実に気づいているといった視線を上から投げかけることで、自分を非当事者として特権化し、当事者の苦悩を顧みないための「正当な」理由を自分に与える。

 

僕は発達障害の社会的な側面を否定するものではないです。でも同時に、生物学的な側面も決して忘れたらあかん。発達障害の仕組みはまだ確定的な解明に至っていないけれど、今のところの人類の持っている知識では、おそらく社会と生物の両側面から複合的に出来上がっている特質です。そのバランスを忘れないようにしたい。

と、科学論的には陳腐な結論。でもそれでいいんです。

アメリカに憧れていた高校生の夢と、人類学の本を読んだ今晩との間の距離

高校2年生のとき、アメリカかカナダの大学に行ってみようかなと真剣に考えた時期があった。英語の世界に漠然とした憧れがあって、高1の夏休み1ヶ月間バンクーバーの語学学校に通った経験も夢を膨らませた。そもそも中学に入ってから英語の勉強が趣味みたいになっていたから、身につけたものを使って開ける未知の世界が眩しかったんやろう。

その頃よく考えていたことがある。小さいうちにアメリカへ渡ったり、高校生くらいで交換留学に行ったような人たち、いわゆる帰国子女という人たちは、あのアメリカ独特のイケイケの英語を身に着けて帰ってくる。日本にいてはなかなか身につかないあのイケイケさ。留学するならぜひあれを身に着けたいものやし、逆にあれが身につけば留学に行った甲斐があったというもの。そんなことをたぶん考えていた。あのイケイケさが、僕にとっては英語世界の象徴のような存在であった。

でも実のところ、あのイケイケさはそれ自体が礼賛の対象であったというよりは、むしろそれを日本へ持ち帰ってきたときの、もしくは日本人の日本語英語と比較したときの、その圧倒的な差異にあった。周囲の人との比較において誰の目にも明らかなあの際立ちにこそ、イケイケさのイケイケたる所以があった。

だからそのイケイケへの憧憬は、青年の単なる夢というのと同時に、自己愛と直結した少し醜い欲望でもあった。

自分のなかの自己愛と欲望に気付きながら、僕は周囲との軋轢を極力抑えて平穏に暮らすべきやとも思っていた。そこで、こんなふうに考えた。留学してイケイケが身に付いても、たぶん日本ではおとなしく、控えめに振る舞うかな。イケイケは身につけたいけど、でも帰国時や日本人と話すときは、相手にドヤドヤすることなく慎み深くあろう。つまるところ僕は、和を尊ぶ立派な日本人やった。

イケイケを身に着けていながら、同時に慎ましい日本人の顔も失わない。その2つの共存に僕は特段の疑問を感じていなかった。少し器用さが必要ではあるにしても、べつに十分可能やろうと思った。アメリカでも日本でも等しくイケイケに振る舞う帰国生たちは、たぶん、単にそれが好きなんやろう。どういう振る舞いをするかは、自分自身の選択の問題にすぎひんはずや、と。高校生の僕はそう思っていたし、それから10年以上経ったつい最近まで、僕はずっとそう思っていた。

[R]ace relations in North America involve a blend of assimilationist efforts, raw prejudice, and cultural containment that revolves around a concerted effort to keep each culture pure in its place. Members of racial minority groups receive a peculiar message: either join the mainstream or stay in your ghettos, barrios, and reservations, but don't try to be both mobile and cultural.

R. Rosaldo. 1993 [1989]. Culture and truth: the remaking of social analysis. Beacon. p212. (Amazonアソシエート)

北米における人種間関係の中心にあるのは、新参者を同化させようとする努力、露骨な偏見、そして、それぞれの文化をそれ自身の場所に純粋な形で留めさせようとする、四方八方からの封じ込めである。人種的マイノリティに属する人間は、社会から発せられるメッセージに困惑することになる。「メインストリームに合流するか、そうでなければお前のゲットー、居住区、または保護区から出てくるな。自由に出入りできて、しかも自分たち自身の文化を維持しようなどとは考えるな。」

(私訳)

これはふた昔ほど前の世代に属する、人類学の有名な本の一節。著者はヒスパニック系アメリカ人で、アメリカ文化人類学会長も務めた人です。

アメリカの社会文化は、自分自身の中に異文化を内包することを許容できない。どれだけ移民を受け入れ、どれだけ世界中のすべての人間にとっての夢の国であったとしても、同時に厳然としてアングロサクソン系の主流文化への同化を要求する。それを拒む者にはゲットーを与え、居住区を与え、保護区を与え、主流社会とは隔絶した空間のなかに封じ込める。ちゃんとした(一流の)大学に属してそのなかで成功することを目指しながら、しかも同時に日本的な/発達障害的な文化(広義の)を保って暮らそうとする人間を、アメリカは許さない。日本人でいるか、アメリカ人になるか、どちらかを選べ。そう迫ってくる。

だからアメリカに留学した「帰国子女」がイケイケになって帰ってくるのは、アメリカ社会がそれを求めたから。アメリカにて社会的に幸福に生きるために、必死でイケイケにならざるを得なかった。本人がどう自覚していたかは別にしても、そういう仕組が背景にあってこそ、アメリカに留学した人はみんなイケイケになって帰ってきたんやったんや。「イケイケを身に着けても、日本では慎ましくいればいい」とか、「自分は慎ましさを選択する」という問題ではない。慎ましい日本人としての人格を半ば放棄しなければ、アメリカではまともに暮らしていけない。そこに「選択」の余地はない。

これは高校生の青年には到底わからなかったし、オジサンに近い年齢になってもやはりわからなかった。でも実際に現地で、その脅迫めいた選択の強要に直面してみると、どんな疑念も浮かぶ余地がないほどスッと、あぁこの国はこういう国なんやと理解できた。まるで麸に吸い物が染み込むみたいに、自然なことに感じられた。そして当然、それによって排斥されたという感覚は確固たるものとして自分の中に沈着した。

今でもよく、アメリカに憧れている人を身の回りに見かける。別に個人個人が何に憧れようと勝手やからいいんやけど、日本全体で見ると、明らかに一種の(慢性的な)社会現象といえる。

アメリカがどれだけ民主主義の国であっても、どれだけアントレプレナーシップの国であっても、どれだけドリームと物質的豊かさの国であっても、その良さだけをいいとこ取りして享受することはできないのです。

それを享受したければ、あなたはアメリカ人になるしかない。

日本人でありながら、1年や2年だけ体験的にアメリカの良さを享受するというようなことは、アメリカ人たちが決して許さない。許さないというのは無視するとか助けないとかではなくて、積極的に排除し排斥しようと図るし、そのためにならば暴力も厭わない。

そしてもし仮に、アメリカ人になることを目指してもいいからアメリカの良さを享受したい、と思ったとする。すると、たぶんあなた自身の人生のうちに、その享受の瞬間は訪れないと思います。アメリカに住み着いて、家族を作って、子どもを育てる。それで初めて、自分の子供、孫の世代がやっとアメリカの良さを享受できるかもしれない(実際には何世であっても差別される)。アメリカのドリームや民主主義は、それくらい息の長いものやと思う。アメリカの良さを享受するなら、それだけの覚悟が必要ということ。

世界中には色んな国があって、苦しさから、覚悟を持ってアメリカに憧れる人たちはいっぱいいるやろう。アメリカに憧れてる日本人には、その覚悟があるやろうか。僕には、そんなふうには到底思えない。豊かで便利でそれなりに公明正大な日本という国に生まれて暮らしていて、そんな覚悟をしてまでアメリカに憧れる理由があるとは普通は思えない。

覚悟の無いまま高校生みたいにアメリカに憧れている人たちは、見ていてちょっと滑稽に思うし、社会全体でそういう人が多い状態はやはり少し問題があると思います。

ベトナムの友人と桜木町で飲み交わした(昨日の)思い出

7年来の友人であるベトナム人女性と、昨日、数年ぶりに会った。ベトナム人と聞いて、多くの人は何を思い浮かべるやろうか。近年急増している留学生、コンビニの店員、技能実習生。ベトナム戦争。旅行と、フォーと、バインミー

その女性は最近、2冊の小説を出版した。合計で8000部刷られたといった。日本で8000部というと、私家出版のようなごく小規模な本という位置づけになるけど、それは日本が世界的にも稀有な出版大国やからにすぎない。例えばジュンク堂のような巨大書店チェーンを、日本以外の国で見かけたことがやろうか。たまたま目につかないのではなく、欧米ですらそれは存在していない。ましてあらゆるものが発展途上のベトナムで、8000部刷られれば立派な一流の本と言える。

僕は知り合った当初から、彼女が目を見張るような独特な人間であることに魅了されていた。女性は決してタバコを吸わないあの国で、彼女は僕を職場のソファに座らせるなり堂々とタバコを取り出し火を点けて、ひとしきり煙を燻らせてから初めて口を開いた。「で、どういう話が聞きたいの?」。僕は当時、交換留学生としてベトナムに滞在していた。研究テーマの資料集めで彼女のところにたどり着いた。僕は出されたお茶をすすりながら、タバコを吸う彼女を眺めていた。

彼女は漢字を読めて書ける。日本語と同じように、ベトナム語の語彙の多くは中国語由来である。でも現代のベトナムはアルファベット表記を採用して半世紀以上が経ち、普通の市民が漢字を書けないどころか、お寺の掛け軸すら日本人の肥えた目にはお粗末に見える。そんな国から政府の研修で日本へやってきた彼女は、僕が「今日は月食だ」と言えば、李白の詩を送り返す。「床前明月光, 疑是地上霜。 舉頭望明月, 低頭思故鄉。」日本に来て一人で月を見ている私にぴったりの詩だ、と。

彼女は1974年生まれだという。ベトナムにとっての20世紀は休む暇のない激動の連続で、1974年以降もまた同様やった。1976年に長い長い戦争が終わって国が統一されたけれど、その主体となったのは共産党政権で、本格的な社会主義政策が人間の生活に押し寄せた。1980年代には限界に達し、1990年近くになってついに市場経済制度が導入される。その15年間の中に、彼女の幼少期と青春時代がすっぽりと収まる。市場経済の到来と同時に、彼女は大人になった。

彼女の幼年時代は、本当に赤貧を耐え忍ぶ生活やったらしい。物資も食料もない。もともとはベトナム中部の地主として豊かな家系でありながら、共産党政権が急進的な土地改革をやった際に資産は全て取り上げられた。彼女は幼少期、一ヶ月の間たった一着の服だけを来て過ごしたという。そんな生活しか知らない子どもにとっては何も辛くなかったけれど、思い返せば父母が気の毒だという。子どもに満足な暮らしをさせてあげられず、本当に辛い思いをしていたに違いない。ベトナム人は戦争の時代を耐え忍び、やっと大国から勝利を勝ち取ったと思ったら、今度は自分たちの政策の間違いが生み出した困窮を耐え忍ばなくてはいけなかった。本当に辛かった。

僕の仕事やこれからの人生のプランについて話題が及ぶ。僕がアメリカからすぐに帰ってきたことを、彼女は知っている。アメリカはえげつない国やった、と自然に話し始めると、彼女は彼女なりに理解を示してくれる。「知ってるよ」、たしかにアメリカ人やヨーロッパ人は、自分たちが最も優秀で正しいと思っている。彼女は建築士としてベトナム政府の研究所で都市計画を行っていて、もう何十年もの経験と知識がある。でも外国の大学に研修に行ったりすると、現地のヨーロッパ人は彼女を必ず見下すという。一人のベトナム人専門家と一人のヨーロッパ人専門家がいて、ふたりとも同じことを言っていたとすると、ベトナム人の言葉にはみな半信半疑で耳を傾けるけれども、ヨーロッパ人の言葉には納得して頷く。同じことを言っているのに。ベトナム人自身さえも、外国人アドバイザーは実際には何もしないのに、ただその人がチームに入っていることで安心する。

何かの拍子に、「でも」、と彼女は言う。「ベトナム人だったら、きっとどんなに辛い経験をしても、耐え忍んで耐え忍んでやり抜いたと思う」。

日本語ですら表現が難しい上にベトナム語能力の制約もあり、彼女に対して僕は、アメリカでの経験や感じたことについて、全てのニュアンスを伝えきれていない。伝えきれていないまま、「あなたには耐えられなかったけど、ベトナム人なら耐えたと思う」と言われることに、本来なら声を張り上げて真っ赤になり怒っていたやろう。でも彼女の話す幼年時代の思い出があまりに悲惨で、またそれは歴史の本で読んでよく知っていることでもあるので、覚えず僕は素直に言ってしまった。「そうかもしれない」。ベトナムの歴史を知っていると、自分がつらい経験をしたなどとは、簡単には言えなくなってしまう。この世でこれ以上辛い歴史を経験することなどないんじゃないかと思えるくらい、ベトナムはパーフェクトな辛苦を生きてきた。ヨーロッパの大国フランスに植民地化され、アジアの帝国日本に占領され、20世紀の世界帝国アメリカに焼き尽くされ、それらを根気強く順番に打ち破ったかと思ったら、今度はユートピアの思想である共産主義が壮絶な貧困をもたらした。こんな国が他にあるやろうか。

その歴史は、ベトナム人の鼻持ちならない自信にもつながっているように思う。その一方で、ベトナムはときに極度に柔軟な性格を見せることがあって、観察者を混乱させる。東南アジアで正式にLGBTを容認した最初の国であり、アメリカが抜けた後のTPPを声高に推進する奇妙な社会主義国でもある。だからといって、ベトナム社会主義でなくなっていくわけではない。これからも長らく、社会主義共和国であり続けるやろう。

ベトナムへの興味は絶えない。何とかして、ベトナム研究をやる道を見つけたいものである。

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