なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

安田祐輔「暗闇でも走る」を読んで考える

去年の冬から、とあるベンチャー企業で仕事をさせてもらってきました。それもこの5月で契約満了で終わりとなります。

その会社の社長が本を出版したので、読みました。

honto.jp アンチ・アマゾンでhonto.jpのリンク。公告ではないです。

概要にあるとおり、著者の安田さんは幼少期いらい壮絶な三重苦・四重苦を経験してきた方です。この本は、それら一つひとつをどのように乗り越えてきたのかを記したものです。

同時代を生きること

安田さんに比べればずっと恵まれた家庭に生まれ、たいした苦労もなく育ってきた自分にとっては、この本に書かれてるような苦境はあまりにも遠い世界のことのようであり、またそれが自分と同じようなごく普通の場所で同時代的に起きていたということに不思議な感覚すら持つ。

例えば安田さんにとっての転機の一つだった9.11とそれに続く戦争。その歴史的事件について僕自身が持っている個人的な記憶というのは、中学1年生のある晴れた日、自宅に帰ると母がいて、リビングルームでテレビがついている。掃除がされた後らしき清々しい空気が部屋に充満していて、広く取られた3方向の窓から午後の日差しが明るく差し込んでる。そのなかでテレビから、貿易センタービルの映像が繰り返し流れていた。歴史的な事件であることはわかったけれど、幼く、平和に暮らす自分にとって、それは平凡な日常の中の一つの事件でしかなかった。(9.11が起きた日本時間をいま調べてみて、当時18時間くらい事件を認識せずに過ごしていた事がわかり少しショック。)

その同じテレビ映像を見ながら、当時18歳の安田さんは、苦しんできたそれまでの自分がそれでも生きるということの意味を問い、「なにか」をすることで意味のある人生にしたいと決意し、そして浪人を経て大学時代の活動までつながる道を辿り始めた。

「辿り始めた」と簡単に言ってしまえば簡単に聞こえるけれど、偏差値30から東大を目指して猛勉強をするために、毎日公民館の自習スペースで自分の脚を椅子に(文字通り)縛り付ける生活を始めた、ということらしい。そのころ僕は、中学校で思春期らしい人間関係の悩みを生きて、部活を辞めたり、テレビゲームをしたり、英語の勉強にはまったりして、平凡に暮らしていた。

同時代を生きるというのはまさにこういうことなんやと、不思議な感覚を覚える。

何が突き抜けていたのか

とはいえ安田さんのような恵まれない環境は、その部分的なものであれば経験している人は多くいるはず。そのなかで、安田さんだけがここまで突き抜けて、一つの意味ある事業をこうやって軌道に乗せることが出来たのは、何が違ったんやろうか。

一つ思ったのは、「うえに上がるために何かをする」というときに選びうる方法として、「勉強する」という古典的な選択肢がその古典的な威力を遺憾なく発揮したんやろうか、ということ。つまり、方法の選択が正しかったんではないか、ということ。

これは自分自身の経験からも感じることやし、安田さん本人からも似たことを聞いたので間違いないはずやけど、論理的な思考や知的な体力というのは、訓練によって圧倒的に伸ばしていくことができる。安田さんが壮絶な受験勉強を2年間も続けたということを本で詳しく知るに及んで、その期間が安田さんにとって、単に受験のための知識だけでなく総合的な知的体力を伸ばすためのすごく大切な期間に(結果的に)なったんじゃないかと想像した。一緒に仕事をさせていただく中で、安田さんが本当に知的で、頭の回転が速く、理性的で論理的なことを感じてる。テンポが速いのでついていくのが大変。

塾を経営するためには、社会にどんなニーズがあるのかを的確に把握して、それを数字に落とし込んで考え、多様な人間と円滑にコミュニケートしながら構想を練り上げて、それを現実の制約の中で具体的に実行していかないとあかん。大変な知的能力が求められるし、自分には到底できない。一緒に仕事させてもらうなかで、この人がそれをこれまで見事に続けてこられたのは大いに納得、という感じがしている。そしてその地盤は、受験勉強を含む高負荷の勉強のプロセスの中で克己的に鍛えてこられたんではないやろうか。

「うえに上がる」と決意したときに、特定のスキルを身につけようと思う人もいるやろうし、芸術方面で一発あてるのを目指す人もいれば、まずは地道にお金を貯めようと考える人もいておかしくない。どんな選択肢を選んでも間違ってるわけではない。ただ、大昔から多くの人が選んできた「勉強で頑張る」という選択肢は、大昔も今もやっぱりそれなりに有効なものなんやろう。それを地で行っているのがこの人なんやな、という印象を得た。

だからこそ、その仕組みを再生産することそれ自体を事業目的としているこの会社は、正しいのかもしらん。この点について正直に言ってしまうと、「何度でもやり直せる社会を作る」ことをミッションとしながら、手段を勉強に限定していることについては、かつては釈然としない印象を持っていた。他にもいろんな「やり直し」があっていいのでは?と思っていた。でも安田さんの来歴を詳しく知るに至って、大いに納得させられた。

のほほんと育った自分、壮絶な生い立ちの著者。その間に通底するもの

同時代を生きながら、自分とは全く違う世界がそこにあった、と書いた。

でも実をいえば、(これは周囲の人間からは賛同を得られないやろうけれど、)自分も自分なりに生きづらさを抱えてきたのであって、この本を読みながら自分の経験と通底するものを幾つも感じた。壮絶な生い立ちの安田さん本人の前では到底言えないけれども(とはいえ多分これを読んでいるので言ってしまったのと同じことになるけど)、人間一人一人の経験は量的に(どっちのほうがより大変か、というふうに)比較できるものではなく、それぞれの質的な(固有の)経験こそが大切やと思うから、自分の経験を振り返りながらこの本を読んで、自分と著者との間に通底するものを見出すことは、間違っていないと思う。たとえ自分がどれほど恵まれた環境に育ったとしても。(そして、このことを安田さん自身はきっと認めてくれると思う。)

安田さんの言葉の中で、特に自分の思いを見た気がしたのは、「意味ある人生にしてやる」という悲壮なまでの決意。

彼の人生が大きく転換し始めたタイミングには、二つのモノがうごめいていた。まず一方では、18歳までの過酷な生い立ちと、その中で人間への信頼を失い、「自立したい」と思ったこと。他方で、「意味のある人生を生きたい」と思い、その頃たまたま世界の惨状を目にして、何かしなければいけないという使命感が降りた。安田さん本人から否定されるかもしらんけど僕が読んで感じた印象は、この前者と後者が、実は直接的には繋がっていないということ。(最終的にキズキ共育塾を運営するに至って、直接に繋がった。)にもかかわらず、強い使命感で猛烈に勉強し、活発に活動した。

この「繋がってなさ」と「猛烈さ」には既視感がある。

(周囲の人間から賛同は得られないやろうけど←くどい)自分自身が、安田さんには全く及ばないながらも、そこそこ猛烈に頑張ってきたという意識があって、それはこのブログで詳しく書いてきたことでもある(読むのが極端に遅くて、それをカバーするために必死にやってきたけど、そもそも他人より極端に遅いということ自体に気づくのに29歳までかかった)。

また一方で、なぜ自分はそこまで頑張るのか?と問われれば(実際、親しい友人からは時々問われる)、それは中学3年生の時にひとり静かな部屋で「意味のある人生にしたい」と心で泣いていたことから全てが始まってる。暴力を受けたわけでもなければ、貧困にあえいだわけでもないし、誰かにいじめられたわけでもないけれど、当時の自分には(今の自分にも)人生が非常に無意味なものに思えて、かつそれに耐えられず、自分で意味を作ろうと強く思った。一般的な思春期がどうなのかは知らんけど、人生が無意味なものと感じることは多くの人が経験してるやろうし、何かを成し遂げようと思うことも多くの人が経験してるやろう。たぶん自分が他の人と違ったのは、(1)無意味であることに耐えられなかったことと、(2)意味を作ることでその問題を解決しようというモチベーションがいつまでも持続したこと、の二つなんやと思う。

平和で不自由のない生い立ちから考えれば、あまりに唐突で、「繋がっていない」。

こういう意味での「人生への態度」が、安田さんと自分との間でかなり通底しているように感じた。その背景になっている量的な意味での苦労の度合いは全く比較にならないけれども、ある面で、質的な経験としては共通性があるように思う。

共通性の原因を探る

この共通性について、それの背景となる何らかの原因や仕組みを勘ぐることは、可能やと思う。安田さんのような比較対象と見比べながら考えたことはなかったけど、これまでずっと考えてきた中で自分の息苦しさの原因かなと可能性を疑ったのは、

  1. まず単純に、「時代」。バブル崩壊とほぼ同時にこの世の中に生まれてきて、自分よりも上の世代とのあいだに圧倒的な物質的・思想的断絶があったこと。
  2. 時代という切り口とも関わるけれど、「文化の混交性」。アメリカ的な価値観を受容してきた自分の親世代と、それを歪な形で引き継いだ自分との間の葛藤。(→これが人類学的な研究関心へと直結している。)
  3. そして最後に、つい1年前に初めて気づいたこととして、「発達障害」。人生の意味といった曖昧な問題について突き詰めて考えてしまうこと、それに対して論理的な答えを求めてしまうこと、意味があるか/ないかの「全か無か思考」に陥りがちなこと、思い込んだらやめられないこと、そもそも人間関係が希薄なため社交の中に生きがいを見つけにくいこと、など、発達障害の特性に照らして考えれば「生きる意味を作る決意」はもっともな帰結とも言える。

1の「時代」については、いみじくも安田さん自身がはっきりと意識していることでもある。ひきこもりや不登校、ひとり親世帯といった社会問題は、安田さんが子供の頃には全く認知されておらず、大人になってから初めて「あぁ、あの頃の自分の経験は、その後おおきく社会問題として認知されるに至る状況の典型的な事例だったんだ」と気づいたという。ひきこもり・不登校・ひとり親世帯という具体的な観点では自分には当てはまらないけれども、それを大きく「時代」という形で切り口を広げてみれば、やっぱり自分も時代の潮流にしっかりと動かされていたのかもしらん。そう考えてもおかしくない。

2については、10年後くらいに、研究の成果として何かの発言をできれば嬉しいと思ってる。

3については、何でもかんでも安易に「発達障害やから」と(冗談はさておき真剣に)言ってしまうことは慎むべきやと思うのでなるべく控えたいが、安田さん本人が発達障害の傾向を持っていることからも妥当な気がしてる。

まとめ

というわけで、この本を読みながら自分の経験に引き付けて感じたことを書いてきた。纏めるとそれは「時代(同時代性)」、「勉強することの偉大さ」、「発達障害の生きづらさ」の三つということになりそう。

ただ、あくまでこれは「自分の経験に惹き付けて感じたこと」の範疇に収まるものだけを書いたんやと、よく記しておきたい。この本の内容が触れている社会問題や人生経験の機微はほんまに幅広くて、読む人それぞれで全く違うメッセージを受け取ることになると思う。自分には経験の厚みが足りなくて理解しきれてない箇所も、たくさんあると思う。なにかキーワードが引っかかったら、ぜひ読んでみてほしい本です。

なお本の内容から離れて一言だけ。キズキで仕事をさせてもらったこの半年間は、自分にとって、(同僚やクライアントには失礼になってしまうけれど)とても貴重なリハビリの期間となった。去年東京にやってきた時点での心理的脆弱性と怯えた表情からは、考えられないほど元気に回復した。本当に助けられた。

また経済的・心理的に安定することができたこの期間をうまく活用して、自分にとっての「やりなおし」も無事に駒を進めることができた。キズキで働いている人は、そこで働くことそれ自体がその人にとっての「やりなおし」であることが多い。自分も幸い、その輪に入れてもらうことができた。働かせてくれたことに大感謝。

発達障害を作るのは社会か自然か

「ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか」という本を読んだ。ADHDという「障害」をめぐる科学史(医学史)の本。

ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか

ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか

 

 著者はイギリス人。自分自身が子供のころ「多動」だったが当時は「やんちゃ」くらいにしか思わなかった。その後、科学史の研究の過程で多動の少年と出会い、また息子が多動であることからこの概念について考えるようになって、ADHDについてのこの研究を書いた。

要旨

今日、ADHDという概念は世界中で用いられているけど、それは1950年代からアメリカに生まれ出て、20世紀末に近づいて初めて世界へ輸出された。いま日本で主流の理解は、「ADHDとは、脳の神経学的な器質に起因しつつ、環境要因と器質要因との相互作用によって生活上の困難として表出する、行動の特性」というもの。でも歴史的には、複雑な変遷を経て発展してきた病理概念である。

ひとつの背景は、1950年代、60年代の始まりの時期において、アメリカが科学技術立国を盛んに目指したこと。時代は冷戦真っ只中で、57年にはソ連スプートニクを打ち上げた。国民の知的・科学技術的水準に危機感を持った政府や専門家が、学業的に不振な一定の集団を問題化し、対処すべき病理としてこれを概念化した。それが、今日のADHDにつながる「多動・注意欠陥」の端緒。

アメリカでの多動概念の発展に寄与した別の背景は、多動の治療に効果があるとされた薬(リタリン)を販売する製薬会社の努力。製薬会社は、医師や学校やPTAに働きかけ、薬と一緒に「多動」概念それ自体を売り込んだ。

この本が指摘してるもうひとつの背景は、精神科医療の3つの派閥の間の主導権争い。まずユダヤ人の米国移住に伴ってアメリカで隆盛を誇った、フロイトから始まる「精神分析」、つぎにミシェル・フーコーに代表される、社会が病理を作り出すと考える「社会精神科」、そして精神は生物としての身体や神経学的な脳の機構に根拠付けられるとする「生物学的精神科」。精神分析は、「エセ科学」という誹りに脆弱で、自分自身に科学的な権威を与えることを常に渇望していた。社会精神科は、階級や環境を問わず多動症状が観察されることを、説明できなかった。そして、薬を使うことで多くの「患者」をマス規模で「治療」できる生物学的精神科が、権威を獲得していった。

しかし、そうやってアメリカで発展した生物学的なADHDの概念は、他の国に輸出される段になってみると、各国が病理について考える時に持っている価値基準の違いに応じて変化していった。アメリカにおけるADHDと全く同じものとしては普及しなかった。普遍・唯一のものとしてのADHD概念は疑わしい。社会的な環境要因や親子関係や食品添加物が、神経学と同じくらい関係しているし、またADHDの裏返しである教育的な要求も、重要な要素である。

筆者の主張はそういうことです。

日本の状況に照らすと

日本の専門的な医学書では、生物的側面と社会的側面とが並列的に強調されていて、この本の考えとかなり近いADHD理解が主流やと思う。しかし一方で、もっと一般の人口に膾炙したADHD理解においては、それは脳神経学的な器質であるという考えが比較的優位にあると思う。世界のどこの国でもそうであるように、日本では、「科学」的な専門知への信頼が厚く、「一般人」は自分たちにわからない化学や生物学といった「科学者の知識」を信奉していて、場合によっては盲信にもなりがち。他の国よりも、日本は特にその傾向が強いかも知らん。

つまりADHD(やその他の発達障害)は、恐らく、半分は生物学的なものであり、半分は社会的なものである。単に生物学的な器質にのみ着目していては見えてこないものがあり、この本はその見えにくいものをはっきりと見るための案内のようなものです。

結論の章から印象深い一節を引用する。

私の学童期には、慎重に使用されていた「革ひも」の脅しが、確かにほとんどの時間、私が列から離れないようにするのに効果的であった。このような体罰が今日おこなわれると、それは一般には身体的虐待とみなされるし、そのことは正当なのであるが、このために子どもと大人の間の関係のバランスがいくぶんか変化した可能性はある。たぶん多動症のような障碍の一部は、そのバランスを埋め合わせるために生じたのだ。その結果大人は物理的ではなく生物化学的に子どもを統制するようになった。それはトラジンのような抗精神病薬が化学的拘束衣として使用されたのと同じ措置である。(P285。強調は僕) 

ガラガラと崩れる昔の社会と、急速に立ち上がる新しい社会

以上は本の紹介。以下は僕自身の見解。

ADHD(やその他の発達障害)は、社会の変化によって生まれ出てきた。それは間違いなく事実やと思う。例えば、僕の知ってる70歳近いある男性は、恐らく発達障害やけど決してそれを認めようとしないやろう。「精神医療なんて、捏造や」(抄訳)とよく口角泡を飛ばして言っている。それはある意味ではそのとおりであって、実際、彼は生まれてから彼なりにうまく(?)生きてきて、ある種の社会的なステータスも獲得した。かつて成功者やったのに、急に「障害」なんて呼ばれても、「ふざけるな」と思うのが自然やろう。

でも時代が変遷して社会が変化して、周囲の環境がかつて個人に対して求めていた資質・行動・能力の基準がガラガラと崩れ去り、新しい基準が急速に立ち上がっていっているのが、この現代という時代。かつての基準の中で成功した彼は、昔築いた努力の術や成功の方法の枠内でしか物事を考えられない。そのとき彼の器質的な特性が、新しい世の中で、かつて上手くいったほどには見事な適応ができない。昔なら発達障害とは呼ばれなかった単なる性格・人格が、今の時代に発達障害と呼ばれるのであれば、それはごくシンプルに言って「社会の変化が生んだ障害」というべきやろう。

しかしその一方で、「発達障害? あぁ、世の中が変化して、昔は普通のことやったのが、今どき変な名前をつけるよね」とか、「俺が『障害』? 俺が障害やとしたら、いったい障害っていう言葉はどういう意味なんや」とか言って片付けてしまうことは、全力で阻止しなければならない。時代が変化して初めて誕生した「障害」は、だからといってそれが虚構であるわけでは決してない。今の時代が今の時代であることは厳然たる事実であって、そのなかで生きづらさを感じるある種の特質がある限り、それは障害として認知され、配慮され、理解されていくべきもの。昔はどうだったか、は関係ない。僕たちが生きているのは今の時代やから。

絶対に忘れない言葉

その男性はもう70歳近くて、「障害」なんて言葉をいきなり受け入れるには歳を取りすぎたかも知らん。本人がストレス無くやっていけることが一番大事やと思うから、無理に押し付けるものではない。でも僕は、とある人に対して全力を尽くして状況と気持ちを説明し、協力を求めたときに、その人から言われた言葉を一生忘れない。

これまでの人生で誰にも知られず生きづらさを感じてきたこと。それが生きづらさであることすら知らなかったこと。その困難が具体的な問題へと結晶化してアメリカの大学院でつらい経験をしたこと。焼き捨てるように帰国した後、自分で勉強しつつ医者も頼り、その経験を医学的に根拠付けたこと。そして、それらすべてを踏まえて、自分の特性を把握しながら改めて再チャレンジしたいこと。そのために「あなた」に協力してほしいこと。それら全てを一通の手紙に込めて送った相手は、こういうメールを返した。

発達障害は、社会の変化で、いままで「障害」とは考えられていなかったことが「障害」と見なされる面があると理解しています。XX君に適した勉強の仕方、生き方があると思いますので、気持ちを強く持ってください。Y田(~~にて)

気持ちを強く持ってください? 適した勉強の仕方がある? 最大限の力を振り絞って、自分を強く保つことによって、今この手紙で説明したプロセスを踏んできた。そしてこの手紙を送ること自体も、気持ちを強く持とうと力を振り絞ってるからこそ出来ること。「社会の変化で障害とみなされるようになった側面がある」なんて、そんなこと、百も承知や。それらを全部踏まえたうえで、こうやって相談してる。知ったようなことを言って、有耶無耶に済ませるな。協力を断るなら、はっきりと断ればいい。ふざけるな。

「社会の変化によって生まれた概念」と言って済ませてしまうことは、その本人の持ってる内面的な苦悩や、どうしようもない生物学的な制約を、根本から無視してしまうことになる。いかいも学者っぽい「知的」で「物分りの良い」そういう考え方が、世の中の言説の裏に隠された真実に気づいているといった視線を上から投げかけることで、自分を非当事者として特権化し、当事者の苦悩を顧みないための「正当な」理由を自分に与える。

 

僕は発達障害の社会的な側面を否定するものではないです。でも同時に、生物学的な側面も決して忘れたらあかん。発達障害の仕組みはまだ確定的な解明に至っていないけれど、今のところの人類の持っている知識では、おそらく社会と生物の両側面から複合的に出来上がっている特質です。そのバランスを忘れないようにしたい。

と、科学論的には陳腐な結論。でもそれでいいんです。

アメリカに憧れていた高校生の夢と、人類学の本を読んだ今晩との間の距離

高校2年生のとき、アメリカかカナダの大学に行ってみようかなと真剣に考えた時期があった。英語の世界に漠然とした憧れがあって、高1の夏休み1ヶ月間バンクーバーの語学学校に通った経験も夢を膨らませた。そもそも中学に入ってから英語の勉強が趣味みたいになっていたから、身につけたものを使って開ける未知の世界が眩しかったんやろう。

その頃よく考えていたことがある。小さいうちにアメリカへ渡ったり、高校生くらいで交換留学に行ったような人たち、いわゆる帰国子女という人たちは、あのアメリカ独特のイケイケの英語を身に着けて帰ってくる。日本にいてはなかなか身につかないあのイケイケさ。留学するならぜひあれを身に着けたいものやし、逆にあれが身につけば留学に行った甲斐があったというもの。そんなことをたぶん考えていた。あのイケイケさが、僕にとっては英語世界の象徴のような存在であった。

でも実のところ、あのイケイケさはそれ自体が礼賛の対象であったというよりは、むしろそれを日本へ持ち帰ってきたときの、もしくは日本人の日本語英語と比較したときの、その圧倒的な差異にあった。周囲の人との比較において誰の目にも明らかなあの際立ちにこそ、イケイケさのイケイケたる所以があった。

だからそのイケイケへの憧憬は、青年の単なる夢というのと同時に、自己愛と直結した少し醜い欲望でもあった。

自分のなかの自己愛と欲望に気付きながら、僕は周囲との軋轢を極力抑えて平穏に暮らすべきやとも思っていた。そこで、こんなふうに考えた。留学してイケイケが身に付いても、たぶん日本ではおとなしく、控えめに振る舞うかな。イケイケは身につけたいけど、でも帰国時や日本人と話すときは、相手にドヤドヤすることなく慎み深くあろう。つまるところ僕は、和を尊ぶ立派な日本人やった。

イケイケを身に着けていながら、同時に慎ましい日本人の顔も失わない。その2つの共存に僕は特段の疑問を感じていなかった。少し器用さが必要ではあるにしても、べつに十分可能やろうと思った。アメリカでも日本でも等しくイケイケに振る舞う帰国生たちは、たぶん、単にそれが好きなんやろう。どういう振る舞いをするかは、自分自身の選択の問題にすぎひんはずや、と。高校生の僕はそう思っていたし、それから10年以上経ったつい最近まで、僕はずっとそう思っていた。

[R]ace relations in North America involve a blend of assimilationist efforts, raw prejudice, and cultural containment that revolves around a concerted effort to keep each culture pure in its place. Members of racial minority groups receive a peculiar message: either join the mainstream or stay in your ghettos, barrios, and reservations, but don't try to be both mobile and cultural.

R. Rosaldo. 1993 [1989]. Culture and truth: the remaking of social analysis. Beacon. p212. (Amazonアソシエート)

北米における人種間関係の中心にあるのは、新参者を同化させようとする努力、露骨な偏見、そして、それぞれの文化をそれ自身の場所に純粋な形で留めさせようとする、四方八方からの封じ込めである。人種的マイノリティに属する人間は、社会から発せられるメッセージに困惑することになる。「メインストリームに合流するか、そうでなければお前のゲットー、居住区、または保護区から出てくるな。自由に出入りできて、しかも自分たち自身の文化を維持しようなどとは考えるな。」

(私訳)

これはふた昔ほど前の世代に属する、人類学の有名な本の一節。著者はヒスパニック系アメリカ人で、アメリカ文化人類学会長も務めた人です。

アメリカの社会文化は、自分自身の中に異文化を内包することを許容できない。どれだけ移民を受け入れ、どれだけ世界中のすべての人間にとっての夢の国であったとしても、同時に厳然としてアングロサクソン系の主流文化への同化を要求する。それを拒む者にはゲットーを与え、居住区を与え、保護区を与え、主流社会とは隔絶した空間のなかに封じ込める。ちゃんとした(一流の)大学に属してそのなかで成功することを目指しながら、しかも同時に日本的な/発達障害的な文化(広義の)を保って暮らそうとする人間を、アメリカは許さない。日本人でいるか、アメリカ人になるか、どちらかを選べ。そう迫ってくる。

だからアメリカに留学した「帰国子女」がイケイケになって帰ってくるのは、アメリカ社会がそれを求めたから。アメリカにて社会的に幸福に生きるために、必死でイケイケにならざるを得なかった。本人がどう自覚していたかは別にしても、そういう仕組が背景にあってこそ、アメリカに留学した人はみんなイケイケになって帰ってきたんやったんや。「イケイケを身に着けても、日本では慎ましくいればいい」とか、「自分は慎ましさを選択する」という問題ではない。慎ましい日本人としての人格を半ば放棄しなければ、アメリカではまともに暮らしていけない。そこに「選択」の余地はない。

これは高校生の青年には到底わからなかったし、オジサンに近い年齢になってもやはりわからなかった。でも実際に現地で、その脅迫めいた選択の強要に直面してみると、どんな疑念も浮かぶ余地がないほどスッと、あぁこの国はこういう国なんやと理解できた。まるで麸に吸い物が染み込むみたいに、自然なことに感じられた。そして当然、それによって排斥されたという感覚は確固たるものとして自分の中に沈着した。

今でもよく、アメリカに憧れている人を身の回りに見かける。別に個人個人が何に憧れようと勝手やからいいんやけど、日本全体で見ると、明らかに一種の(慢性的な)社会現象といえる。

アメリカがどれだけ民主主義の国であっても、どれだけアントレプレナーシップの国であっても、どれだけドリームと物質的豊かさの国であっても、その良さだけをいいとこ取りして享受することはできないのです。

それを享受したければ、あなたはアメリカ人になるしかない。

日本人でありながら、1年や2年だけ体験的にアメリカの良さを享受するというようなことは、アメリカ人たちが決して許さない。許さないというのは無視するとか助けないとかではなくて、積極的に排除し排斥しようと図るし、そのためにならば暴力も厭わない。

そしてもし仮に、アメリカ人になることを目指してもいいからアメリカの良さを享受したい、と思ったとする。すると、たぶんあなた自身の人生のうちに、その享受の瞬間は訪れないと思います。アメリカに住み着いて、家族を作って、子どもを育てる。それで初めて、自分の子供、孫の世代がやっとアメリカの良さを享受できるかもしれない(実際には何世であっても差別される)。アメリカのドリームや民主主義は、それくらい息の長いものやと思う。アメリカの良さを享受するなら、それだけの覚悟が必要ということ。

世界中には色んな国があって、苦しさから、覚悟を持ってアメリカに憧れる人たちはいっぱいいるやろう。アメリカに憧れてる日本人には、その覚悟があるやろうか。僕には、そんなふうには到底思えない。豊かで便利でそれなりに公明正大な日本という国に生まれて暮らしていて、そんな覚悟をしてまでアメリカに憧れる理由があるとは普通は思えない。

覚悟の無いまま高校生みたいにアメリカに憧れている人たちは、見ていてちょっと滑稽に思うし、社会全体でそういう人が多い状態はやはり少し問題があると思います。

ベトナムの友人と桜木町で飲み交わした(昨日の)思い出

7年来の友人であるベトナム人女性と、昨日、数年ぶりに会った。ベトナム人と聞いて、多くの人は何を思い浮かべるやろうか。近年急増している留学生、コンビニの店員、技能実習生。ベトナム戦争。旅行と、フォーと、バインミー

その女性は最近、2冊の小説を出版した。合計で8000部刷られたといった。日本で8000部というと、私家出版のようなごく小規模な本という位置づけになるけど、それは日本が世界的にも稀有な出版大国やからにすぎない。例えばジュンク堂のような巨大書店チェーンを、日本以外の国で見かけたことがやろうか。たまたま目につかないのではなく、欧米ですらそれは存在していない。ましてあらゆるものが発展途上のベトナムで、8000部刷られれば立派な一流の本と言える。

僕は知り合った当初から、彼女が目を見張るような独特な人間であることに魅了されていた。女性は決してタバコを吸わないあの国で、彼女は僕を職場のソファに座らせるなり堂々とタバコを取り出し火を点けて、ひとしきり煙を燻らせてから初めて口を開いた。「で、どういう話が聞きたいの?」。僕は当時、交換留学生としてベトナムに滞在していた。研究テーマの資料集めで彼女のところにたどり着いた。僕は出されたお茶をすすりながら、タバコを吸う彼女を眺めていた。

彼女は漢字を読めて書ける。日本語と同じように、ベトナム語の語彙の多くは中国語由来である。でも現代のベトナムはアルファベット表記を採用して半世紀以上が経ち、普通の市民が漢字を書けないどころか、お寺の掛け軸すら日本人の肥えた目にはお粗末に見える。そんな国から政府の研修で日本へやってきた彼女は、僕が「今日は月食だ」と言えば、李白の詩を送り返す。「床前明月光, 疑是地上霜。 舉頭望明月, 低頭思故鄉。」日本に来て一人で月を見ている私にぴったりの詩だ、と。

彼女は1974年生まれだという。ベトナムにとっての20世紀は休む暇のない激動の連続で、1974年以降もまた同様やった。1976年に長い長い戦争が終わって国が統一されたけれど、その主体となったのは共産党政権で、本格的な社会主義政策が人間の生活に押し寄せた。1980年代には限界に達し、1990年近くになってついに市場経済制度が導入される。その15年間の中に、彼女の幼少期と青春時代がすっぽりと収まる。市場経済の到来と同時に、彼女は大人になった。

彼女の幼年時代は、本当に赤貧を耐え忍ぶ生活やったらしい。物資も食料もない。もともとはベトナム中部の地主として豊かな家系でありながら、共産党政権が急進的な土地改革をやった際に資産は全て取り上げられた。彼女は幼少期、一ヶ月の間たった一着の服だけを来て過ごしたという。そんな生活しか知らない子どもにとっては何も辛くなかったけれど、思い返せば父母が気の毒だという。子どもに満足な暮らしをさせてあげられず、本当に辛い思いをしていたに違いない。ベトナム人は戦争の時代を耐え忍び、やっと大国から勝利を勝ち取ったと思ったら、今度は自分たちの政策の間違いが生み出した困窮を耐え忍ばなくてはいけなかった。本当に辛かった。

僕の仕事やこれからの人生のプランについて話題が及ぶ。僕がアメリカからすぐに帰ってきたことを、彼女は知っている。アメリカはえげつない国やった、と自然に話し始めると、彼女は彼女なりに理解を示してくれる。「知ってるよ」、たしかにアメリカ人やヨーロッパ人は、自分たちが最も優秀で正しいと思っている。彼女は建築士としてベトナム政府の研究所で都市計画を行っていて、もう何十年もの経験と知識がある。でも外国の大学に研修に行ったりすると、現地のヨーロッパ人は彼女を必ず見下すという。一人のベトナム人専門家と一人のヨーロッパ人専門家がいて、ふたりとも同じことを言っていたとすると、ベトナム人の言葉にはみな半信半疑で耳を傾けるけれども、ヨーロッパ人の言葉には納得して頷く。同じことを言っているのに。ベトナム人自身さえも、外国人アドバイザーは実際には何もしないのに、ただその人がチームに入っていることで安心する。

何かの拍子に、「でも」、と彼女は言う。「ベトナム人だったら、きっとどんなに辛い経験をしても、耐え忍んで耐え忍んでやり抜いたと思う」。

日本語ですら表現が難しい上にベトナム語能力の制約もあり、彼女に対して僕は、アメリカでの経験や感じたことについて、全てのニュアンスを伝えきれていない。伝えきれていないまま、「あなたには耐えられなかったけど、ベトナム人なら耐えたと思う」と言われることに、本来なら声を張り上げて真っ赤になり怒っていたやろう。でも彼女の話す幼年時代の思い出があまりに悲惨で、またそれは歴史の本で読んでよく知っていることでもあるので、覚えず僕は素直に言ってしまった。「そうかもしれない」。ベトナムの歴史を知っていると、自分がつらい経験をしたなどとは、簡単には言えなくなってしまう。この世でこれ以上辛い歴史を経験することなどないんじゃないかと思えるくらい、ベトナムはパーフェクトな辛苦を生きてきた。ヨーロッパの大国フランスに植民地化され、アジアの帝国日本に占領され、20世紀の世界帝国アメリカに焼き尽くされ、それらを根気強く順番に打ち破ったかと思ったら、今度はユートピアの思想である共産主義が壮絶な貧困をもたらした。こんな国が他にあるやろうか。

その歴史は、ベトナム人の鼻持ちならない自信にもつながっているように思う。その一方で、ベトナムはときに極度に柔軟な性格を見せることがあって、観察者を混乱させる。東南アジアで正式にLGBTを容認した最初の国であり、アメリカが抜けた後のTPPを声高に推進する奇妙な社会主義国でもある。だからといって、ベトナム社会主義でなくなっていくわけではない。これからも長らく、社会主義共和国であり続けるやろう。

ベトナムへの興味は絶えない。何とかして、ベトナム研究をやる道を見つけたいものである。

発達障害を自覚することは、自分を研ぎ澄ますこと。三つの具体的な、素晴らしい変化について。

自分が発達障害だと気づいた後のこの世界では、とても素晴らしいことがたくさん起きました。

「ラベルを得て安心した」というのはよくある話で、そういう段階は自分にもあった。でも本当に素晴らしいことはそこからもっと先に進んだ場所にあって、それは以前には想像すらできなかったようなことです。

三つのことについて書こうと思います。が、それら全てを敢えて一言で纏めるなら、「自分について理解が深まったことで、自分の能力と感覚が研ぎ澄まされた」ということのはずです。とはいえこの抽象的な要約だけでは、それがどれほど素晴らしいことなのかが伝わりません。その素晴らしさは、具体性の中に宿っています。

自分の「眼」への信頼

一つ目は、自分の「眼」には特別な何かが宿っていると知って、眼を頼りにして生きるようになったこと。特別な力が宿った眼を頼りにする生活は、豊かです。

無意識だった眼の力

眼を通って入ってくる情報を、僕は極端に高い解像度で捉えることが出来ている。一度通ったことのある場所は、たとえその風景の具体的な要素情報は記憶していないくても、その場所に存在している非常に細かな特殊性の集合を眼が覚えていて、二度目に通ればたいてい「一度通ったことがある」と分かる。風景のどの部分を覚えているのかは自分でも分からなくて、ただ単に眼が、「この場所を知っている」と教えてくれる。

眼が覚えてるのはおそらく道の角度、太さ、明るさ、背景となっている町並みの遠さ、並木の高さ、等の情報のようであり、したがって数年くらい時間が経って道路沿いの建物が入れ変わったりしても、眼の記憶には支障をきたさない。

対面して会話する人間が普段と少しでも違う表情を見せれば、その変化に気づくだけでなくて、その変化の背景にどういう文脈があったりどういう感情の変化があるのかが、分かる。それは直感的に分かる。推測や推論はしていなくて、ただ眼が教えてくれる。眼の力を発揮している場面はこの他にも日常生活の中に無数にある。

ドキュメンタリー映像を通して世界にアクセスする

発達障害について勉強した結果、この特性が自分の独自性なんやと自覚的になることができた。道を覚えることや相手の感情を汲み取ることは以前から得意やと知っていたし自覚の前後で大きな変化はないけれども、思ってもみなかった大きな変化があったのは、ドキュメンタリー映像を意識的にたくさん観るようになったこと。これまで眼の力を発揮させていたのは自分の両手が届く生活の範囲内やったけれども、今はその力を、両手の届かないもっと広い世界について画面を通して知り学ぶための手段として、全力で活かすようになった。

ドキュメンタリー映像を観るとき、僕は、たぶん他の人が同じ映像を観るときより何倍か豊富な情報をそこから引き出し、他の人にとってみればそこに写っていないはずの世界を、知り理解している。僕にとってのドキュメンタリー映像は、他の人にとっての小説なんじゃないかな。皆が小説を読んでやるように、僕は映像を観ることで、見知らぬ人の人生を覗き見、そしてこの世の無常を知り、人間社会の儚さを知る。文字の形で書かれた小説を読みながら想像を膨らませようとするよりも、僕には、人間の顔が写され、それに光があたって影ができ、被写体の表情が撮り手の挙動一つ一つに反応しながら劇的に変化していくのを観ている方が、何倍も何倍も感動する。そこには、人間社会や生と死についての示唆が無限に写り込んでいる。おそらく他の人には見えていないものが、僕には見えている。

だから僕は、ドキュメンタリー映像を見て世界について学ぶことにした。僕にとってこれは非常に効果的な情報チャンネルで、それは心に楽しく、頭に刺激的であり、余暇としてリラックスできる。だからNHKオンデマンドを契約して、興味のあるドキュメンタリーを片っ端から観ている。ドキュメント72時間にはほんまにお世話になっている。最近ディレクターが変わったっぽくてクオリティがガクッと落ち、落胆を隠せないでいる。

思えば昔から、本を読むなら小説よりエッセイが楽しめたし、いつもこれを公言していた。また過去に見た映画のなかで最も素晴らしいと思ったものは、The Act of Killingというドキュメンタリー映画であり、これ以外にわざわざDVDを買った映画はなかった。エッセイを楽しんでいたときもThe Act of Killingに感動していたときも、その楽しみは自分の「眼」の特別な力がもたらしてくれているのやとは、気づいていなかった。今はそれを知っている。ドキュメンタリー映像を観るという行為の中に、自分の能力の活躍の場があり、自分の愉悦の源泉があることを知っているから、僕はドキュメンタリー映像を観る。

演劇を観ることで自分を活躍させる

また同じように、僕は演劇を観る。肩と胸を微かに膨らませては縮ませている役者の呼吸が見えるし、目線の動きという完璧な演技が見える。役者が床に横たわったときの、裸足の足裏に張った筋肉の緊張が見えるし、その緊張が作り出す足裏の皺も一筋一筋が見える。役者と観客(自分)との間の、ほんの数メートルの距離が見える。その距離が演出によって見事ぶち壊される瞬間が見えるし、演出が失敗して距離が広がる瞬間が見える。

演出家、脚本家、役者、舞台、つまりまとめて演劇というのは、そういった細部への視線を求めてくれている。そういった視線を送ることができる「眼」によって初めて察知できる繊細さや完璧さや違いといったものを、舞台関係者全員が全力で追究している。だから僕は、演劇を見ることで自分の能力を活躍させられるし、そこに自分の愉悦の源泉がある。

以前は、演劇というものに不思議な魅力を感じていながら、その魅力との付き合い方を分かり兼ねていた。ときどき思いついたように劇場に行っていたけど、そんなに頻繁ではなかった。でも自分の眼の力に気づいた今は、信念を持って、全力で演劇を観る。知識はほぼゼロやし全くの素人と言っていいくらいやけど、でも演劇の細部への視覚的感性に限って言えば、演劇に対して目の肥えた玄人と同じくらいの鋭さを持っていると信じて、自分らしい観劇を全力で行う。

自分の「眼」が持っている力に全幅の信頼をおいて、それを通して意識的に世界へアクセスする生活は、非常に豊かです。自分だけの豊かな世界を、独り占めしている。

発達障害を持っている他人への洞察と共感

世界の構成要素としての発達障害

発達障害は、困った概念です。

発達障害の傾向が全くない一部の人にとっては、それが何なのかが全く分からない。

一方で、少しでもその傾向を持っている人というのは割合として非常に多くて、身の回りを見渡せばたちどころに発見できる。ではその本人たちにとっては分かりやすい概念なのかというと、実はそうでもなく、むしろ発達障害という言葉は本人たちの心をザワつかせる危険な概念です。多くの人が意識的・無意識的に、それを自分の生活から遠ざけ、聞かなかったことにし、自分は関係ないと思いたがる。

なぜならそれが、「障害」という言葉を含んでいるから。自分に「障害」(の傾向)があるなど当然認めたくないし、実際自分は無事に社会生活を営んでいる。誰でも、そう考えるのは自然なことやと思う。

だから多くの人は、発達障害という概念とは無縁のまま、しかし発達障害と隣り合わせに(自分の中にそれを有して)暮らしている。繰り返しになるけれどもその数は非常に多い。しばしば「1割程度の人が発達障害」と言われるけれども、何らかの関係する傾向を持っている人は3~4割に達するんじゃないかと思う。

世界の構成要素を理解し、思いを馳せること

ここまで多く見積もると、「それだけ多いなら、障害と呼ぶのはおかしいんではないか?」という議論が必ず出てくる。でもそれが「障害」であるのかどうか、それを「障害」と呼ぶのが間違っているか正しいかという問題は、端的にいって、どっちでもいい(どうでもいい)。重要なのは、次の三つのこと。

  1. 脳機能の発達に関するある特定の傾向性が存在していること、
  2. それが帰結しやすい社会生活のスタイルや物事の得意不得意にも、特定の傾向性があること、そして
  3. その脳機能の発達に関する傾向性には、脳神経学的な(未だ完全には解明されていない)仕組みが存在していること。

そしてその仕組みを(未解明の範囲内であっても)知り理解することによって、身の回りの3~4割(なのか何割なのか知らんけど)を占める多くの人が感じている困難に、的確に思いを馳せることができる。そういう人たちは普通、その困難を人に説明できず、解決策を見いだせず、そしてたいてい、自分が困難を抱えているということを自分自身でさえ明確には認識できていない。発達障害について知識を深めたことで、そういう人たちの気持ちに思いを馳せることができるようになった。

言い換えれば引き出しを増やすこと

言うまでもないが、「あなたは発達障害ですよ」なんて言わない。単に一つの可能性として、相手の性格やコミュニケーションの背後に発達障害との関連があるかもしれないと念頭に置くだけ。もしそうだったならば、相手の発言や行動をどのように受け止めるべきなのか、と、可能性の一つとして常に考えること。

それは押し付けでも決めつけでもない。相手が密かに持っている、表面には見えない内面の困難について、自分の想像できる範囲を押し広げることができたということ。相手への共感の引き出しが増えたということ。

ここで重要になるのが、その引き出しが有意義であるような相手というのの数が非常に多いということ(上記の「3~4割なのか何割なのか知らんけど」という点)。経済的困難への配慮ができるようになることも一つの大切な引き出しやし、性的マイノリティへの配慮ができるようになることも一つの大切な引き出しやから、発達障害への配慮との間で優劣はない。でも単純に量的な特徴として、こちらが発達障害への引き出しを持って臨むことが有意義であるような相手というのは、非常に多い。

自覚後、社会生活の質が向上した

この引き出しを持ったことで、ある種の社会的シーンにおいて、他人との交流の質が深まったのを感じる。いま仕事で、発達障害のある生徒への家庭訪問を行っているけれど、以前の自分なら到底できなかったレベルで思いを馳せることが出来ている。正確に言えば、以前であっても、今やっているのと同じ方向性で思いを馳せることは出来たやろうと思う。でもそれは暗闇のなかで手探りで進むような自信のない作業になっていたやろう。今は自分の見立てや配慮の仕方に自信をもってる。発達障害についての確固たる理解があるから、それが出来ている。その本人にも保護者にも、自分からは発達障害の「は」の字も語っていないけれども、そこにそれがあることを知っていて、それを踏まえた配慮をしている。そして相手から「発達障害」の言葉が出てくるのを、黙って聞いている。そういう引き出しが増えた。

直接的な支援の現場でなくても、何気ない普段の社会生活のなかで、この引き出しが活躍する場面は極めて多い。今住んでいるシェアハウスの住人にも、かなり典型的な人がいる。僕はその人と上手く付き合えないので、極力避けて、会話をしないようにしている。でもその判断の裏には発達障害についての理解があり、これによって無用な軋轢や相互不信を回避できている。こういう引き出しによって、自分の社会生活の解像度が増している。それをはっきりと感じる。発達障害について学んだことで、社会生活の質が上がった。

文字情報を介した知識へのアクセス

 文字で小説を読むよりも視覚でドキュメンタリーを観るほうが良いと書いたけれども、実は文字を読むことについても静かな革命が起きている。

本を読むのが遅いという問題から始まったこのブログ

このブログを書き始めたきっかけでもあるわけですが、僕の発達障害の一つの特徴として、本(=まとまった分量の文字情報)を読むのが他人よりも際立って遅いという問題がある。日本語では1時間に10ページほどしか進めず、英語では1時間に3ページほどしか進めないという状況だった。そのパフォーマンスは、たまたま調子の悪いときにそうやというんではなくて、コンスタントにそうなのであり、それでも中学生の頃から一貫した努力で少しずつ改善した結果なのだ、ということを改めて書いておきたい。

ところが、発達障害について自覚し勉強していたある時、天の導きとしか言えないような不思議な瞬間の思いつきによって、読書の速さを上げる方法を発見した。それは世にも不思議な、右目を黒い幕で隠して左目だけで読書をするという方法。過去のエントリーで詳細に書いているので省くが、今の時点で改めて振り返って一言でまとめるならば、眼の能力の一部を束縛することで逆に効率的な情報処理ができるようになった、ということなんやと思う。この方法により、大雑把に言って日本語で1時間に20ページくらい、英語で1時間に6ページ以上読めるようになる。つまり2倍加速している。ただし実際にはバラつきがあり、単純な2倍よりも早かったり遅かったりと色々。詳しくは過去のエントリーを参照のこと。

anthroish.hatenablog.com

中学生の頃に、本を読んで知識を広げたいなぁと漠然と思うようになって以来、20代の終盤に差し掛かる現在に至るまで、どれほどどういう形で頑張っても読書量に限界があることが、本当に辛いと感じてきた。制約のあるなかで少しでも勉強したいと思って、日本の大学ではいつも授業直前のギリギリまで図書館で本や論文を読んでいて、あるとき友達から「キャンパスで見かけるとき、いつも走ってるよな」といわれ、ハッとしたことがある。本は借りれども借りれども、その5%程度しか読み切れずにまるまる返却する。全然読み進められないけども、すこしでも自分にプレッシャーを与えることで、なるべくたくさん勉強しようとしてきた。

このブログで書いたようにアメリカで勉強が辛かったことはもとより、学位を無事に取得したイギリスの学生生活も、ほんまに過酷やった。周りの人が一応それなりに休日や余暇を確保していることがほんまに意味不明で、せっかく誘われても断らざるを得ず、悔しい思いをしながら諦めた交友関係もあった。

本を読むのが速くなって、世界が近くなった

だから本を読むのが2倍速くなって、世界が変わった感じがする。大げさに聞こえるかも知らんけど、おそらく聞いた人が感じるほど大袈裟な意味では自分は言っていなくて、かなり文字通り世界が変わった感じがしている。例え話やけど、視力が2倍良くなるメガネを与えられた瞬間は、こんな感覚なんじゃないやろうか。生まれてからずっと鼻が詰まっていた人が、手術で急に嗅覚を得たときのような。

正確に言うなら、世界が変わったというか、世界にアクセスできるようになったという感覚。そこにある世界それ自体は変わってないし、その世界がそこにあることは以前から知っている。でも、どう頑張っても制約があってアクセスできなかった。それがある日、突然、アクセスできるようになった。

2倍というのがどれくらい劇的な変化なのかは考え方様々やけど、今の自分としては、たかが2倍、されど2倍、という感じを持っています。たしかに万能とは程遠いけど、でも以前と比べればぜんぜん違う。

速さに加えて、質的な変化も劇的

さらに、速さとそれに伴う情報量の増大もさることながら、読書における精神的・身体的な負担の軽減というのがとりわけ強く感じられる。

というのも、この片目読書によって起きた変化としては、(上記のエントリーでも書いていますが)情報が脳みそに流れ込んでくる際の質的な感覚にもかなりの違いがある。以前より、本に書いてある内容がスッキリわかるという感覚がある。別の側面としては、以前よりもシンプルにしか理解できないという特徴もある。以前の自分は非常に深読み(精読)するタイプであり、シンプルに筋を理解するということがどうしてもできなかった。2倍速の片目読書によって、精読に対比されるものとしての所謂「速読」的な読み方ができるようになったんやと思う。そしてその読み方は、他の多くの人が一般的に行っている読み方と非常に似たものやと思う。

この読み方は、疲労がたまりにくい。この片目読書をやって初めて、以前の自分がどれほど疲労の溜まる読み方で強行していたのかということを、ヒシヒシと実感した。ここまで自分で言うと顰蹙を買うかもしれませんが、以前の自分の読書の努力は、かなり正統的な意味で「障害を努力で乗り越えていた」タイプやったと思う。他の人の読書のやり方を出来るようになって初めて、そのことが分かった。他の人にとって読書がどれほど楽なことなのかを、初めて知った。

神龍(シェンロン)が降臨したレベル

だから、2倍速という量的な改善に加えて質的な変化もあり、全体として読書という経験が非常に負担の少ないものへと変わりました。これによって、文字情報を介した世界へのアクセスが劇的に改善した。本当に浮き立つような気分であり、飛び跳ねて喜びたい気分です。こんな風に書いても対して喜びが伝わらないかもしれませんが、本当に文字通りの意味で飛び跳ねて喜びたい気分なんやと想像してもらったなら、僕の心境に関して決して遠くない理解やと思います。

「一生に一度だけ、ただひとつ神様に願い事を出来るなら、それは読書を早く出来るようにしてほしいということ」。そういう言葉を、たぶんこれまでの人生で二度、実際に口にしたことがありました。それくらい、読むのが遅いという問題は自分にとって辛いことでした。いま速くなってどれほど嬉しいか、想像してみて欲しいです。

発達障害を受け入れたら全員がこうなるという保証はない。けれども...

以上の素晴らしい変化は、僕という人間の固有の背景の上に成立した、極めて個別的な事象に過ぎません。わざわざ言う必要もないと思いますが、発達障害について自覚してそれを受け入れたら、全員が同じ変化を経験するわけでは決して無い。

でも、どんな人でもその人なりに、受容して徹底的に研究することで、何かしらの興味深い変化は起きるやろうし、その中にはポジティブな変化も少なくないやろうと思う。

自分の場合で言えば、一番良かったのはやはり、徹底的に勉強したことじゃないかと思います。専門医が一般医向けに書いた本をたくさん読みました。ある程度の教養があれば、そういう本は素人でも理解できます。医者が一般人向けに書いた解説書やハウツー本を中途半端に読むよりも、最先端の研究を背伸びしてでも読み漁るほうが、最終的には圧倒的に大きなメリットがあると思います。自分が読んだ本について一言ずつ感想を書いたエントリーもあります。参考にして下さい。

anthroish.hatenablog.com

 

非行と社会について。正義のために戦っている友人たちにお願い

世間では、「アメリカ社会は自由と先進性を体現していて素晴らしい」と考えられてる。そこに絶望的な経済格差があることや人種差別の歴史をいつまでも引き摺っていることについては、世間はつい目を逸らす。美しい面に着目してそれを賞賛する。

物事の悪い面より良い面に着目するのは良いことなので、そのこと自体を一般的に避難するつもりはない。

僕はと言えば、アメリカ社会が良い面を持っていることは頭ではよくわかっている。でも頭で理解することと、自分の目でまざまざと目のあたりにすることとは、全く乖離しうるし、後者のほうが何倍も重々しく脳裏に焼き付く。アメリカの負の側面を、これでもかというくらい見せつけられ、叩きつけられた。

それで帰ってきて「アメリカはやばい国やった」と大声で言って回っていると、これは世間の認識と完全に乖離してる。

世間の認識と乖離しかつ極めてネガティブな主張というのは、めちゃくちゃ悪い効果を自分にもたらす。その主張が真実かどうかはさておいて、とにかく悪い効果をどんどん自分にもたらす。

人々は、

「アメリカに負の側面があるとしても、アメリカ人全員がそうなわけない。色んな人がいるはず。十把一絡げにするのは間違い。」

「負の側面があるのはどこの国も同じ。それなのに敢えて特定の悪い面を喧伝し避難するのは、悪意にもとづいた不公平な行い。」

「人間それぞれでいろんな苦労を生きてるのに、自分の苦労だけ喚き立てて、しかもそれをアメリカのせいにするなんて、幼稚で有害。」

そういうふうに思われてるのがありありと分かった。どれも『まとも』な『正論』やと思うし、素晴らしくリベラルな(=思い込みや偏見から解放された)思想やと思う。

誰も僕の主張には耳を貸さず、貸したとしてもせいぜい、「辛い思いをした人の話を聞いてあげる」程度でしかない。主張の内容自体を真剣に取り合って「そうかそうか、そういう世界の仕組みになってるんやな」と頷いてくれる人は、一部の例外を除いてまずいない。

つまり、自分の目でまざまざと目の当たりにしたアメリカの負の側面について声を上げるという行為が、自分への悪い効果として跳ね返ってくる。簡単に言うと、

・相手にされない

・間違ったことをしていると見られる

・逆に非難される

そして、これらをヒシヒシと感じるから、

・肩身が狭くなる

・誰も信じてくれないと感じる

・味方がいない、全員が敵やと感じる

・人間関係を自分からシャットアウトしがちになる

という結果になる。シャットアウトすればするほど、周囲の人間の好意や支援を感じ取りにくくなり、ますます敵ばかりに見えて肩身が狭くなる。悪循環になってる。

この1年近く、こういう内面的状況を生きてきた。

そこで本題に入るが、こういう状態は、「非行」に走る青少年の状態そのものなんちゃうかと思った。

非行に走る青少年は多くの場合、家庭や学校で恵まれない境遇にあって、社会の闇を自分の目でまざまざと目のあたりにして、それへのやるせない不満をどこかに吐き出したくて不本意にも非行へと向かってしまう、のやとすれば、自分はそれと全く同じ構造の中にいる。

勉強なんかろくにできる家庭環境にないのに、教師はうわべだけの優しさだけ装いつつ自主退学を迫る。それで他にやりようがなく退学してしまったら、教師が言っていた「自分なりの道」なんて結局は肉体労働しか無いし、それで苦しい人生を生きてくことになっても誰も責任を取ってくれない。

まるで「嵌められた」かのような無力感から、刹那的な快楽のために「非行」と呼ばれる行為を行う。学校で助けてくれなかった教師も同級生も、「非行はよくない」と『正論』だけ言って白眼視する。友だちと思っていた同級生に騙された思いがして、自分には味方がいないと感じる。困っていても助けを求めることに躊躇し、人との交流が減り、人間関係が希薄になっていく。

そういう「非行」と社会的没落のストーリーがあるとしたら、自分はそれと全く同じ構造のなかにいると思う。

もちろん、自分の場合は仮にこれまでの人間関係を毀損したとしても新しい人間関係をゼロから作っていく力があると思うし、作っていこうと思うから、このまま単純に「無縁社会」の淵に落ちていくとは思わない。

けれども、社会が非行者に向ける冷たい視線がどれほど身と心と人生を切り刻むものか、すこし分かった気がした。この悪循環に一度囚われたら、そこから抜け出して前向きに人生をやり直していくためには尋常じゃないスキルとパワーが必要やと思う。自分の場合は、上で書いたような典型的な「非行のストーリー」ほどは深刻な状況ではないし、今の状況から少しずつ抜け出していくスキルとパワーがあると信じたい。

でも世の中の若者全員がそういうスキルとパワーを、16歳とか19歳とかの時点でしっかり持ててるかどうか。絶対にそんなことはないやろう、と断言できる。ごく一部の幸運な人と力強い人がなんとか抜け出して、うまくやれなかった人は無縁社会の淵に沈んでいく。

不運な境遇や出来事は誰にでも起こりうるのやとすれば、きっかけは誰にでもあるということ。そのきっかけが起きたときに、では何が、非行者を「淵」に落とし込めていってしまうのか?

それは、『正論』です。正論は、あらゆる力の中で最大の力であると同時に、それは無敵の暴力でもある。

殴られたら、殴り返すこともできるし、法に訴えることもできる。不当な非難をされたら、それは事実じゃないと反論すればいい。

でも、『正論』で攻撃されたら? どうしようもない。ただ「そうだ」と頷き、「自分が悪い」と自責するしかない。でも頷いても自責しても、非行に走らざるを得なかった原因は何一つ解決されない。解決されないまま、自分が社会において価値が無いように感じ、肩身が狭くなり、居場所がなくなり、人間関係が壊れていく。それはつまり、すでにある問題の上に別の問題を上塗りすること、問題を解決からますます程遠い場所へ押しやってしまうことでしかない。『正論』は、無敵の暴力です。

 

これは、論理的に考えて思ったことを言ってしまいがちな自分への、自戒でもある。自分も気をつけるから、だから僕の周りに無数にいる、賢くて、明晰で、論理的で、正義を尊重して、世の中が良くなるように頑張っている人たち。僕自身もその一員やと思っていたし、今もそうでありたい。でも、そうであることそれ自体が、ある場面では逆に無敵の暴力として姿を現して、その暴力を自分が知らずのままに行使しているかもしれない、ということに自覚的であってほしい。そうやって「正しくない」人々が社会から排除され、その人達を不幸の淵に追いやっていくんです。オモテ面が『正論』なら、そのウラ面はきっと、無敵の暴力です。

どっちがオモテでどっちがウラかなんて、自分が決めてしまってはダメなんです。

発達障害というラベルを得て安心した。が、その安心はすぐに賞味期限が切れた。それでどうなったのか?

発達障害というラベルの賞味期限が切れた

自分はどうも他人とは違っているような気がすると若いときから思い続けて、でも誰しも他人と同じなんて有り得ないし、それぞれ何か違うっていう感覚を持ちながら生きるのが普通なんや、というごく妥当な考えで蓋をして生きてきた。

で、その違いをこれ以上は無視できない、なかったことにはできない、という限界点に達して失業した。問題と全力で向き合った結果、なるほどこれは発達障害なんやと知った。ラベルを得ることで大いに安心させられたし、自分からラベルを求めた。

ところが、ラベルが付くことで安心できる段階には賞味期限があるらしく、ちょっと前にそれが過ぎてしまった感じがする。

自分で自分の可能性を絞り込んでしまう

発達障害は本質的には「特性」に過ぎず、それが「障害」になるか「強み」になるかは生き方次第(社会との渡り合いかた次第)やということを(知識として)理解した。でもその原理を理解したところで、発達障害を強みにできるような生き方が簡単に編み出せる訳じゃない。

その現実に、直面している。

その現実は極めて過酷で、「人と自分が違うっていうのは気のせいや」と蓋をしていた時代には無かったような重みでのしかかってくる。昔も当然、実感としての違いをベースにしつつ、自分はこう行きていこうみたいな自分らしさを考えていたけれども、そのときの「他人は他人、自分は自分」という命題の重みとは全く次元が違う。

昔やったら、もっと素朴に得意なことをトライして、失敗したらケロッと諦めて次のことを試せばよかった。当時は、得意な事柄とかやりたい事柄というのは絶対的に決まったものではなくて、自分の能力と社会の状況を観察してビジネスチャンスを狙うときのような開放性と自由度があった。僕の性格として、しつこくトライし続ける粘り強さと「ケロッ」としたポジティブさを兼ね備えていたと思うし、だから物事がうまく進んでいたと思う。

ところが発達障害というラベルがついた今になって振り返ってみれば、その「ケロッと」性は、自分の特性について曖昧な理解しかなかったからこそ可能になってたんやと分かった。

何が得意で何が苦手なのかを漠然としか自覚できていない時、人間は大胆にチャレンジできるし、失敗しても前向きに次を目指せる。なぜなら成功の裏にも失敗の裏にも、運命的な決定性を感じないから。運悪く失敗しただけやろうし、運良く成功しただけやろう、と。

発達障害という観点から自分についての理解を深めた結果、そういう開放的な態度を取ることが不可能になった。

自分には何ができなくて、何ができるのか。他人と比べた場合にどれほど決定的な差異があるのか。そういったことについて、今や細密画を見るように正確に理解してる。

しかも、やりたいことを大胆にトライして派手に失敗した経験を経て、その失敗が自分の特性からの必然的な帰結やったということがはっきりと分かる。

そうすると、他にどんなトライをすれば同じような大失敗に繋がってしまうのかが、ありありと見える。あれもダメ、これもダメ。

もちろんそれは単なる予想に過ぎず、実際にはうまくいくかもしらん。でも「やってみなきゃ分からない!」というのはここでは意味をなさない。なぜなら直近の大失敗が心に深い傷を刻み込んでしまっていて、同じような失敗に至ると思えるようなトライを挑戦する気分には到底なれないから。

つまり、かつてあったようなケロッとトライし続ける開放性それ自体が、発達障害にまつわる経験と認識によって毀損されてしまったということ。自分で自分の選択肢を絞り込んでしまう。あれもダメ、これもダメ。

強みを活かすなんて言っても、簡単じゃない

では逆に、特性を強みとして活かす道は?

これは発達障害にまつわる王道の問いであるが、同時に王将なき詰め将棋のようなものでもある。強みとして活かす道なんて、簡単に見つかるのなら、蒸気機関の原理と一緒に見つかってる。簡単に見つからんからこそ苦労し、発達障害という概念に助けを求め、それでも派手に失業する。

確かにいくつかの具体的な分野や領域が候補として挙がり、自分の特性に照らして得意かな、能力を発揮して自分の居場所にできるかな、と思うことはある。でもそれを急に試したところで、一瞬で成果が上がるなんてことは当然ない。成果を出してその道で生きてこうとするなら、これまでと全く同じように、コツコツと地道に小さな成功を積み重ねていくしかない。当たり前ながら、初めて挑戦する物事というのは全く取っ掛かりも分からず、「努力のやり方」自体を掴むのに時間がかかる。

つまり、これまでケロッとコツコツ努力してきた分野は「ダメ、ダメダメダメ」と道を寸断され、じゃあ逆に得意なことは何やろうかと考え出した暫定的な答えについては「はい、ここに道を作ってください」と単なるジャングルを突きつけられる。そのジャングルの向こう側に何かがあるのかどうか、全く確証もないまま。

繰り返しになるけど、これらの事態は全ては、発達障害について理解を深めて自分の特性について明瞭に認識をするようになったからこそ起きていることやということ。昔やったら、そんなジャングルに敢えて向き合って「ここに道を作るには」なんて考えもしなかったから、「そんな無茶な」という悲壮感も当然なかった。

ラベルをもらって安心したのは束の間。今度は現実的な難問に直面することになる。いわば、質の良すぎるメガネをつけてしまった悲劇とでもいうか。これまで見えてなかった過酷な世界がありありと見えてしまう。そこに道があるのかどうかよく見えないまま掻き分け掻き分け進んでいた時の方が、幸せやったかもしらん。

他人と世界を共有してないってことに気づいた時の絶望感

ラベルによる安心が賞味期限を過ぎたということには、もう一つの理由がある。それは、「発達障害」という一次元的なラベルによって他人が「理解」してくれるだけでは、次第に満足できなくなってくるということ。そして一歩先の多元的な理解を他者に求めても、それが原理的に不可能やということ。

発達障害というのは脳の器質の特異性なわけで、それは世界を認識する仕方の特異性でもある。たとえば色覚障害を持っている人のことを「色覚障害を持っている」とラベル付けし、そのラベルによってのみ理解をすることは可能。ところがさらに一歩踏み込んで、では色覚障害の本人は世界の色をどのように見ているのかというのは、第三者には決して分からない。

ただし色覚について厳密に言えば、科学の進歩のおかげで様々な検査を用いて色覚を数値化しパソコン画面上で再現することは可能やし、最近は矯正メガネまで登場してる。

ところが発達障害は、色覚よりももっと複次元的な認知の特異性やから、今の科学では到底数値化できないし再現もできない。結果として第三者は、発達障害の当事者の感覚値にアクセスできない。

他人と共有できない世界を生きているということは、深い深い絶望感を伴う。

昔はそのことに蓋をしていた。「違ってるというのは単なる気のせいや」と思って、他者と世界を共有していると見做していた。ところが発達障害について知って自分の特性を理解したことによって、もはや蓋はどこかに消失した。自分と他人とが世界を共有していないという断絶状況が、目の前にありありと突きつけられる。発達障害というラベルで安心できる段階なんて、遠く過ぎ去ってしまった。

回復する時を見越して準備する力なんてない

道がなくなって路頭に迷ってると同時に、頼れる他人が存在しなくて絶望してしまってる。端的に言って、非常に辛い。

精神の生命力というか、生きることへの意志みたいなものがもともと強くない人間やっていうこともあって、生きたいという気持ちより絶望感の方がちょっと優ってしまってる。今すぐ死にたいというわけではないけど、生きる力みたいなもんが不足していて、「死んだしまった方が…」っていう気持ちに恒常的になってしまってる。

他人との関係においても、「どうしても説明や気持ちが伝わらへん」という意味での「理解されなさ」であればまだいいけれども、少しでも相手から攻撃性や批判性を感じ取ると、この人は絶対に無理、コミュニケーションするだけで自分の傷が深まると思ってしまって、もうそういう人とは順番に縁を切っていってる。

おそらく、これからのいつかの時点で人生がうまく行き始めて今のことを振り返ったならば、そうやって縁を切ったことは後悔するんやろうと思う。縁を切るまで行かなくても、SNS上やら何やらでネガティブな言葉を吐きまくってるのは、ほんまに自分の人間関係に傷をつけてるし、もっと言えば自分の人生の可能性に自ら傷をつけてると思う。

けれども、先のことをそんな風に見越して計画的に「今は我慢しよう」とかちゃんと考えられるような精神状態じゃない。とりあえず自分の心を防衛することに必死で、煮え繰り返るような憎悪は何らかの形で吐き出さないとヤバイし、切るものはバシバシ切っていくしかない。好転するタイミングが来たなら、その時点で残ってる人間関係の中から頑張って人生立て直していこうと思う。

 

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