なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

涙、友達が自分を埋めてくれること、映画を支柱にして立つこと

小さい子供やった頃、兄ちゃんと連日のように喧嘩して(いじめられて?)泣き喚いていた。

ある頃から泣くことは減り、喧嘩も減った。それ以来、何か重大なことがうまくいかなかった時の数回を除けば、ほとんど泣いたことはない。が、ここのところ1ヶ月間、日によっては一日に何回も泣く。泣くのは、別に悪い気持ちはしない。涙が心を洗ってくれて、泣き終わったら心が落ち着く。泣くという特別な自助作用なくしては心の平衡を保てないような、そういう異常な心理状態が恒常化しているんやろう。

最近、手当たり次第いろんな友達に相談して話をしている。

研究職を目指すのを諦めるかどうか、とか、大学を辞めて日本に帰るかどうか、とか人生の出来事として結構重大な決断について、それぞれの人が考えを教えてくれる。大抵みんな、無理せずゆっくり休んだらいい、と言ってくれる。その度に、自分の負った傷をみんなが理解してくれている、優しさに包まれている、という感じがすると同時に、自分が傷を負っていること、自分が弱い存在であることを痛感する。自分の弱さと、それを包む優しさを同時に感じ取ることで、また顔がぐしゃぐしゃになって涙がほとばしる。自己が独りで存立できていない感じがする。自己存立の不在を、友達の優しさが埋めてくれている。

これまでの人生でも自分は、常に人の意見に耳を傾けるように努めてきたし、実際に人のアドバイスを聞きながら自分の決断をしてきた気がする。しかしそれは、人のアドバイスに身を任せる、というのとは全然違った。常に自分は力強く意見を持っていて、ただし見落としがあるかも知らんから人に意見を求める。しかし実際には、ほとんどの場合、自分に見落としはなかったし、出てくるアドバイスも予想の範囲内やったことばかり。結果的に、人に意見を求めながらも、選び取る決断は自分自身で下す決断であったし、感覚としても自分の意見に対して持ってる信頼が揺るぐことはなかった。

いま、人に言葉をもらうことで生きてる感覚、あるいは友達に自己を埋めてもらって生きている感覚は、これまでの人生で経験したことがない。人生で初めて、自己の存在が揺らいでいるのを感じる。

ここ1週間近く、毎日取り憑かれたように映画を観ている。

インターネット上に(不法に)溢れている映画を漁り、1日に2本も3本も観る。映画を通して、自分とは違う別の人生、別の世界を知る。別の世界を知ることによって、世界への(あるいは自分自身への)眼差しの立ち位置を、右に、後ろに、上に、下に、少しずつずらす。見る立ち位置を変えれば当然、世界は違って見えるし、一つの立ち位置から眺めながら感じていた悲しみも喜びも悔しさも望みも、全部が違ったように感じられ始める。

映画の世界の中で生きている人間の視点や立ち位置を借りてくることで、悲しさや悔しさに支配されてる自分の感情を、少しずつ別の感情に塗り替えていく。今の自分にとっての世界は逃れ難い苦痛一色で、自分で自分を支えるのが難しい。別の人間の視点や立ち位置を借りてくることで、苦痛を別の感情に塗り替えていかないと、直立して生きていけない感じがする。そのために、映画を頼りにする。映画を、手をかけて自分の体を支えるための支柱にする。揺らいでる自己の存立を支えるための、道具にしている。