なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

右目を隠せば読書が速くなるというシュールレアリスムと、トレードオフされる諸能力を巡るレアリスム、そして脳と閃きの神秘について。

夢の中で、雲の上に迷い込んだ。自分の後を追って、大集団がぞろぞろと迷い込んできた。降りたいなぁと思って、下に見える海と海岸線をのぞいてたら、雲から落っこちた。自分一人じゃなくて、もう一人の人と一緒に落っこちた。パラシュートなしのスカイダイビングを図らずもしてしまい、あぁもう死ぬと思った。でも海に着水する少し前から、一緒に落下しているその人と空中で抱き合って、着水する瞬間まで力の限り叫び続けた。そうしたら衝撃に耐えられて、海水も飲んでしまわずに済むかと思って。

気づいたら、陸の上で救助されて、乗り物に乗せられてる。自分の後から次々と、雲の上から落ちてきて救助された人たちが乗ってきてる。助かったことの嬉しさよりも驚きよりも安堵感よりも、まず何よりも「助かった」という事実そのものが、深い深い感慨とともに心に押し寄せた。あぁ、助かったんや、と。向かいに座っている、後から落ちてきて同様に救助された顔見知りの人を見ては、「あぁ、助かったんや」と、自分のこととも人のこととも言えない唯々深い感慨をもう一度確認した。

そんな夢を見てから、朝、目が覚めた。あれは夢やったんや。そう思う一方で、あの「助かったんや」という事実を確認したときの感慨の深い深い奥行きは、間違いなく正真正銘の、生きた心の動きそのものやった。夢から覚めても、まだありありとその心の機微を思い出し、感じ取れることに、すこし感動した。そんな感動を味わいながら、夢の余韻と、布団の暖かさを楽しんでいた。

 

そのとき、急に閃いた。

右目と左目で、何か違う能力があるんじゃないか。書かれた言語情報を視覚的なイメージに変換してしまう自分の特徴について考えてきたけど、そういえば脳には右脳と左脳があって、右脳優位みたいな言葉もある。首より上では、顔の右半分が右脳に、顔の左半分が左脳につながってるという話をどこかで聞いた。そういえば学習能力検査を受けた時に、左右それぞれから音を聞いて反射的にボタンを押すという検査項目があり、その結果として「右耳の反応が左耳と比べて僅かに遅い」と書いてあった。目についても、右目で視ると左目より僅かに遅い、かもしれない? 言語情報を言語のまま受け入れられないのは、右目から右脳へと情報が入ってしまうから? 左目だけで見たら、情報を直接左脳へ送り込んでくれるんじゃないか?

ということで、布の切れ端を探してきて、右目を隠した眼鏡を作った。布団の中でなぜ急にこれを閃いたのかは、全くわからない。閃きというのは、そういうものです。

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これで、読書をする。普通に考えて、そんなアホなことがあるわけがない。わざわざ片目を隠して読書して読みやすいわけない。もちろん自分でもそう思いながら始めた。

ところが皆さん、存分に驚いてください。

これで読むと、スピードが2倍速くなってる。

この片目眼鏡で日本語の本を読むと、最初は1時間に20ページくらいやって、慣れてきたら25ページを超えてきた。英語やと、7.5ページとか10ページとか読める。これまでは日本語で10と数ページ、英語で3ページが平均的な速さやったのと比べて、2倍以上の速さになってる。そんなこと、あるんかな。

あまりにナチュラルにそのくらい読めてしまって、何かの勘違いがあるんじゃないかと、何回も疑った。でも、半年くらい前から何度も何度も執拗に読書スピードを計測して、いつでもコンスタントに(英語なら)2〜4ページ、(日本語なら)10ページとちょっとやったことは、今になって急に否定することはできひん。逆に、いま1時間に25ページ読めてしまっていることも、まさに眼前で起きていることなので否定のしようがない。時計をチラチラ見ながら、読み進めたページ数を引き算すれば20〜25ページくらいになる。また、ある本(240ページ)一冊をまるまる読むのに1日とちょっと(だいたい12時間くらい?)しか掛からんかったことを考えても、1時間に20ページくらい読めてることが分かる。数字を見れば間違いなくその変化が起きてるのに、体感としてはあまりにナチュラルに起きてしまっているので、自分でも狐につままれたような気分や。

 

さらに、これをやり始めてから、次から次へと面白いことに気づく。

まず、片目眼鏡をつけると、どれだけ読書しても頭が疲れない。昔からこれまでずっと、読書はホンマに頭が疲れる作業で、苦痛やった。これまでは20分くらい読んだだけで、まるで2000㎞走ってスタミナが切れた時みたいに脳味噌がバテてしまい、洗面器からブハァーっと顔を上げるようにして本を机に置き、脳味噌の休憩を求めて何か無関係のしょうもないことをせざるを得ない(したがってフェイスブックやメールボックスを頻繁に開けてみる)、ということを延々と繰り返していた。それが、この片目眼鏡をつけると、何時間ぶっ続けで読書してもその疲労感が訪れない。事実、自分の中の体感としても、片目眼鏡で読書をしている時は全然頭を使っている感じがしない。したがって、脳みそのスタミナ補給のために常に摂取していた飴やチョコレートは、片目眼鏡をつけて以来ほとんど摂らなくなってる。箱買いした「白いダース」が、それ以来減っていない。あるのはただ、映画を観終わった時のような躯体の疲労感だけ。

それもそのはずで、左目だけで文字情報を追う読書は、これまでの読書体験とは明らかに根本的に異質な作業やと、実際の体感として感じる。言葉が、その意識的な解読を要求することなく、スッと、そのまま頭に入ってくる感じがする。こういうことを体験したことはこれまでにもあったかも知らんし、特に会話とかでは無意識に体験していたかも知らんけど、でも読書という形式の知的作業の中で一貫して連続的にこの「スッと」入ってくる感覚が続いたのは、記憶の限り一度もない。急に体が宙に浮いて空を飛んだかのような、スムーズで、楽チンで、心地よくて、そしてすごく不思議な体感。ほんまに驚いてる。

この感覚を体験した今となってみれば、これまで「文字情報を視覚的なイメージに変換してしまっている、ような気がする…」と自信なく曖昧に表現していた自分の両目読書の行為が、この片目読書の行為と比べれば決定的に、根本的に、もう絶対的に異質なものであるということが、ありありと自信を持って分かる。

そしてその片目読書の側に立ってみて、もし自分がその片目読書の体験しか知り得なかったと想像した場合、自分自身がかつて行なっていた両目読書の行為をもしも他人から説明されたとしたら(「視覚的イメージうんちゃらかんちゃら、1時間に3ページうんちゃらかんちゃら…」)、そいつが何を言っているのやら皆目見当もつかないやろうと思う。それくらい、片目読書の体感と両目読書の体感は、質的に根本的に異なってる。誰にも分かってもらえないのは、ある意味で当然とも言える。

 

読書スピードの遅さについて悩む中で気づいた自分の特徴の一つに、現代思想のような抽象的な言語表現がどうも理解できない、ということがあった。現代思想に限らず人類学でも、本の本論部分は具体的な説明があるから分かるのに、導入や結論部分は抽象的な言葉が多いので、よく分からんことが多く、半ば理解を諦めていた。そしてそのことは、自分が言語情報を視覚的イメージに変換して読んでしまうという仮説と密接に関係しているように思っていた。

そこで、これについても片目眼鏡で何かが変わるかどうか、試してみた。すると、またしても驚くべきことに、抽象的な表現の言葉がスラスラと分かる。日本語では、『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」で試した。これは、昔に読んだ時に意味がわからず放棄したことを、今でも覚えているから。これが、昔読んだ時の感覚とはまるで違って、分かる分かる。もちろん、『野生の思考』の思想史的な文脈(具体的にはサルトルの著作とか)を十分には知らないので、わからない箇所も結構ある。しかし昔読んだ時の感覚と比べると、まったく違う。読んで分かるから面白いし、ワクワクしてしまった。

でも昔この章を読んだ時から今までの間に、かなり色々な勉強をしたわけで、知識量的に理解の準備が進んだから分かっただけではないのか、とも疑った。

そこで、別の本でも試してみた。約1年前に読んだ本を二つ取り出してくる。シカゴ大学の人類学者が書いたBiocapital: The Constitution of Postgenomic Life(邦訳:『バイオ・キャピタル)の序章(理論的な展開を行なっている章)を読んでみる。1年前には邦訳で序章だけ読み、本文は英語で読んだ。その時の序章の印象は、「マルクスフーコーやを引用して、なんか難しいことを言ってる。よく分からんけど、翻訳者も興奮して訳者解説を書いてるし、マルクスフーコーも上手に編み上げられてるみたいに見えるから、きっと良いことを言ってるんやろう」という程度。序章の理論展開はあまり気にせず、本文だけよく理解するように注意していた。で今回、序章を英語で読み直してみた。すると、分かる分かる。スラスラ分かる。そして内容的には、そんな大したことを言っていないということが、よく分かる。言葉遊びみたいな感じで頭のいい人やとは思うけど、思想的に何か意義深い内容があるかというと、そこまででもないと思う(もちろん、いい本やとは思うけど)。理論と理論のちょっと新しい組み合わせであり、それをうまくやってのけてるとは思うけど、極端に言えばそれ以上のことはない、というのが分かる。1年前とは、まったく理解度が違う。そして読むのにかかった時間を見ていても、1時間に10ページくらい読めてる。(行間が少し大きめやから、たぶん)以前の2倍くらい速くなってる。

もう一つの本は、サッセンのTerritory, Authority, Rights: From Medieval to Global Assemblages(邦訳:『領土・権威・諸権利』)。これは当時、抽象的なことを延々と語り続けていて、どうも腑に落ちひんなぁ、そして同じことばっかり繰り返してるように思えるなぁという印象やった。今回、一番核になってる章の冒頭部分だけ読み返してみた。そうすると、分かる分かる。そして分かってみると、別にそんな極度に抽象的なことも言ってないし、しかも結構章ごとに(少なくともその章は)議論の対象を細切れに切り分けて書いているようやった。だから、抽象的で腑に落ちない内容を何度も繰り返している、という読みは、たぶん相当ズレてたと思われる。(全部を読み返してみれば確認できるけど、なんせ膨大なのでやめとく。)

こういう本を読み返して、以前の体感と比べてみることによって気づくのは、「速い」「分かる」ということだけではない。「よく分からんかったから前の行に戻って読み直す、それによって行ったり来たりする」みたいな作業が、以前と比べて圧倒的に少なくなっている。なので、時間的に速くなってるのは当然とも言える。

 

これを踏まえて、もう少し、両目読書の立場から片目読書の体感を説明してみる。

片目読書をすると、目の視野の中に1回で入ってくる言語情報の領域(紙面?)が、広い。一度に英語1単語をまるまる理解できるし、それどころか、一瞬さっと目を動かすことによって何単語も一気に理解できる。両目読書の時は、英語の1単語を読むためにその単語の内側を分解して(de + national + ize + d)、そして再び組み立て直して、あぁこれは“denationalized”と書いてあって、国民国家の枠組みから分離してるという意味やな、と理解していた。これに対して、片目読書では、denationalizedを1回みることでそのまま丸っと理解できる。感覚的には、漢字を一目で理解するのと近い。

実は以前から、漢字の単語を目で見て視覚的に理解できてるなぁと感じながら、なぜ同じことを英単語についても出来ないのか、不思議で仕方なかった。英単語は表音文字であり漢字とは仕組みが違うというのは明らかであって、そのことを自分の読書体験の独自性を説明する理論としても用いていたけれども、でも一方で、英単語も単語レベルではいわば一つの絵のように認識することは可能なはずやと、ずっと思ってた。なぜそれが出来ないのか、分からなかった。それが急に出来たことになる。

そして、こういう風に単語を丸っと理解する認知方法は、すごく速度が速いみたい。なので目を左から右にさっと流すことによって、ほぼ一瞬で1行(もしくは半行くらい?)が理解できてしまう。もっと極端に言えば、自分の意識上ではしっかり見つめたつもりの無い文字すらも、目の端っこで捉えるだけで何故か理解できてしまっている、という感じがする。摩訶不思議な、手品のよう。

しかし「理解できる」という表現も、かなりの曲者やと思う。より正確に観察すると、そもそも両目読書のときの単語の「理解」と、片目読書の時の単語の「理解」は、質的に根本的に異質なものや。片目読書では、理解しようとする意識的な努力を全く必要としない。自然に、言葉とその意味が頭の中に勝手に入ってくるような感じがする。両目の時みたいな、いちいち意識して考えて意味を理解しようとするようなプロセスが、そこには存在していない。ほんまに不思議な感覚やけど、恐らく普通の人はこの「勝手に意味が流れ込んでくる」プロセスの方しか体験したことがなくて、「いちいち意識して意味を理解する」っていうのがどういうことなのか、逆にそれが全く理解できひんやろうと想像できる。(あるいは、不慣れな外国語を読む時の感覚を思い浮かべるやろうか。それは、結構近いかも知らん。*1

そしてもう一つ、両目読書の立場から片目読書を観察して言えるのは、読み進めながら記憶しておける前の単語や前の行の量が、片目読書の方が圧倒的に多い。言い換えると、両目読書では、目が次の単語や次の行へと移るたびに、直前に読んだ内容をことごとく綺麗さっぱり忘れていく。したがって何度も上下前後に行ったり来たりして、意味内容を記憶にとどめるたびに意識的な努力を繰り返しながら読み進めていく必要がある。片目読書では、こういう努力がかなり不要や。片目読書では、目を滑らせていけば意味内容が自然と頭に入ってくるし、それも前の単語や行の内容が頭に残っていて、文が全体として繋がった形で頭に入ってくる。

これは特に英語で顕著な効果がある。両目読書の時は、一文の中で読み進める際に、文頭に書いてあった内容を忘れてしまうから、文中で出てきた挿入節とかが文法的に何に対して掛かっているのかを、すぐに見失っていた。なのでいちいち、指で辿るようにして、文法的な修飾・被修飾関係を意識的に追跡しながら読まなあかんかった。片目読書では、こういう意識的な努力をする必要性が、格段に減る。書いてある順序のままに、書いてある流れのままで頭に入って来てくれる。

実は、片目眼鏡を掛けた最初の頃は、体のどこか一部を縄で縛られて自由に身動きができないような、その縄(この場合は眼鏡)を暴力的に取り払ってしまいたいような、そういうイライラする不快感があった。とはいってもそれは、片目眼鏡をつけて家の中を歩き回って見た時に感じる、認知の不足感(立体感の不足)とはまた次元が違うものやった。もっと、根本的に、普段行なっていることが制限されてしまっているような、そういう遣る瀬無さやった。いわば、足の代わりに両腕で体を引き摺り回して移動しないといけない時みたいに。

そしてその遣る瀬無い不快感は、片目読書を開始して数日経った今でも、ふと油断するとすぐに訪れる。しかし、ギアが乗り始めると、「スッと」意味が入ってくるようになる。そして、感じていた遣る瀬無い不快感は、思い出さない限りしばらく忘れていられる。

これはどうやら、速読が「できる」「できない」の問題というよりかは、もっと正確にいうと、速読を邪魔してしまうある種の特殊な認知特性が、油断するとすぐに表舞台に躍り出ようとする。だからそれを強引に(片目眼鏡で)シャットアウトする。そういう仕組みのように思う。

 

両目読書と片目読書のこういった相違は、自分の感覚をつぶさに観察してみる限りでは、やっぱり明らかに、視覚的イメージに変換しようとしてしまう(右目の能力が表舞台に踊り出る)か、言語を言語のままで受け入れる(右目を抑え込む)か、という区別なんやと思える。二つの認知方法は、まったく根本的に仕組みが違っていて、まるで二つのパラレルワールドが存在しているような気にさえなってくる。片目読書の認知方法を基準にして考えれば両目読書の認知方法がまるで珍奇で不器用で不要なものに思えるし、両目読書を基準にして考えれば片目読書はまるで天才の曲芸のように思える。

しかしそれと同時に、どちらの認知方法も、自分のこれまでの人生の中ですごく慣れ親しんできたもののように思えてならない。両目読書の苦労が、これまで散々いじめられてきたジャイアンの憎たらしい鼻づらのように親しみを感じるのは当然であるとしても、それと同じくらい、片目読書のこの飛び滑り流れるような情報の注入方法も、人生で初めて体感する類のものやとは全く感じず、むしろ、読書以外の場面で常に実践してきたものであるような気がしてならない。恐らくそれは、マシンガントークの友達の話を聞く時とか、お笑い番組のテンポの速いやりとりを聞く時とかに、ごく自然に実践してるものなんじゃないか。おそらく英語では、日本語ほどナチュラルにはこれを実践できてないと思われる。だから、クラスメートの発言が、発せられた言葉は頭の中に浮かぶのにその意味が頭に入って来ずに置き去りにされる、ということが起きてたんやろう。

したがって、大学院の教員に対してどう説明すればいいか分からず困った結果、「みんなが、全く別の意味世界に住んでいるように感じるんです」と言ったことがあったのは、やはり正しいことやった。もちろん、その教員はまったく理解を示さず、思い出すのも嫌なやり取りやったけれども。

 

さらに面白い観察がある。

眼鏡をつけたり外したりしながら、片目と両目でそれぞれ何が起きてるのかを観察していた時に、感じたことがある。両目にすると、当然のことながら、本とページが立体的に見える。でも、本の中に書かれている意味内容すらも、立体的に見える気がした。これは何とも不思議な感覚で、自分でもどう説明したらいいのかまだ分からへん。逆の言い方をすれば、片目にした時に、書かれている意味内容が平板に見えて驚いた。言語によって表現された意味内容が「立体的」とか「平板」(「平凡」じゃなくて)とか、そういうことってあり得るんやろうか。

最初一瞬だけ、単にしなってるページの紙が立体的に見えるのを「立体的や」と感じているんやと思ったけど、どうもそれだけじゃない。そこに書かれてる言語的な意味内容それ自体が、立体的に見えてる。そしてさらに面白いことに、ページの紙自体が立体的なことと、言語的に書かれている意味内容自体が立体的なこととは、どうやら、厳密な境界線がないように感じる。それは連続(spectral)してる。これはもしかしたら、一種の「共感覚」(リンクはWikipedia)なのかもしれん。

そしてこのことに気づいた瞬間、一番初めに思ったのは、片目で見る読書における意味内容の体験というのが、なんという味気のない、平板で薄っぺらくつまらないものなんや、という驚きやった。確かに速くは読めるけれども、でもそこに広がっている意味内容の世界というのが、いわば地平線までずっと何も遮るものがない一面の砂漠のような、そういう味気のない世界みたいに感じる。この例えを続けるなら、両目読書で見る意味内容の世界というのは、切り立つような山や、深々と堕ちる谷底や、森や川があって、なかなか前に進めない世界のよう。読むのに時間はかかるけど、砂漠で生まれ育った人には想像もできないような、全くの異世界とその体験が広がってる。正直にいうと、その相違に気づいたときは驚いたと同時に、もしも普通の人はこの片目読書の平板な意味世界しか体験したことがないのならば、それはすごく可哀想なことや、と思ってしまった。

 

さてそういう訳で、新しい読書体験を発見した今、正直言ってすごく興奮してる。たくさん読めるし、これまで分からなかった本も読める。でもだからといって、読む速度が急に1時間あたり100ページや200ページになった訳ではなく、あくまで1時間あたりに20ページなだけ。残念ながら、まだまだ普通の同世代の人の何倍かは遅いやろう。

ここからは推測やけど、自分は、真剣に読書を始めた中学生くらいのころから一貫して、視覚的イメージへの変換によって意味内容を捉えようとしてきた。その結果、読書スピード向上のその傾き(加速度、というか)が、他の人と比べて圧倒的に小さかった。もしも、中学生の時点でこの片目読書を発見していたら、他の人と同じ傾き(加速度)で読書スピードを向上した結果、 今では1時間に50ページとか100ページとか読めるようになっていたのかもしらん。もう28歳なので、15年くらい損した計算になる。

でもその反面で、山や谷を乗り越えながら立体的な意味世界を体験するという、ちょっと変わった困難な取り組みを、独りで黙々と続けていた。それはある意味では損なことやったかも知らんけど、でも別の意味では、得なことやったとも言える。正直にいうと、僕は周囲の人と会話や議論をする中で、論理や意味や意図や背景や文脈や意義といったものが、他の人と比較にならないくらい圧倒的に速いスピードで読み取れる、と感じることがしばしばある。それはまるで、周囲の人が地道に議論を積み重ねてテクテクと歩いて目的地にたどり着こうとしている時に、自分だけジェット機か、下手をするとどこでもドアすら使って、ひとっ飛びに目的地にたどり着いてしまうような感覚と言える。(ただしもちろん、常にそうだという訳なくて、逆に周りに付いていけない時もある。)

考えるにこの強みは、明らかに読書の苦労と関連していると思う。高い蓋然性で、読書の苦労自体が自分の脳を鍛錬して、他の人は持っていないような強い(特殊な種類の)思考力を身につけたんやろうと思う。もしも中学生の時点で片目読書を発見していたとしたら、この特殊能力は身につかへんかったやろう。結局、あっちを取ればこっちが取れず、こっちを取ればあっちを取れず、というトレードオフに過ぎひんのやろうと思う。

だから、自分のデコボコした能力は、必ずしも絶対的に負のモノということにはならへん。ただ、デコボコしていると、人と違ってるという事実それ自体に起因して、膨らんでいる能力だけを見て天才やと勘違いされたり、欠落してる能力だけ見て能無しやと勘違いされたり、あるいは一貫性がなくて理解不能な人やと思われたり、はたまた一貫性のなさゆえに嘘をついていると誤解されたりする。また、例えば読書の苦労みたいな、他人に説明しても理解されない苦労は、永遠に理解されることがない。こういう、悲しいことも多い。

 

片目読書を発見して興奮すると同時に、実は同じくらい心配してるのは、今後もし片目読書に頼りすぎると、自分の強みもだんだん消えて行ってしまうんちゃうか、ということ。だから、何冊かに一冊は、眼鏡を外して読もうかなと、考えているところです。

 

 

* * *

ところで余談やけど、眼球から伸びてる視神経が右脳左脳とどういう対応関係にあるのかをグーグル検索してみると、どうやら左右両方の目が、それぞれで左右両方の脳につながっているらしい。これをそのまま今回の話に適用すると、右目で見るとイメージ認知に繋がってしまって、左目で見ると言語認知につながってくれる、という話はおかしいように思える。

でも、そもそもイメージ認知の力も言語認知の力も、運動会の赤組と白組みたいに左右で綺麗に別れているものでもないはずやし、脳というのはもっと複雑やろう。皮質部分(外側)と連合野みたいな内側の違いもあるし、前頭葉後頭葉頭頂葉という部分の違いもある。最初のひらめき自体は、赤組白組の運動会チーム分け方式のような短絡的な発想やって、それが結果的には有意義な発見につながったわけやけれども、でも実際の仕組みといういのはもっと極めて複雑なはずや。ほんまにたまたま、奇跡のような偶然によって、僕の脳味噌の中では、左目で文字を見ると言語的な処理をするのに都合がよかった、というごくごく個別的な事情にすぎひんやろう。

だから、だれでも右目を隠して読めば読書スピードが上がるやろうとは、全然思いません。誰でも試してみるのは自由ですが、それでうまく行かなかったからといって「そんなん嘘や」とは言わないで欲しいです。

脳の神秘もすごいけど、この発見ができたということも、神秘的やと思う。おもしろいなぁ。

*1:内海『自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために』(P183-4)は、次のように書いている。「われわれの世界は、まず母語によってフォーマット化されている。経験は身体とともに、この母語によって構造化されたフィールドの上で展開されることになる。外国語を学ぶ時にも、その習得は、母語によるフォーマット上でなされる。それに対し、...ASD自閉症スペクトラム障害)では言語が身体に染み込んでいない。むしろ道具のように、無骨に使われている。ASDの世界は、母語によってフォーマット化されておらず、言語はアプリのようにインストールされる。彼らはあたかも外国語のように母語を学んでいくのである。」
したがって、日本語を読む時ですら「いちいち意識して意味を理解する」と僕が呼んだプロセスは、この内海の言い方を借りれば、外国語を運用するのと同じように母語を運用していることの結果なのかもしれない。
これと同じ意味で、世界が母語でフォーマット化されている普通の人が「母語なのに「意識して」理解しようとするというのはどういうことやねん、それってつまり、不慣れな外国語を読み解こうとする時みたいな感覚なんか??」と考えるとしたら、それはかなり正鵠を射ているかもしれない。

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