なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

人の気持ちがわかる事、分からない事、分からない結果として超絶わかるようになってしまった事

「人とのコミュニケーションが苦手。」

「どこがや。むしろダントツやわ。」

 

という会話を、これまでの人生で何回繰り返したか知らない。もちろん自分は、1行目のセリフを言う役。

しかしそんな会話をしながら、なんでコミュニケーションが苦手なのか、それが自分にはなかなかピンとこなかった。何か、コミュニケーションのエッセンスのようなものが、自分から欠けている。それはもしかすると、人間の人間たる所以の欠落、もしくはその一部分の欠損ではないのか、という気すらしてくる。しかし説明できない。

自分でもわからないので、相手に通じなくても文句は言えない。まるで存在しない問題に対して不平を並べ立てているかのように誤解され、無言の誹りが充満する。それを無言で耐えながら、それ以上どう説明のしようもなく会話は尻切れトンボに弱く、細くなっていく。《そう言うなら、説明してよ。》という無言の声は、《説明してくれないと分からない。》に変わり、そしてすぐに《分からせてくれないなら、存在しないと同じになってしまう。》へと変わる。自分自身は、これまた無言で《うまく説明できないけど、それはほんまや。》と言い、《説明できひんかったら、どうせ信じてくれへん。》と言い、そのまますぐに《こうやって、自分はまたコミュニケーションがうまい人ってことになるんや。誰もわかってくれない、誰にも伝えられない。》と言う。

そういう無言のやりとりが何回も繰り返された。それを繰り返した回数だけますます、自分はコミュニケーションが下手やという絶大な信頼は、より強固になった。それと同時に、コミュニケーションが上手いのに下手なつもりでいる変な人、という周囲からの懐疑も、ますます膨らんだ。

アメリカの大学院を諦める直接的な原因となった極端に遅い読書スピードと、それと関わっているように思えてきた人生の様々な(些細な)経験とについて前回書き、いろんな友達からアイディアを貰ったところ、その中にひとり「自閉症では」と言った人がいた。自閉症について書いたウェブサイトや本を読んでいると、確かにこれは、自分のことを書いているみたいや。ただし日常生活が送れないような深刻な自閉症とは違って、あれや、これや、自閉症者に見られる細かな症状が、それぞれ程度を落として自分の生活にこっそり(でも至る所に)出現している。いわば、自閉症のミニチュア版みたい。専門的にはおそらく、「非障害性の」自閉症スペクトラムと呼ぶんやろう。

そもそも「自閉症」というのは、専門的には既に廃止された用語らしい。いまは「自閉症スペクトラム障害」という。紫から赤までの色とりどりを纏めて「虹」と呼ぶように、自閉症スペクトラム障害にも色んなのがある。しかもややこしいことには、例えば「虹の中に橙色はあるのか」問題のように、内側での症状の区別や定義が定まっていないということ。さらにいえば、赤の外と紫の外にも、人間の目に見えていないだけであって、赤外線と紫外線がある。自閉症スペクトラムもそれと同じく、たまたま見える症状と、気づかない症状との間には、恣意的な区別しかない。そして最終的には、虹って結局、地球上に満ち満ちている「光」というものが、ちょっとした加減で特別なモノのように見えただけですよね、結局それは光そのものなんですよね、みたいな話になる。自閉症スペクトラム障害も、じつは人間の本性そのものがちょっと違った形で見えているだけなんじゃないか、という考え方が出てくる。

 

そういうわけで、フェイスブックのコメントで色んな人がさんざん「それは私も同じよ」「程度問題なんじゃないか」「だれしもそんな感覚を持って暮らしてるんじゃないか」と書き残して言ったのは、ごくごく理解できることであり、そして正しいことなんやと思う。

しかし、それは正しいことであり、同時に、正しくないんです。これはちょっと難解です。一つ一つの症状を取って見た場合、たしかにそれは「程度問題」に過ぎず、多くの人に共有されている「問題」かもしらん。でも色んな症状を総合して考えたり、また本人が生活する上で不便や苦痛を感じているかどうか、それの程度はどれくらいか、といったことを考慮し始めた時に、自閉症スペクトラム障害の射程に入る人と、入らない人とが分離し始める。

自分自身の場合、精神科の診察を受けたとしても、自閉症スペクトラム障害の診断が与えられない可能性は十分にある。なぜなら、日常生活に支障をきたしている程度が、そこまで大きくないから。しかし、何をもって「日常生活に支障をきたしている」と定義するのか。自分にとっては、支障をきたすギリギリの場面がしょっちゅうあるし、少なくともヒヤヒヤしたり失敗して後悔したりする苦痛は間違いなく存在している。それを「気にしすぎ」と呼ぶ人は、もちろんいるやろう。そこはもう、医者の判断次第なのでなんとも言えない。でも何であれ、自分にとってこれはもはや明確に、スペクトラムに掠っているか、内側です。虹で言うと、赤外線と赤色の境目ぐらい。「んーー、あそこは赤か??いやぁぁー、んー、難しいぃぃ、わからん!!全く透明と断言する自信はあんまりない。まぁギリギリ赤やろ」ぐらい。

 

前回の投稿の中でもとりわけ、「人の気持ちがわかってしまう」件が、人々の心中に有声無声の波紋を広げたことでしょう。《これは本気ではないやろう》《筆の勢いが余ってここまで書いちゃうのも、まぁ状況が状況なので同情してあげる》《いやまてよ、そんなこともあるんかな、いやないやろう、いやどうなんやろう》《人の気持ちがわかったつもりでいる。どんだけLOVE & PEACEやねん》とか、人々は思ったことでしょう。

あれから自閉症についての本を読んでさらに考えた今となっては、もっと正確に書けそうです。

混乱させてしまいますが、まず僕は、人の気持ちが、全然わからないんです。始まりはこれです。

自閉症の本を読んで初めて知ったんですが、世の中の人は普通、互いに何となく相手の気持ちを感じ取れるものらしいですね。しかしそれはどこまでいっても「何となく」であり、もちろん最終的には「他者は他者」なんでしょうけど、でも出発点には常に「共感」がある。のですか?そうなんですか?

「そうなんですか?」と言われても、そうとも違うとも答えられないでしょう。これが、難しいポイントです。でも僕の経験的には、人々は「常識的に」相手が嫌がる「であろう」ことはしない(ことになっている)し、相手の「気持ち」を考慮に入れてどんなことを言うべきで言わないべきかを、ごく「普通に」知っているようです。よね。そうなんでしょう?

もちろんどんな人も間違って相手を傷つけるし、顰蹙を買うこともある。が、僕から見るとみんなは、それを避けるための天性の才能を持っているように見えます。僕にはそれができない。この能力を、仮に「直観」と呼ぶことにしましょう。ぼくはこの「直観」が無いです。もしくは弱いです。

直観が無いとどうなるか。相手と話をしている時に、自然にわかってしまうはずの相手の気持ちがわからない。コミュニケーションというものが、その直観能力を前提として成り立っているとすると、このときコミュニケーションは破綻します。しかし僕は破綻したコミュニケーションを見ると、それが破綻しているとわかります。それは気持ちの問題ではなく、ものが正常に動いているか壊れているかの問題だからです。

おそらく自分のせいでコミュニケーションが破綻したのを見るのは、辛くて、嫌なので、避けたいです。人間には、直観能力の他に、知性・知的能力がある。知性とはつまり、観察して、演繹して、帰納して、結論して、応用する力のことです。この知性については、幸いに僕は欠落していなかった。むしろ、平均より優れているかもしれません。直観がなく、(高い)知的能力だけあるとき、もちろん問題を知的能力で解決しようとします。

人の感情と行動との間には、大抵ある程度のリンクがあります。怒った時は怒った顔をするし、嬉しい時は嬉しい顔をする。これは突き詰めていけば、もっともっと微妙な感情や些細な表情についても言える。でもそれはすごく微妙で読み取りが難しいので、普通の人はそんな微妙な感情と些細な表情の変化との間の相関については、特段の注意を払わないんやと思います。そのかわりに普通の人は、ごく常識的な、直観的な共感能力に従ってれば、相手の感情が何と無く想像できるし、それ以上立ち入った深く正確な共感というのは不要なんでしょうきっと。しかし僕にはその必要がある。直観がないから。

どんな知的技能もそうであるように、相手の感情をその行動や表情から読み取る技能は、訓練で向上します。普通はその訓練をする前に直観に頼ってしまうから、訓練するのが難しいんじゃないかな。僕は直観がなかったおかげで、生きること(社会的に生きること)が、その訓練をすることと一体になったと思う。

しかしその訓練と実践は、疲れます。相手の声のトーンが少し変わるだけでそこに感情を読み取ろうとする。語彙が少し変わるだけで何かを読み取ろうとする。声の大きさが変わるだけで。口角が少し上がっているだけで、少し下がっているだけで。目が少し見開かれるだけで。左手の指で右手の指を触っているだけで。姿勢の傾きが少しいつもと違うだけで。これらの観察と読み取りには、正解はひとつではない。答え合わせも、ほとんどの場合できない。 無限に観察を続け、無限に自問し続け、無限に仮説検証を試み続ける。そして正解やったと思えるごとに喜び、間違っていたと思えるごとに(そのために引き起こされた実際上の失敗とともに)落ち込む。

そしてこの技術は常に、現実に対して後追いです。事前に感情を予期することはできず、既にそこに生起している感情を事後的に読み取ることしかできない。したがって、どれだけこの技術が長じても、依然として顰蹙は買うし、かつ顰蹙を買ったことは自分の目がありありと察知する。その結果、失敗に落ち込む。

僕が「コミュニケーションが苦手」というときの「苦手」の意味は、もっと突き詰めれば、「果てしなく疲れるのに、結局最後はよくわからんで終わるし、そしてよく失敗を叩きつけられる。こんなこと、何故しなあかんの」ということやと思う。

しかし、果てしなく疲れながらも終わりのない仮説検証を繰り返し自分を訓練した結果、本当に微細な表面上の様子から、相手の気持ちがかなりの程度わかるんです。 そしてその「わかる」程度は、たぶん既に、普通の人たちが直観によって「わかる」程度を凌駕していると思います。だから、前回の投稿で書いたように、「相手の気持ちが手に取るようにわかってしまう」んです。前回投稿執筆時点では、こんな仕組みについて、これっぽっちも理解してませんでした。その後勉強して、わかりました。

成果としては対戦相手を凌駕していても、その仮説検証は終わることがないんですよね。何故なら、直観能力で気持ちが普通にわかってしまう時のような、「腑に落ちる」感覚がないから。だから僕のその「超能力」は、これからも進化を続けます。しかしどこまで進化を続けても、疲れるし、「やっぱりよくわからん」という最終的な結論はいつまでも変わらない。このことを、できれば周囲の人には知ってほしいと思っています。

 

ちなみに、学習能力検査で視覚的な認知能力が非常に高かったのは、これと関係してると思います。因果関係はどちらが先かわからないけど、あえて言えば相互のフィードバックやと思う。目で見て理解する能力が高かったからこそ、コミュニケーション能力の欠落についてそういう補い方が可能になり、そういう補い方が必要やったからこそ、目で見て理解する能力が研ぎ澄まされたんじゃないかな。

そして読書スピードが(特に英語で)遅いのは、このことの副産物という側面があると思う。視覚的な認知能力が高いから、ついそれに頼ってしまう。表意文字なら視覚的な文字が意味になり、表音文字なら、意味をまず視覚的イメージに変換して、その視覚的イメージを見ることで意味を理解する。28年間それでやってきた結果、もはやそういう読み方しかできひん。

他の人がどういうふうにものを読んでるのかは未だによく分からないんですが、おそらく、言語的な意味をそのまま言語的に理解してる(というか、それが出来る)んじゃないんですか。情景やシーンを描いた物語のような文章なら、その情景を思い浮かべるという意味で、僕も他人とそんなにプロセス・速度が変わらないと思います。が、抽象的な言葉や議論になると、僕と他人とでは読むプロセス・速度が異なってくるみたいです。僕は言語を、視覚的な図とか図形とか形とか空間模型とかに変換しているように思う。そのためにいちいち時間がかかる。いろんな人に聞きまわっている限りでは、どうもこれは特殊なことみたい。普通は、言語を言語的にそのまま(ってどういうことなのか不明やけど)理解しているよう。

しかしまだよく分からないことはいくつか残ってる。

 

1.自分自身も、英語と日本語では明らかに文字情報の処理プロセスが異なってる。日本語で読む場合は、視覚的な文字情報がそのまま意味に繋がってる感じがする。だから、その処理方法が他の人の読む方法と異なっているのかどうか、よく分からん。周りの人に聞いて回ったのは基本的に日本人なので、英語で読む場合に皆がどうやってるのかについては、正確には分かっていません。もし、英語運用をすごく訓練したか、あるいは日常的に行なっているような、「英語は自分自身の一部ですよ」という人がこれを読んでいれば、是非訊いてみたいです。

 

2.人とのコミュニケーションにおいて「直観」が働かないことは、文字情報を読むときに「言語的」処理が働かないことと、関係してるんやろうか。

ここで皆に訊いてみたいのは、人の気持ちをなんとなく直観的に想像したり理解する(「わかる」)ときの処理プロセスは、言語的ですか。分かるために言語を使っていますか。

「言語をつかう」というのが具体的に何を意味しているのか、と逆に問われそうですが、それは僕には分からないんです。なぜなら僕は言語を使って何かを理解することが、(たぶん)皆無だから。自分ではしたことがない行為・できない行為について理解を深めようとしているんです、なので「その行為というのが何の事を指しているのか分からんから、もう少し説明してくれ」と言われても、「いや、それを訊いてるんです」としか答えようがない。

 

これは一体なんなんや。この自分の中にある、特殊なような普通なような、良いことをしているような悪さをしているような、大きいような小さいような、掴み所のないこれは。

来週の火曜日には、関西空港に着陸しています。今は何もせず、出発の日を待ちつつ、毎日ゆっくり荷造りをし、小説を読み、映画を見て、たまに人と会っています。

アメリカで受けた学習能力検査で、読むスピード(英語)が「1パーセンタイル」(=「100人の平均的な集団において下から1人目」)と出た件について、自分の感じるところを一回言葉にまとめておくと便利な気がするので、ここに書くことにしました。

 

小学生高学年か中学生くらいの頃に初めて、周囲の人(同級生や家族)に比べて自分の読書スピードが遅いことに気づいたと思う。

一、「週刊少年ジャンプ」や単行本の漫画を読むのが、兄と比べて明らかに遅かった。「お前まだ読んでるんか」みたいな会話があった気もするし、兄のことを横から見てると、一瞬で読み終わってるのが不思議やったのを覚えてる。

二、中学校の電車通学時間に読む小説や新書が、なかなか読み終わらんくて疲れた。これは特に母親との比較で気づいたと思う。母親は通勤の短い時間で次から次へと小説や新書を読破し、どんどん本棚に積み重ねて行く。これに対して自分は、一つの本を読むのに何週間もかかり、しかもすごく疲れる気がした(何週間もかかるというのは実際そうであったけど、疲れたというのは人と比較しようがないので未だによく分からん)。また、図書館で借りられる本が2週間で返却しないとあかんことが、ほんまに意味不明やった。どうやって2週間で読み切るんやろう、と、全く不思議でならんかった。

三、学校の国語の授業で、教科書やテキストの一節を精読するという時間があった時に、「はい、じゃぁここからここまで、今読んでみてください。」という指示が先生からあると、数分経って「はい、もうみんな読めたな」となる。見回してみると自分以外の生徒は皆、当たり前のような顔をして前を向き直ってて、確かに「みんな読めた」としか思えない雰囲気が支配している。が自分はまだ半分くらいしか読めてない。こういうことが何回もあったので、同様の指示の時は大急ぎで読むようにしたけれども、それでも間に合ったことはなく、途中までしか読めないか、流し読みのようにしてギリギリ最後まで辿り着き内容がよくわからないか、どちらかやった気がする。

四、進学校やったんで、よく模試を受けた。その度に、現代文のテストを解くのに時間が圧倒的に足りひんかった。普通に文章を読んでると、問題を解く時間が全く無くなる。ある時点で「出口の現代文」とかいう参考書をやり始めて、効率的に読解する技術を身につけたおかげで、比較的問題は軽くなった。学校の中間・期末試験についても同様の時間不足問題があったのかどうかよく覚えてないけど、普通に考えてあったはずや。それか、授業で扱ったテキストから出題してたとか何とかの事情で、問題が軽かったんやろうか。

こういう問題は中学生の時から大学受験までずっと続いた。大学に入ってからは、高校までみたいにカチカチに時間を設定された中で勉強をするということがなくなったから、あまり感じなくなった。が、今から振り返ってみると問題はいっぱい起きてた。

五、自分は学期中・休暇中を問わず興味のある本をずっと読むよう努力をしていたし事実そうしていた。その反面、大学の授業のために買った教科書や本はほとんどが全く読まないまま積み上がっていたし、真面目に勉強しようとしている同じような志向性の友達と比べて自分は全然知識が無いなぁと常に感じていた。さらに、バイトやサークルよりも勉強を優先したいとの気持ちから、バイトもサークルも他の人より少ない量しかやっていなかったので、時間は多くあったはずであり、それにもかかわらず上記のように読めない本が積みあがったり知識量が少ないと感じていたことは注目に値すると思う。

六、それなりに頭は悪くないはずやけど、抽象的な現代思想の本が全く理解できひんかった。人類学が自分にとって面白いと思えたのは、高度に抽象的な思想を扱っていながら、同時に具体的な言語や事例を通してそれを議論しているから、従って理解が可能やったから、なんちゃうやろうか。ただし、現代思想みたいな本は誰にとっても苦労するものやと思うから、これだけを以って何かが言えるわけでは無い。が、あとで詳しく書くような、文章理解をする時に僕が行ってる質的に特徴的な方法が、これと関係しているかもしれない。

七、ここ数ヶ月で初めて気づいたことやけど、英語で文章を読むときと日本語で文章を読む時の自分の理解の仕方を比べると、明らかに違いがある。英語では、単語ひとつひとつ、節ひとつひとつにつき、いちいち書かれてる内容を情景とか具体的な絵へと頭の中で変換して初めて、意味内容が分かった気になれる。そうしないと、情報が何も頭に入ってこない気がする。そうしないと、文字の羅列が単なる模様に見えてる気がする。(「単なる模様に見える」というのは、実態からわずかにずれのある表現のように思うけど、これ以上正確な表現が思い浮かばない。)一方で日本語で読む場合は、文字(特に漢字?)が、絵としてそのまま意味にリンクしてるみたいに感じる。文字から情景、情景から意味という回路を経ずに、文字(=絵)から意味、という風に直結している感じがする。したがってその分、処理が早くて、英語で読むよりも日本語で読む方が早く読み進められる。

 

さて以上が、直接的に「読書」に関係するこれまでの経験。このほかにも、問題の根本において深く関わっていると思われる事象がいくつかある。

 

一つ目は数字・計算。

一、小学生の時から大学受験まで一貫して、算数・数学が苦手やった。中学受験では、1年かけてコツコツ勉強した結果、最終的には算数も別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならなかった。大学受験では、かなり苦労してコツコツ勉強した結果、やっぱり別に極端に苦手な科目では無くなったけど、決して得意にはならんかった。

二、中学受験・大学受験に共通して言えることその一。まず、常に計算ミスが頻発したこと。中学受験の頃は「ケアレスミス」という名前で呼ばれていて、そういう名前があるから普通のことやという感じがしていた。大学受験の時も計算ミスは起こしがちやったけど、訓練をする中でよく注意する習慣を身につけたおかげで、最終的にはそこまで多くはなかったと思う。が、計算ミスをしがちな傾向それ自体は最後まで変わってなかったと思う。最後まで、計算ミスをしていないかチェックするときの精神的な緊張感はすごいものがあった。

三、中学受験・大学受験に共通して言えることその二。計算ミスをする理由でもあるんやが、数字自体を思うように操れない感じが常にした。例えば簡単な暗算や筆算でも、一桁の数字と一桁の数字を操作しようとすると数字が手のひらからスルスルとこぼれ落ちるような感じがして、前に進めない感じがすることがよくある。例えば、8+7を計算しようとして、答えは15かなぁ、と思うけど、なんかよくわからんくなってくる。数それ自体を、どうやって計算すればいいのかが、わからへん(今もわからへん)。代わりにどうやって計算するかというと、まず8を5と3に分解し、次に7を5と2に分解する。出てきた5と5を足して10にした上で、2と3も足して5にし、最後にその10と5を足して15やと確認する。もちろんこの過程を全て鉛筆で書くわけではないけど、頭の中ではこういうプロセスを経る。いつも経るわけではないけど、スルスルと数字が手のひらから抜け落ちる感じがするときは、こういうプロセスを経ないと前に進めなくなる。なぜ5とか10とかを作ると安心する(自信が持てる)かというと、それがブロックのように見えるから。頭の中で「5」の大きさのブロックがあって、これを積み重ねて積み木みたいにして、最終的に出来上がった積み木の高さを見て「15やな」と言っている。そういう感覚。8を5と3に分解できたのはなぜか?という疑問も浮かぶけど、ほんの少しの程度なら数それ自体の計算ができるのかも知らんし、もしくはもうルーティンとして記憶してしまってるんかも知らん。自分としては、後者である気がしてならない。事実、8+7が15かなぁと最初に思うことそれ自体も、(ブロックの積み木による)計算の結果では無く、まず記憶として(覚えてしまっていて)処理している気がする。九九と同じ仕組みで。

四、学校の勉強に限らず、生活の中での数字の計算も難しい。しかも、学校でやる数字の計算は長年の訓練を経たおかげでルーティンとして身についた一方で、普段の生活の中で直面する数字の処理はそういう訓練を経ずにいきなり現れるものが多いので、実のところこっちの方が辛いことが多い。例えば買い物の時の会計計算、お釣りの計算、そういった計算が辛い。毎回、桁が違うし、求められるスピードも場面ごとに違うから、なかなかパターンとして確立して訓練できない感じがする。あるいは、アメリカに来てすごく思ったのは、チップの計算ができない。会計の15%とか20%を適当に(大雑把でいいから)計算してチャチャっと書くというのが、全くできない。何を手掛かりに計算をし始めればいいのかすらわからなくて、固まってしまう。で、半年くらい生活したらだんだんパターンがわかって来て、機械的に10で割って2をかけたら20%、みたいな定型式に当てはめるようになった。つまりここで行ってるのは、数それ自体の計算では無くて、パターン化されかつ視覚化された(0を一つ減らす、2倍する)プロセスに過ぎひん。

 

二つ目が、仕事の面。これについては、自分が他人と比べて特殊やという自信は読書スピードや数字の計算についてよりは弱まってきて、「これももしかして関係してるんちゃうの?」という程度。

一、飲食店でアルバイトしてる時、仕事をなかなか覚えられへん。ルーティンの、しょうもない仕事。この注文の時はこうする、あの注文の時はああする、これはここにある、あれはあそこにある、そういうの。しかし逆に自分の部屋の中のものが具体的にどこにあるかは、視覚的に明確に覚えていることが多い(あの棚の上から何番目の段の右端のあれそれの裏に、あれそれと一緒になって袋に入れてある、とか)。後で書くけど、視覚的記憶に頼れない場面(手続きを覚えること)とか、自分で置いたのではないものが一つ一つの印象が薄くてどれもこれも同じに見えてしまう時とかにおいて、どうしても情報をうまく手のひらの中にとどめておけないんちゃうやろうか。数字がヌルヌルと手から滑り落ちる感覚と似ている気がする。

二、同じく飲食店のバイトで、言われた注文を覚えられへん。言われた瞬間に必死に頭の中で反復して、もしくはその場でその瞬間にメモをとって初めて、厨房に伝えられる。ちょっとでも同時に何かを言われてしまい頭の中の反復ができなかったり、メモを取る手が塞がってたりすると、たちどころに注文を忘れてしまい、聞き直しに行くか、間違えて伝えて怒られる。反復して覚えようとする時は、頭の中で声に出して言ってその音を頭に焼き付けるか、もしくは頭の中で文字として書いてその画像を頭に焼き付けるか、どちらかしか方法がない。それ以外、どういう風に記憶を留め得るんやろうか。みんなどうしてるんやろうか。

三、2年間働いた行政機関で、内部で使っていた或るシステムの使い方が、2年間かけて結局わからないまま終わった。一応「一番大事なシステム」ってことになってるんやけど、あれやこれやで使わずにすませたり、適当に操作してなんとなくごまかしたり、いちいち周りに聞いたりしながら、結局よくわからんまま終わってしまった。「あのシステムはすごく使いにくい」という感想は一般的な感想としては周囲と共有できたけれども、「全く使い方がわらかん」というレベルの人は(ほとんど)見たことがなかったし、周りの人は「使いにくいよね」と言いながらも「まぁそんなもんや」程度に思ってるようやった。自分としては、全く使い方がわからず、みんながどうやって仕事をしているのかほんまに意味不明やった。どうやって次から次へと本を読破して積み上げていくのか、ほんまに意味不明やった時の感覚と、似ていなくもないかもしらん。

四、(加筆)これは仕事に限らず日常生活で、人の名前と誕生日を覚えられない。誕生日は別に覚えなくてもいいけど、名前がどうしても覚えられないのが辛い。初対面の人に名前を聞いて、5秒後には忘れてる。「あぁ、山田さんですね」と言った瞬間から始まり、その次の会話の交換をするまでの瞬間までは覚えてるんやが、何か次のことを考えた瞬間にもう忘れてる。この忘れている感覚は、全く何かの魔法にかかったかのように、その部分だけ綺麗さっぱり消えていて不思議な感じがする。これを忘れないためには、何回も何回も必死に頭の中で反芻する。もしくはメモを取る。たまに、相手の名前を一回聞いただけでその会話中ずっと覚えている人を見かけるけど、どうやってるんかほんまに謎。あと、「どこに住んでるんですか」みたいな、会話の最初にする形式的なやりとりについて、会話の最後の方に綺麗さっぱり忘れていることが多く、「〜〜です」「あ、ごめんなさいそれ最初に聞きましたね」というのをよくやっちゃう。話題が移り変わるに連れて、前の話題の記憶がどんどん綺麗さっぱり塗り替えられていってしまう、そういう感じがする。

 

三つ目が、自分が極端に得意な分野がいくつかあるということ。

一、目の前の人が感じていること、考えていることが、手に取るように分かる気がする。ほんまに正しく分かってるんかどうかは分からん(普通は確認のしようがない)けど、ものすごく生々しく相手の気持ちが感じられる(そういう気がする?)。まるで超能力のようやと、自分ですら感じる。

二、視覚的・空間的なメタファーに変換できる論理・主張・議論は、ほかの人より圧倒的に理解が早い。逆に自分が頭の中に持ってる視覚的・空間的なメタファーやそれに基づくアイディアを人に説明しようとすると、全然話が通じなくて、なんで分からへんのかが分からへんということがよくある。また、自分にとってはすごく単純でプリミティブですらあるように感じる自分のアイディアが、いざ人に対して言葉で説明しようとしてみると、とんでもなく複雑で厚みがあって非常に多くの言葉を要するものであるということに気づく、といったことがよく起こる。この場合明らかに、頭の中にあるときにはそのアイディアは言語という形をとっていなくて、視覚的・空間的なメタファーとして一目で理解されているから、そのせいで単純でプリミティブに思えてしまうんやと思う。例えば絵画を見るときに、誰かに対してそれを説明する必要がないなら視覚的に一瞥で理解できてしまう一方で、もしその内容を(細部や構造を言語化しながら)説明するとなるとすごく労力を要するやろう。それと似た感じ。

三、言語の習得が異常に早い。英語もベトナム語も、異常なスピードで身についた(ただし努力も人一倍した)。ほかの(まともに勉強したことない)言語も、相手が発した言葉とか、関連する別の言語の語彙・文法からの類推とかによって、その場で学び取って真似をすることで簡単な文章や意味内容を組み立てたりして、即興で意思疎通を図ることができる。そういうことをやったことがある言語は、タガログ語、イタリア語、ベトナム山地の名前も知らない少数民族の言葉、タイ語ラオ語、フランス語、(多分)ヘブライ語、中国語(これは一応勉強した)、などに及ぶ。これも、なんでこんな器用なことができるのかよく分からず、超能力みたいな感じが自分自身でする。特に発音を真似できることについては、なぜか相手の口の中の動きや筋肉の使い方が問答無用に「感じられ」てしまい、手に取るようにわかる。ほんまに不思議。

四、文章を書くのが得意なこと。幸いにも、文章を書くと読み手から褒められることが多い。大学の卒論で優秀論文賞みたいな表彰をしてもらえたのも、勉強がよくできたからではなくて、(準備に時間をかけたことに加えて)文章を書くのがうまかったからやと思う。何十ページもある議論全体が、いわば一瞥のもとに全て見渡せている感覚があって、それを丁寧に順番に言葉で説明して言っただけ、という感じがする。

 

 

さて具体的な事例はこれくらいか。こういう事例を思い返すことによって、自分の中で何が起きているのかという自分なりの理論を考えてきた。

数みたいな抽象的な概念を、その抽象的な概念としてそのまま理解・記憶することって、みんなはできるんやろうか。「259+18」とか言われたら、その意味を数概念のまま処理することって、みんなには可能なんやろうか。自分にはそれができない。この概念を処理する方法は自分にとっては二つしかない。一つは筆算(一桁足す一桁の計算の繰り返し)に分解するというもの。そしてもう一つの方法は、259と18を積み木ブロックに見立てて、頭の中で積み木を組み立ててその高さを測り、それを答えとして導出するというもの。しかし一桁足す一桁の計算それ自体もブロックに見立てるしか解く方法がないから、結局同じや。筆算にした場合はブロックの見立てを何度も(一桁足す一桁の操作の回数だけ)繰り返す必要があって、その分時間もかかるし混乱もするので、結局259と18のまま積み木ブロックに見立てて一回で済ませる方が効率的や。そういう訳で結局、こういう類の暗算は、まず18から「1」だけ259の方へ持ってきて(9+1=)10のブロックを作り、250と足して260を作り、その上に17を積み上げて260+17=277と答えを出す、というような回りくどいプロセスによって処理するしかなくなる。

数に限らず、どんな情報を処理・記憶するにしても、視覚的・空間的なメタファーが必要になってしまってるんじゃないやろうか。

漢字なら文字の視覚情報が意味に直結する反面、アルファベットで出来てる英語を読むときは一々情景を思い浮かべながら読むしか方法がないのも、これに合致する。日本語を読むときでもほかの人より遅いのは、漢字の視覚情報があってもやっぱり情景を思い浮かべるというプロセスをある程度頼らざるを得ず時間を取られるからではないか。

民族誌(具体的事例を通した議論)を用いる人類学の本がすっと腑に落ちて理解できた反面、(内容的にはかなり近しいことを言っているはずやけど、常に抽象的な表現をする)現代思想の議論がまったくチンプンカンプンやったのは、議論を具体的な情景に変換して読めるかどうかの違いやったんちゃうやろうか。

バイトのルーティンや仕事のシステムを覚えられないのは、物事の手続きや流れをそれ自体情報として処理・記憶することができなかったからちゃうやろうか。何らかの視覚的・空間的メタファーでしか情報を処理できないが、ルーティンやシステムの仕組みというのはそう言ったメタファーに変換しにくい。数的な情報とタイプが似ている。

受けた注文を覚えられないのも、それが無色な名前の羅列に見えたからちゃうやろうか。もし一つ一つの注文につき実際の料理の盛り付けを想像していたら覚えられたやろう。しかしそれではいちいち時間がかかりすぎるので現実的じゃない。「唐揚げ」と言われたら鳥唐揚げが五つ皿に乗って横にレモンが置いてある情景を思い浮かべる、なんてしていたら、次から次へと客が料理の名前を言ってくるから、間に合わへん。

目の前の人の気持ちや考えていることが手に取るようにわかるのは、相手のごく微細な表情とか振る舞いに対して視覚的に敏感で、それが示唆する内面的な動態を感じるとることができるからなんちゃうやろうか。その視覚情報と内面的な動態との間の相関が正確かどうかは、あまり問題じゃない。微細な視覚的情報に常に意味を見出してしまう、という自分の認知的特徴が重要。

文章を書くのが上手いのも、もしかしたら、頭の中の考え(=書くネタ)が非言語的な形をとっているから、それを言語化するときにほかの人と違う何かが起きてるのかもしらん。

外国語の習得が早いことについては、何か関連があるのかどうかよく分からん。でも、例えば赤ちゃんが言語を習得するときには、初めには何も言語がない状態で習得する(つまり言語以外の認知能力をベースにして言語を習得する)んやということを考えれば、仮に自分が視覚的・空間的メタファーで全てのものごとを認識しているんやとすれば、何か関連があってもおかしくないように思う。

 

誰か、僕の中で何が起きているのか、この認知的特質は一体なんなのか、知っている人はいませんか。もしくは、知っていそうな人を知ってたりしませんか。

涙、友達が自分を埋めてくれること、映画を支柱にして立つこと

小さい子供やった頃、兄ちゃんと連日のように喧嘩して(いじめられて?)泣き喚いていた。

ある頃から泣くことは減り、喧嘩も減った。それ以来、何か重大なことがうまくいかなかった時の数回を除けば、ほとんど泣いたことはない。が、ここのところ1ヶ月間、日によっては一日に何回も泣く。泣くのは、別に悪い気持ちはしない。涙が心を洗ってくれて、泣き終わったら心が落ち着く。泣くという特別な自助作用なくしては心の平衡を保てないような、そういう異常な心理状態が恒常化しているんやろう。

最近、手当たり次第いろんな友達に相談して話をしている。

研究職を目指すのを諦めるかどうか、とか、大学を辞めて日本に帰るかどうか、とか人生の出来事として結構重大な決断について、それぞれの人が考えを教えてくれる。大抵みんな、無理せずゆっくり休んだらいい、と言ってくれる。その度に、自分の負った傷をみんなが理解してくれている、優しさに包まれている、という感じがすると同時に、自分が傷を負っていること、自分が弱い存在であることを痛感する。自分の弱さと、それを包む優しさを同時に感じ取ることで、また顔がぐしゃぐしゃになって涙がほとばしる。自己が独りで存立できていない感じがする。自己存立の不在を、友達の優しさが埋めてくれている。

これまでの人生でも自分は、常に人の意見に耳を傾けるように努めてきたし、実際に人のアドバイスを聞きながら自分の決断をしてきた気がする。しかしそれは、人のアドバイスに身を任せる、というのとは全然違った。常に自分は力強く意見を持っていて、ただし見落としがあるかも知らんから人に意見を求める。しかし実際には、ほとんどの場合、自分に見落としはなかったし、出てくるアドバイスも予想の範囲内やったことばかり。結果的に、人に意見を求めながらも、選び取る決断は自分自身で下す決断であったし、感覚としても自分の意見に対して持ってる信頼が揺るぐことはなかった。

いま、人に言葉をもらうことで生きてる感覚、あるいは友達に自己を埋めてもらって生きている感覚は、これまでの人生で経験したことがない。人生で初めて、自己の存在が揺らいでいるのを感じる。

ここ1週間近く、毎日取り憑かれたように映画を観ている。

インターネット上に(不法に)溢れている映画を漁り、1日に2本も3本も観る。映画を通して、自分とは違う別の人生、別の世界を知る。別の世界を知ることによって、世界への(あるいは自分自身への)眼差しの立ち位置を、右に、後ろに、上に、下に、少しずつずらす。見る立ち位置を変えれば当然、世界は違って見えるし、一つの立ち位置から眺めながら感じていた悲しみも喜びも悔しさも望みも、全部が違ったように感じられ始める。

映画の世界の中で生きている人間の視点や立ち位置を借りてくることで、悲しさや悔しさに支配されてる自分の感情を、少しずつ別の感情に塗り替えていく。今の自分にとっての世界は逃れ難い苦痛一色で、自分で自分を支えるのが難しい。別の人間の視点や立ち位置を借りてくることで、苦痛を別の感情に塗り替えていかないと、直立して生きていけない感じがする。そのために、映画を頼りにする。映画を、手をかけて自分の体を支えるための支柱にする。揺らいでる自己の存立を支えるための、道具にしている。

 

人間の顔をして博士号を持った、コミュニケーションを生業とするプロの悪魔たち

ちょっと信じがたい話を書きます。

これまで周囲の人に「ほんまか?」と言われてきたのも、ある意味当然で、その人たちは悪くない。

取ってる3つの授業のうち、D先生の授業は、特に読み物の負担が大きくて全く手に負えない。しかし仮に読み物が全部はできてなくても、実際の評価対象である課題さえ何とか帳尻を合わせられれば、結局学位プログラムとしては形になるんちゃうか。というか、これまでの人生はきっとずっとそうやって生きてきたんやろう。そう考えた。そこで、10月の学期中間時点でのミニ課題を提出した後の面談で、その旨を述べた。「だから、ミニ課題の出来がどうだったかのを教えてください」と。

この時点でD先生はすでに、僕が読むのが極端に遅くて苦しんでるっていうのは知らされていたし、さらにその流れで鬱っぽくなってるっていうのも、知らされていた。その上で、この先生が言ったのは、「重要なのは課題がよくできてるかどうかではありません。重要なのは、読み物を読めてないから、それが理由でこのコースワークから学べていない、という事実です」。人が障害のような症状を持ってて、それを何とか克服しようと頑張ってて、でも出来ていないことを誰よりも自覚してるからこそ鬱が出始めてる、っていう時に、「あなたは学べていないですよね。それが重要な事実ですよね。」と指摘することに、何の意義があるんやろうか。それを、面談の1対1の重みのある会話の中で、わざわざ言葉を探してこちらの心に刺さるように的確な表現で述べることに、何の意義があるんやろうか。

さらに、この同じ面談の中の、この会話の直前のやり取りでは、その面談のすぐ前に行われた授業中に僕が力が出なくて机に顔を横たえたり目を閉じたりしていたことを指して、「今日寝ていましたよね。そういったことは、正直に話さないといけないので」と。いえ、鬱っぽくて力が出なかったんです、顔を埋めたり目を閉じたりしてましたが、聞いていました。そう言い始めたが早いか言い始めないが早いか、泣き崩れてしまった。自分の中で起きている現実の出来事や感覚と、目の前のこの人から見た解釈の中での僕の人格や気持ちとが、あまりにも乖離している。苦しんでいる結果どうしよもうなく起きてしまった出来事を、この人は特筆すべき怠惰な行動やと解釈している。

ひとしきり泣いた後に、ちゃんと説明して、気を取り直して現実的な会話をしようとした。そうして出てきたのが、上の「学べていないという事実」という発言。この人は、人間ではないんじゃないか。人間の顔をした悪魔なんじゃないか。

この面談があってから、この人の授業に行くのがほんまに辛くなった。行っても、この先生の顔の方を見られへん。ずっと下か、横か、上を向いてる。自分は間違ってないし、間違ってるのはこの人やけど、自分のできていないことを怠惰やと責められたり、十分に頑張っていないと疑われたりすると、不思議と自信を失う。自信を失ったんか?それすらもよく分からん。いずれにしても、この人の顔をもはや直視できひん。もしかしたら、この人に対する不信があまりにも積み上がりすぎて、自分の心がこの人とのコミュニケーションを拒否していたんかもしらん。そんな感じがするくらい、どうしてもこの人の方を向けへんかった。

ある週にはついに、この人の前に現れること自体のプレッシャーが強すぎて、教室にたどり着くまでの道の途中で立ちすくんだまま1時間動けず、諦めて欠席した。夜になってからメールで欠席の理由を説明したら、この人の返事は「そんなことが起きたなんて、恐ろしいです。あなたは、保健センターのカウンセリング・心理学支援サービスをもっと受けなくてはいけません」。カウンセリングサービスを、もっと受けなくて受けなくてはいけません…?人間の心理というのは、凝ってる背中の筋肉みたいに、マッサージを受ければ受けるほど良くなるようなものではないんです。週に1回いけば必要十分やし、それでもこういう辛い出来事は起きるときは起きる。起きたからといって、その時にカウンセラーのところに話に行くようなものでもない。帰って、ゆっくり休んで、心の落ち着きを取り戻すことしかできひん。この人は、人間の心理を、点滴を打って直すようなものやと思ってるんやろうか。ほんまに人間の気持ちがわからへんねんやこの人は。人間の顔をした悪魔なんや。

これと同時に、学期末の課題に対して何を書くかというトピックの提案を、自分からこの先生に対して行なっていた。その提案についての面談でも、この先生は「これは抽象的すぎます。どういう価値があってこの提案をしているんですか?どういう議論がここから生まれてくるのか、見えない。今のあなたの説明を聞いても、あなたが何もアイディアがない("you don't have idea about the proposal"=「プロポーザルについて、あなたは何もわかっていない」)ということが分かりました」。授業までの道のりで1時間立ちすくんで動けなかった、という話を聞いた直後の文脈で、こういうことを眉をしかめて言う。何のために?

この人は、人間じゃない。悪魔です。しかも単に悪魔なんじゃない。悪魔の発言と行動によって、僕のことを追い詰めようとしている。

別の授業のL先生。この人は学科長。D先生の顔を直視できなくなってからしばらく経ったころ、おそらくD先生から「最近彼、授業でも全然集中できないです、全然ダメです」とでも聞いたんやろう。ある日突然L先生からメールが来て、「明日面談に来てください。まだオフィスアワーのスロットが空いています」。教授の方から学生に対して、面談にこい、と言うことはかなり異例。しかも「明日」すぐに、「時間」まで指定して。行ってみると、ニスやワックスや漆やカラメルを塗りたくったような、要領の得ない曖昧で回りくどくて長々とした講話。でも要するに、全体として浮かび上がってくるメッセージは、「最近ダメよね君」。最近ダメって、あなたの授業ではちゃんとしてるやん。何を急に、どこかの誰かに吹き込まれたみたいに急に連絡よこして来て、根拠もよくわからんような曖昧なことを言ってるんですか?「だれかに言われたんですか?」と言っても、「いえ、私自身の考えです」。嘘つけ。確かに別の授業では教員の顔を直視できてないですよ、とは、言わなかったけど、「相対的には、あなたの授業はかなりちゃんとできています」と言ってやった。「相対的に」を2回も言って強調したのに、そこの意味を深掘りしてこうへん。すでに知ってるから、わざわざ聞いてこうへんのやろ。

最後にこちらから「以前から話してる障害支援室とのやり取りの件、どういう結論が出るか分かりませんが、結論に応じた現実的な選択肢を対応させて考えています」と言ったら、なんども頷いて納得した様子。要するに、それが言いたかったんやろう。要するにD先生と同じで、「あなたは勉強できてないから、ここでは続けられないと思うよ」、と言いたかったんやろう。曖昧すぎてアホらしいから、こっちから言ってやったわ。

この後にL先生は会議があったようで、会議の担当者がドアをノックして入って来た。「さきに横の部屋に入っています」と。このL先生、重苦しい雰囲気の真面目くさった人で、若いアメリカ人みたいにキャーキャー言ってハグとか笑顔とかを振りまくキャラじゃないのに、この会議担当者に対して"I'll give you a hug in a minute."。相手はちょっとびっくりして引いてた。これも僕に対しての(裏返しの)パフォーマンス。君以外の人には、こんな優しいんですよ、君には冷たくしてるんです、早くいなくなって欲しいから、というメッセージ。別の日にたまたますれ違った際も、明らかに一瞬こっちを見たのに、まるで気づかんかったかのように無視。

この同じ週の木曜日には、学科の3年生のフィールドワーク計画のプレゼンがあった。訳あって出席できなかった。その日の夜、この先生からわざわざご丁寧なメールがあった。僕が鬱に苦しんでること(=illであること)を知った上でのメール。

Dear ****,

I didn't see you at ****'s proposal presentation this afternoon. Perhaps you were in the room today and I failed to notice, in which case I apologize. If not, I'm writing to encourage your attendance. The email that **** sent everyone (below) lists three more that will happen tomorrow. Unless one is ill, everyone is expected to attend (as the Graduate Program Guidelines, which you received at the beginning of the year, described for first-year students).

The faculty consider all invited departmental talks to complement coursework by expanding students' awareness of anthropology and related fields beyond areas of departmental faculty's special competence. Third-year students' proposal presentations -- like the three presentations scheduled for tomorrow -- are of special importance for several reasons.

First of all, they give first- and second-year students a realistic understanding of what preparation for dissertation fieldwork entails.

Second, they are opportunities for you to get to know the kinds of advice that faculty offer to students. That advice is often applicable to your own future projects and hearing it may help you to decide which faculty members to work with next year.

Finally, giving and receiving advice among students is an important form of reciprocity: proposal presenters benefit from the advice of everyone in the room -- first-year, second-year, and more advanced students all have valuable suggestions to offer -- and all students in the room will take (or have taken) a turn to present their research proposal for comments.

I hope to see you at these events tomorrow.

この話を人にすると、「単に仕事として学生を参加させようとしたんじゃない?」とか、「病気って知ってるからこそ大丈夫か確認したくてメールしたんじゃない?」とか、言われます。

そんなこと、ありえない。このメールのどこに、病気であることを心配する要素がある?参加すべきである理由を、ガイドラインの引用まで行いつつ述べることは、心配するどころか単にプレッシャーを与える以外何者でもない。そしてそのプレッシャーこそが、まさに鬱の根本原因であるということを、この人は既に僕からよく知らされている。全く逆です。

プレッシャーを与えて僕を追い込んで、自主的に履修を諦めさせる、そういう目的しか、このメールの裏にはないです。事実、僕と同時にこのプレゼンを欠席した他の同級生3人のうち2人に確認したところ、こんなメールは全然来ていないとのこと。呆れて言葉が出ない。

このLとDのコンビは、本当に、隠喩でも直喩でもなく、本当に悪魔です。この人たちは、仮に僕が面談を密かに録音したとしても何のすっぱ抜きにもならないように、事実しか述べない。しかし、事実を、ある特定の文脈において特定の言い方で述べることによって、僕の精神状態を崖から突き落とすことができる。人類学者は、コミュニケーションのプロみたいなものです。その能力を、こんな風に使うなんて。これは一体何なんや?開いた口が塞がらへん。

僕はこんな人たちが暮らしている世界でやっていけるとは到底思わないし、頑張る価値すらないと思う。残念ながら、おそらく文化的に僕のことが気に食わへんかったのと、そもそもアジア人に対する偏見(人種差別)があるやろう。僕がズルをしているもしくはズルして来たと、根底で疑ってるんやろう。

ほんまに信じられへん。信じられへんけど、残念ながらこれが現実です。この国にはほんまに失望した。

 

複層化する自分の声

目下、完全に辞めるモードで生活している。今日も5ページの小さな課題の締切日やったが、間に合わせないとあかんという危機感はゼロ。すでに先生に対してメールを送り、言っておいた。「間に合いません。遅れて提出してもいいなら、します。どれくらい時間がかかるかはわかりません。遅れて提出してはいけないなら、この課題分が0点になるものと理解しています。」響きのない、無関心な筆致。ヒビの入った鈴のよう。

日本に帰ったらどうしようか。と、ずっと考えている。大学に入ってからというもの、これまでずっと一貫して、研究に向けての道を歩いて来た。行政の仕事を2年間していた間ですら、研究者としての視点で物事を眺めていた。アメリカで学位を取れれば、そのあとの人生において融通が効いてすごく有利になると思って、ここに来れることを素直に喜んでいた。5年間も、お金をもらいながら勉強ができるなんて、ほんまに夢のよう。

ところが来てみた途端、研究者としての根本的な資質が欠けてるかもしれないことに気づかされる、という顛末。アメリカであろうと日本であろうと、なんであっても研究者ができひんのちゃうかと、疑わざるを得ない。登っている階段の、ほとんど最後の段とまでは言えへんにしても、かなり上の方まで来たときに、自分の一段上に意地悪な悪魔が立ってこちらを見下ろし、喚き立ててる。「残念!その足の長さでは、こっから先の段は高さが届かへんみたいやねぇ。物理的に無理やね。自分の足の短さ、もうちょっと早くから真剣に悩んだ方が良かったんじゃない?」

28年の短い人生とは言え、それなりに努力をし、それなりに自信を持って、この先に道が続いてることを信じて歩いて来た。この時点で、歩いて来た道をもとに戻るのは、それなりに痛い。感情的で人間的な自分は、そう感じてる。日本で大学院に入り直したら、自分の言語やから少しは困難が減って、意外とギリギリやっていけたりするんやろうか。感情的で人間的な自分は、研究の道を歩き続けることにこだわってる。日本の知人に連絡を取って相談し、日本で学生をやり直している自分の姿を想像してみて、安心する。

と同時に、まだたったの28歳や、とも言える。これまで歩いて来た道の途中のどっかの地点まで戻って、そっから伸びてる別の道を歩き始めてもいいんやろうきっと、とも思う。理性的で優等生な自分は、そう言っている。これまでビクビクして挑戦できひんかった道に、思い切って踏み込んでみるチャンスなんちゃうか。そういう転機なんちゃうか。理性的で優等生な自分は、そう囁いている。高校生の時に考えてた夢にまで遡って思い返し、全く違う人生がこれから始まることを想像する。それが失敗するのを想像してビクビクし、それが成功するのを想像してワクワクする。

前者に賭けるのか、後者に賭けるのか。

そんなふうに考えた途端、別の声も聞こえてくる。「賭ける?人生は賭けなんか?」楽しく、リラックスして、周りの人と幸せに暮らして行けばいいんではないんか。進歩的で大人な自分はそう言って、もっと成熟した人生観を気取っている。焦らずできることをやっていれば、そこから自然に、充実感と幸せは生まれてくる。

人生は賭けなのか、賭けじゃないのか。

長く生きるほど、自分の中の声は複層化する。ただし複層化しても、古い層は昔と変わらん声高さで、存在を主張し続ける。結果、複層的な自分の声を調律して指揮し、不協和音から何らかの和音を生み出す技術が重要になる。淀みなく流れる普段の生活では、そんなに難しくない。何かが起こると、急に楽器を掻き回したような不協和音が生まれて、指揮と調律の技術が問われる。

おばちゃん達に取り囲まれて迎える後半40分・0対4の危機

障害支援室から連絡が遅いから、待ちきれずに殴り込んだ。じゃぁ今話そっか、ちょうどメール書こうとしてたとこ、と。いいですよ。

この検査結果を見ると、なんか読む速度だけ氷山のクレバスみたいに極端に低くなってて、どういうことなんやら、よう分からん。これ、うちでは障害って呼んでないよ。学科への特別措置の依頼とか、だからできませーん。ていうか大体、なんでこんな低いの?問題解かずにボーッとしてたん?言語処理能力も悪くないし、数学の処理能力も悪くないし、なんも悪いとこないやん。学科に何かをお願いするなら、自分でお願いしてちょ。

とのこと。このおばちゃんが考えたのは要するに、「障害」に関して自分たち専門家が持ってる理論的パターンに当てはまらない検査結果なので、検査結果がおかしいに違いない。読むスピードだけ極端に遅いのは、障害っていう認定だけもらって楽チンしようとしてこいつがズルしたとしか考えられへん、ということのようでした。おばちゃんはこれを確信しすぎてて、こいつは悪い学生や、真実を暴いてやるぅっ!という気概に溢れすぎてて、疑いの目や態度をもはや隠そうともしない。露骨にこちらを疑う蔑みの目つきで、言葉の端々に嘘を見つけようとしてくる。

あっ目が2〜3ミリ飛び出ちゃってるな今、と感じるくらい怒ったのは、この時が人生で初めてでした。しかしただ怒っても、相手は自分なりの論理で、正当なつもりでこちらを疑ってる。論理には論理で対抗せねば。なので目を飛び出させたままで、論理明晰に反論をする。そんな芸当、なんせ初めてやったのであんまりうまくできませんでしたが、とりあえず大声を上げすぎて、部屋の外の待合室にいた人らはビビらせてやった。

僕のことを疑ってるのは、このおばちゃんだけじゃないです。このおばちゃんに入れ知恵したのは、この検査を実施した外部の心理学者やろう。あっちも、なんか嫌ったらしい顔した化粧の濃いおばちゃんやった。学科の先生らも、同様に疑ってる。この先生らも二人ともおばちゃん。(おばちゃんばっかりやん。)

幾多のおばちゃんたちは、きっとこんな風に考えてるはずです

①こいつは大学をいい成績で卒業して、ロンドンで修士号まで取っとる

②この大学院に入ってくるための審査もパスしてやって来とる

③英語の試験(TOEFL)も、リーディングは満点とか取ってやがる

④その上で今更、「読書ができないんです。えっへん。」とか吐かしてる

⑤さてはこれまでの学部・修士をズルして切り抜けて来たか、そうでなかったら今ズルして切り抜けようとしてるに違いない

⑥どちらにしてもお前は嘘つきだ!

障害支援室のおばちゃんの尋問を受けてると、あれ、いやちょっと待て、実は実際のところ僕がズルしてたんちゃうやろうか、みたいな感覚になってきました。これは危ない。冤罪はこうやって起きるんやで...。

待合室の人らをビビらせた成果があったのか、翌日には障害支援室のおばちゃんから「もうちょっと考えてみるから、TOEFLがなんでそんなに良かったんか、教えて」とのメールが来た。

最初はこの質問の意味すら正確に把握できなかったんですが、よくよく考えてみると、アメリカ人というのは日本の受験みたいなテスト地獄を体験してないので、TOEFLみたいなテストの結果は実際の能力の純然たる反映である、的なユートピアンお花畑な考えを持ってるんでしょう。そういうわけで、TOEFLなんていうものはね、おばちゃん、文章読まんで問題に答えるのがプロの仕事なんです。それが読書スピードの反映やなんていうヌルい考えでのんびり受験してて、それでアメリカ来れると思ってんのかボケッッ!!!というメールをA4で7ページくらい書いて送りつけました。こいつらほんまに世間知らずやな。自分たちの国が世界の中心やと思ってたり、そもそも自分たちの国の外に文明は存在してないと思ってたりするくせに、自分たちの国を目指して皆がどれだけ頑張ってるんかを全く知らん。

というわけで今は、おばちゃんの再検討待ち。しかしそれにしても、こんだけおばちゃん刑事さん達4人に取り囲まれたら、今後この拘置所で5年間もやってける自信は全く無くなってしまいますね。そしてそもそも、授業の数を仮に3つから2つへ減らしてもらえたとしても、読む速度が周りの人の10倍遅いもんやから、やっぱり到底無理なんちゃうかという感じは全然消えない。消えないどころか、学期末に近づいて課題をやろうとするにつれてますます強く実感する。

もうそろそろこのブログも、多分佳境です。速かったなぁー。サッカーでいうと、後半40分で0ー4、みたいな感じか。ロスタイムも入れてあと8分か9分かある!2分で1点入れるんヤーーーーッ!と頑張るか、いやいやいやいやもうエエやん。と諦めるか。その境目です今。 

トイレットペーパーから論壇まで、インド人からカウンセラーまで

ここ数日は激動やった。結論からいうと、精神の闘いの意味では一つ山を越えたかもしれない可能性が、全く非現実的ではない気がしないでもない。← 弱気。

ある日には、全くベッドから起き上がれずにただ死亡していた。おそらく鬱と呼ばれてるであろう症状を人生で初めて経験したが、これは不思議な感覚。体はどこも悪いことがないし、頭が痛いわけでもないが、躯体にパワーがない。パワーがないというのは、元気がないとか、気力がないというのとは、全く違った。元気、気力、体力、力、このどれもが、その状況を表すのにしっくりこない。パワー、と言えばなんとなくしっくりくるし、しっくりくる語彙は「パワー」以外に日本語に存在しない気がする(というか日本語ですらない)。おそらく「パワー」というカタカナ言葉が持ってる摩訶不思議なフォース感が、この不思議な死亡状態の掴み所の無さを上手く表しているように感じられるから、やろうか。元気がないことも、気力がないことも、体力がないことも、これまで何度も経験したが、そのどれとも違う。パワーがない。そしてパワーがないために、ほぼ永遠にベッドに横になってる。

ある日には、前の晩から行ってなかったトイレへ、翌朝のある時点でやっとこさ這いつくばって行った。その時、トイレットペーパーを手繰り寄せる右手人差指の小さなロコモーションが、それ自体、自分の気分を活性化させてくれるごく微かな効用を持ってることに気づいた。トイレットペーパーを手繰り寄せるロコモーションがもたらしてくれるパワーは、何を行うのに十分かというと、瞼を少し開くことくらい。それくらい小さなパワー。このパワーによって、しかし、鉛筆で何かを描いてみたら同様に少しパワーが出るんちゃうやろうか、という気にさせてくれた。トイレを完了して部屋に戻り、ベッドに戻ってしまう前にすかさず椅子に座り込み、鉛筆でうだうだと気持ちを書く。うだうだと鉛筆を走らせると、予想通り少しパワーが出てくる。このパワーはどれくらいの大きさかというと、「何をしたいか、を考える」ためにぎりぎり足りるくらい。このパワーによって何をしたいかを考えた結果、「料理をしたい、肉じゃがが作りたい」と思った。そしたら今度は、料理をしたい、と考えるその精神的ロコモーションそれ自体が、また少しパワーを生み出す原動力になった。なんせ自分の気持ちの動きを生み出してる。すごく前向きな感じがする。料理をするためには食材が必要で、かつ結構莫大なパワーが必要。そんなパワーも、食材もない。でも、今度食材を買いに行くときにどういう道を通って自転車を走らせればいいか、それを調べることはできる。グーグルマップでこれを調べるために必要なパワーは、「料理をしたい」という前向きな精神的ロコモーションのおかげでギリギリ得られた気がする。グーグルマップで調べてみると、思いのほか簡単なルートで、しかも車道をあんまり走らずにサイクリングロード的な道を通っていける!これはグッドニュース。グッドニュースであり、非常に生産的で前向き。その生産的で前向きな調査成果によって、またもう少しのパワーが生まれた。このパワーは、ある事実に気づくのにギリギリ十分な大きさやった。すなわち、今キッチンにある有り合わせの食材でも、実はなんらかの料理が作れるかもしれないということ。肉じゃがが作りたくて、牛肉がないとは言え、別に鶏肉で鶏ジャガを作っても良いんでないの?考えてみれば鶏肉もジャガイモもタマネギも人参もある。醤油もみりんも砂糖もある。なんでこんな簡単なことに気づかんかったんやろう。この気づきは、それ自体がとても大きな成果。成果は、パワーをくれる。このパワーはついに、キッチンまで降りて行って実際に料理を始めることができるくらい大きかった。鶏よ、冷凍庫に眠っていてくれて、ありがとう。ジャガイモよ、2ヶ月も棚の中で静かに眠っていてくれてありがとう。隣人の生姜からは20センチの茎が生えてきてるけど、ジャガイモはだいたい大人しく眠ってくれてる。ここまでくると、もう後は自明のプロセス。料理ができればこっちのもの。鶏ジャガを食べ終わったら、もうかなりパワフルです。荷物を用意して服を着て、図書館まで自転車を漕いでいける。図書館に座ったら、その空間の力によって勉強する気分が訪れる。

もう内容は二の次で、とりあえず気分的に勉強した気になることが重要。ある本の一章を読むと見せかけて、すべての段落の最初と最後の一文だけを順番に読んで行く。内容がわからんでももう無視。そうしたら数時間で、その章の終わりまで到達した。この達成感はすごい。達成感それ自体によってまたパワーが生まれる。この時点で19時頃。

この日、東京に住んでる友人が、トランプ勝利について考えるスカイプ会議を準備してくれていた。参加者は、東京に住んでて関心のある人と、アメリカに住んでる彼の友人たち(←自分はこれの一人)。こちらの時間で21時から開始予定のこのスカイプ会議、当初は到底参加などできないかと思われた(というかそもそも、料理をする時点くらいまでその存在すら忘れてた)。でも図書館で勉強できたくらいの時点で、参加するだけならギリギリできるかも、という感じがする。でも発言は到底無理かも。マイクは向けないでほしい。友人には事前にメールでそう伝えた。ごめんなさい。許してください。

章の最後まで読みきった達成感を携えて、夕食を食べに図書館の外に出る。夕食を食べると、またパワーが出る。なんせ、生産的な活動に成功すると、それがパワーを生むんです。そのパワーを携えて、図書館の荷物を引き上げて家に帰り、スカイプの準備をする。3時間続いたスカイプは、前半は静かに黙ってる。しかしみんなの議論についていける。これは普段の英語の授業と全然違って、心地よい。みんなの言ってることが理解できるし、なるほど、とか、へぇ、とか、そうかなぁ、とか思うことができてる。なんという生産的な。パワーが出てくるのを感じる。ついに後半からは、思い切って発言ができてる自分がいる。しかも自分の意見が伝わるまで、伝えようとしてしつこく喋ってる。終わってみると、ほんまに有意義な3時間やった。

こんな姿、朝のベッドから動けない状況からは想像もできひん。トイレットペーパーを手繰り寄せる昆虫の足のようなか弱い、微かな動きから始まり、10人以上の前で堂々と自分の意見を陳述し、説得できるまで止めんぞと言わんばかりの、力強い出で立ちまで。遠い道のりやったけど、どのステップ一つを取っても、大きな飛躍はない。一個一個が、微かな、しかし確実に繋がっている次へのステップ。その無数の繰り返し。そのステップ一つ一つを、途絶えることなく、諦めずに繋げ続けること。そうすれば、いつかは必ず長い道のりも終わる。

別の日には、何人もの友達に助けられた。日本からメッセージをくれた友達。こっちで話を聞いてくれた友達。様子がおかしいのを読み取って、声をかけてくれた友達。それぞれが、それぞれのやり方で助けてくれる。そうなんかそうなんかと、とりあえず聴く。それはほんまに辛いよな、と理解を示す。こうやってみたらこういう結果にならへんやろうかと、生産的な提案をする。僕の事実誤認を力強く指摘して、ポジティブな方向へ考えを誘導する。あるいは、ただただアホなことを言って笑わせる。おかげで、友達に囲まれてる感じがするし、例の障害がそのままPhDの不可能性に繋がるわけじゃない気がしてきた。障害支援室からはまだ返事がないけど、きっとうまく行く気がしていた。少なくとも今はそう信じられるし、そのお陰で前向きになれる。特にインド人のクラスメートにほんまに感謝。あと、ずっと前に一番最初に話を聞いてくれた日本人の友達に感謝。

カウンセラーもそのインド人もそうやけど、苦しんでる人の話を「聴く」技術と言うのを、この人たちは持ってる。僕はこれまで全然うまく人の話を聴けてなかった、とひどく反省させられる。苦しんでる人の言うことを、まず何よりもそれ自体として受け入れる。何か別の問題に帰着させることもせず、大きな問題や小さな問題へ還元することもせず、自分の経験に照らした解釈をすることもせず。プラクティカルな次元では、まず苦しんでる人の話を過不足なく要約し、「それはほんまに辛いな」と一言添える。これだけでも、話す側はほんまに救われる気がする。その上で、なんらかの事実誤認のせいで不必要にネガティブに考えている箇所があったら、そこは力強く堂々と指摘して訂正させ、その面だけでもポジティブにさせる。感情的に共感できない(知らない)苦しみは、むやみに説明を求めず、ただただ聴く。本人が心地よく話せることだけを話して、それ以外は話さなくて良いと感じられるよう、会話の場を作る。聴く側は、自分について喋るのは最小限に押し留める。こういう「聴く」という実践は、その理論的構築を知ることすら僕には(実際に自分が聴いてもらう側になるまで)できひんかったし、仮にその理論的構築を知ってたとしても、的確に実践するのはほんまに難しい。つい自分の経験に照らして解釈をおこなってしまうし、別の問題に帰着させて理解してしまうし、自分の似た経験を語ってしまう。圧倒的に訓練が必要な次元の実践であり、この二人は明らかに訓練を行ってきたと思う。カウンセラーはもちろんやけど、聴いてみるとインド人の友達もやっぱり、一時期親しい人が苦しんでて、聴き手として相当頑張ってたらしい。立派や。

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