なんだかんだで、まだいます

アメリカで人類学を勉強するプログラムから早々に離脱した後日談

発達障害の本人にとって「生きることが辛い」というのは、どういう感覚なのか? 頑張って内面を言語化した結果。

発達障害の人が内面的な体感としてどう感じているのか、生きることについてどういう苦労を持っているのかについて、本人の目から見えるままに言語化した情報というのは少ない。外から見た説明は多いし、それも間違っているわけではないけれども、本人の感覚とは何かズレがある。すこしでも理解が広がるように、自分から見えてる世界を頑張って言語化してみたい。

 

ぐちゃぐちゃで苦痛を伴う「得意・不得意」

発達障害の特徴の一つに、脳機能の得意と不得意の差が激しいと言うのがある。これは表面的には、計算が大の苦手やのに道順を覚えるのはめちゃ得意、みたいな風に現れるから、その程度の問題(問題ですらない)と誤解されやすい。

実際には、本人の体感としてはもっとぐちゃぐちゃで苦痛を伴う特徴である。

 

「計算」というプロセスは、多数のミクロな作業から成る

計算とか道順記憶というのは、いろんな能力を総合して行われるかなり高次の作業やと言える。たとえば14+7という計算するためには、まず書かれてる数字を認知して、次にそれを論理情報として解釈し、その情報を脳の片隅で一定時間記憶しながら、これと同時に並行して、過去に記憶した計算パターンを呼び起こして来てそれに当てはめ、今回の情報を操作して、答えを出す。答えは、鉛筆で紙に書く瞬間まで記憶しておかないといけない。これらを全て恙なく完遂して初めて、「計算ができた」と言われる。このうちのどこか一つでもつっかえると、計算ができなくなってしまう。つまり、計算が不得意な人は、これらの多数の要素の一つまたはそれ以上がうまくできないということである。

道順を覚える作業も、同様に多数の要素から成り立っていることは簡単にわかる。しかし逆に、道順を覚えるのが極端に得意やという場合は、全ての要素が均等に高速に動いてくれるというのとは恐らく違う。むしろ、どこかの要素をすっ飛ばして出来てしまっている可能性がある。上記の計算過程に当てはめて言えば、例えば数字を認知した瞬間に、それを論理情報として解釈したり過去に記憶した計算パターンに当てはめて操作する代わりに、過去にこの全く同じ計算を行った時の答えを覚えてしまってて、まるで悟りのようにすぐ答えが分かってしまうかもしれない。もしそういう記憶力が強ければ、複雑な計算もその多くの部分をすっ飛ばして処理できてしまうやろう。

 

ミクロな脳機能は生活の全てに顔を出し、練習で克服できない

要するに発達障害の人が「得意・不得意の差が激しい」というのは、単に計算とか地図とかの総合的なスキルの問題ではなくて、もっと分解したミクロな脳機能の問題であるということ。その不得意な脳機能や得意な脳機能は複数あるやろうし、各々は汎用的な能力なので、それぞれが日常の様々な場面に顔を出す。したがって、生活の中で広範に影響を持つことになる。さらにそれは、脳機能の問題なので、練習で克服できない部分が大きい。

 

なぜ苦手なのかが全く分からないというモヤモヤ

そしてもっと大きい問題が、別の点に埋もれてる。上記のように計算過程を分解した時に誰しもが感じるように、計算というプロセスは普段は「計算」という総合的な概念でしかとらえておらず、分解して考えた途端に「なるほど確かにそんな風に分解できるかも知らん」と意外な感じがする。つまり分解要素として何が絡んでいるのかは、普段は考えないし、考えても必ずしもよく分からない。だから、計算が苦手な人にとって、なぜ自分が計算が苦手なのかがよく分からない。分解して考えてみよう、と気づいたとしたら少しずつ分かってくるとしても、気づかなければ分からないし、それに気づいたとしても正確なことはよく分からない。要素ごとにテストする実験は現実的に構築しにくいし、思いついたような要素分解の仕方が正しいのかどうかも、よく分からない。

つまり日常の体感としては、「簡単なこと、人が普通にできてる作業が、なぜか自分だけうまくできない。練習しても全く上達しない。しかし、なぜなのかは全然分からない」という感覚になる。

 

なんとかカバーしてくれるからこそ、常に極端に疲れる

さてこういう苦手意識を持って苦労しながら生活していると、人間の脳というのはすごいので、あの手この手でなんとかうまくやろうと工夫をし始める。計算プロセスに再び当てはめてみよう。例えば数字を短期間だけ記憶しておくのができなかったとすれば、何か別の方法で情報をとどめておく方法を、脳が勝手に編み出す。僕の場合は、数字をいちいち棒グラフに変換して、その絵を頭の中で見ながら計算する。こういう代替的な方法(専門用語で「代償」という)によって結果的に、本来苦手な程度よりはマシなパフォーマンスを、出すことができるようになる。

ところが代償は、いわば足で歩けない人が無理して腕で歩いてなんとか移動するようなものなので、本来は適していない脳の使い方やと言える。だから、結果的なパフォーマンスにおいて他人と比べれば、やっぱり劣ることが多いやろう。しかも、かりに同じパフォーマンスが出せたとしても、非常に無駄なエネルギーを使って疲れてしまう。

苦手なのが計算だけやったら、べつにいい。電卓があればいいし、計算に直面する生活場面は多くない。でも冒頭で書いたように、ミクロな脳機能のレベルで苦手があるので、生活のあらゆる側面で大なり小なりうまくできないことがある。そしてすぐ上で書いたように、それら全てにおいて、いちいち代償手段を開発し、エネルギーの浪費をし続けないといけない。例えば典型的には、会話をする際に相手の気持ちを汲み取るのが難しいことが多い。これを代償的手段で補っているとすれば、コミュニケーションにあふれた私たちの人間生活は、その全体が非常に疲れるものになってしまう。なってしまうというか、実際にそうなっているのが、発達障害やと言える。

 

何かがおかしいし極度に疲れる気がする、でも……

改めて強調するが、そうやって疲れてしまったとしても、何が原因で苦手になってしまってるのかが全く分からないという点が重要である。というかそもそも、疲れるなどという主観的な体感は他人と比較ができないので、自分が他人と比べて疲れているのかどうかすら、よく分からないというのが実情やと言える。まとめると、「何かがおかしい、うまくできない、めちゃくちゃ疲れる、でも本当に何かがおかしいのやろうか、これが普通なのやろうか、分からない……」と感じ続けるのが、発達障害の人の人生ということになる。

 

周囲からのトドメ刺し

さらに、ますます問題をややこしくしてしまうカラクリがある。発達障害の人がそうやって疲れてしまう苦手な作業というのがあまりにも日常的なものなので、それらの作業は、発達障害じゃない人たちも含め誰しもが同様に日常的に行なっている。会話、計算、道順、着替え、歯磨き、食事、などなど。その中には、誰しもが「ある程度は」苦手意識を持っていることが、かならずある。発達障害じゃなくても人付き合い(会話)は好きでないかもしらんし、発達障害じゃなくても数学(計算)は嫌いかも知らんし、道順を覚えるのが不得意な人、服を選ぶのがめんどくさい人、食べ物の好き嫌いが多い人は、かならずいる。

したがって「これこれが苦手」と周囲に相談しても、「みんなそんなもの」と軽く答えられて終わる。もし自分が発達障害であると知っていたならば「そういう話ではない」と言えるが、普通は知らないので、本人も「やっぱりそんなものか…」と自分で考えてしまう。そのうち、周囲に相談すらしなくなる。「そんなもの」と自分でも思い込み続ける。しかし、苦手意識、疲労、不可解さは全く消えずにのしかかり続ける。

 

結果 : 自尊感情の喪失 → さらに複雑な過程がいくつも待っている

「誰しもがそんなもの」なのに、「自分だけがうまくできなくて」、「自分だけが疲労してして」、「自分だけがモヤモヤしている」、となれば、その原因は自分のダメさにしか求められなくなる。結果として自尊感情を喪失し、慢性的に自尊感情を欠落した状態で生きている。自信がなく、おどおどして、できることなら逃げたいと常に思っている。

僕の場合はこの先がさらに複雑になる。自尊感情を喪失した結果、なんとか特殊な方法で自尊感情を回復しようと極端な努力をする。学校の成績やったり、特別な実績やったり、褒められることやったり、あるいは輝かしい「生きる意味」を求めて、大変な努力をする。幸か不幸か、このうちのいくつかは高度な「代償」によって成功してきた。それによって自尊感情はある程度修復した。けれどもそれは人工的に作った自尊感情なので、脆く傷つきやすく、それが崩れないかと常に怯えている。もしくは、崩れることを予防的に予期して心理的防衛線を張っているから、相当な根拠がない限りは将来について安心ができない。

他人から見ると、僕は逆に自信に溢れているように見られる。それは正しいとも言えるし間違ってるとも言える。本来的に自信が欠落しているから、人工的にあの手この手で努力して実績を積み重ねて作り上げた自信でしかない。それは脆い。未知の場面に入ったりすると、途端に自信がなくおどおどして、やらかしてしまう。

また同様に他人から見ると、コミュニケーション能力が秀でて高いと見られる。これも、コミュニケーションが本来的に苦手やから、代償的に工夫して築き上げた人工的なスキルでしかない。いわば飛行機の操縦技術を習得したようなものや、と自分では呼んでる。だからこのスキルも脆く、たとえば強制的に見知らぬ機体の飛行機を操縦させられる(=異文化に放り込まれる)と、途端に墜落する。

 

「代償」してやり繰りすることの“代償”、つまり誤解と偏見

苦手なことを、あの手この手で工夫してうまくやろうとすることを、専門用語で「代償」と呼んだ。それはいわば、表面的にうまくできているように見せることを目指す努力、とも言い換えられる。つまり代償に成功したら、表面的には全く問題ないように見えてしまうということである。

しかし内面的には、極度に疲れるということに変わりはないし、脆弱で何かの拍子にすぐ失敗するから怯えてるし、そもそもなんで自分が苦手意識を持っていて代償する必要があったのかという謎は全く解決されないまま残っている。つまり苦痛は残り続けている。

それにもかかわらず、表面的に問題なく見えてしまうからこそ、今度は「苦手や」と説明しても誰からも信じてもらえなくなる。苦手で疲れて苦痛やのに、皆からは全く信じてもらえず、たまに失敗したり逃げたりすると怪訝に思われたり責められたりする。上手に「代償」できてしまったせいで、誤解や偏見といった余分な災いが増える。

 

一体どうしろというのか

うまく代償できなければ苦手で苦痛。うまく代償できれば、やっぱり苦手で苦痛で、しかも誤解と偏見にも苛まれる。

じゃあ、どうすればいいのか。答えがあると思いますか。

答えはありません。発達障害の人にとって、生きることは、それ自体が大きな「罠」のようなものです。生まれた場所に立ち続けていたら苦しい。自分でモガいてなんとかそこを抜け出したら、さらに別の苦しみが襲う。どちらに転んでも災いという、そういう「罠」にはじめから掛けられている。体感として、そう感じながら生きてきました。自尊感情を生み出そうと必死に努力しながら、大きな罠に絡め取られているように感じながら、できることをやっていくしかありません。

 

だから、去年から今年にかけてアメリカで、権力のある人間三人から同時に、その発達障害の特性それ自体を攻撃され、辛すぎて全てを捨てて逃げ去ってきたことは、二つの意味で地獄のようでした。

1.解決方法のない問題それ自体を執拗に、権力者の高みから攻撃され続け、逃げ場を奪われたこと。いわば、火炎の罠の中から這い出ようとした時に、そこに縄で縛り付けられたかのようです。

2.アメリカで大学院に進学したことは、自尊感情を高めることに大きく役立ったわけですが(加えて経済状況としても大きな安心要因だった)、これを権力者が寄ってたかって崖から突き落としたこと。なんとか努力して打ち立てた自尊感情が粉々になりました。

 

僕の場合は、自尊感情を打ち立てる努力というのが人格の大きな部分を占めています。自分のキャリア選択から普段の交友関係まで、これが極めて大きな影を落としている。特にキャリア選択に限っていえば、自尊感情の欠落から始まって具体的に勉強したこと、やった仕事、研究テーマまで、見事にストーリーが描けるくらい、明確にその問題に依存して人生設計をしてしまっている。だから上記の「2.」は、本当に心をえぐり取るような、大きな傷を残しました。

 

以上、読みやすくわかりやすいように書いたつもりですが、どれくらい伝わるでしょうか。すこしでも、発達障害の本人が抱えてる内面的な辛さが理解されれば嬉しいんですが。

 

*7月14日追記* 

「得意」と「自尊感情」が生む問題も重要

上では「不得意」だけに焦点を当てて書いたが、「得意」が問題をさらに(悪い方向へ)複雑化させる。

得意についても不得意と同じように、本当はミクロな脳機能の問題であるけれども、現実には生活の中の様々な場面において総合的な作業の得意さとして現れる。たとえば文章を書くことが得意、アイディアを出すことが得意、というように。

ここで上記の自尊感情の問題が入り込む。自尊感情が欠落しそれを常に人工的に構築したいと願っている発達障害の人間は、何か得意なことがあればそれを伸ばして自分のアイデンティティにしようとする。なので積極的にその能力を発揮し、またそこにプライドを持つ。ともすると、人に対して誇ったりもしてしまって不興を買うこともあるかもしれない。

 

すっとばしてしまうことで、他人から理解されなくなる

さて改めて振り返ると、本文に書いたように、この得意さというのは総合的な作業の中で何かのミクロな脳機能をすっ飛ばして実現されていることやった(たぶん)。得意であることを他人との関係において発揮する時、この「すっとばし」が問題になる。

僕の場合は、思考を、言語でなくイメージを媒介にして行なっているという特徴がある。他の普通の人がどういうふうに思考しているのかを知らないので自信はないけれども、たぶんそう。言い換えると、論理を言葉(言語的な概念)で繋いでいく代わりに、抽象的もしくは具体的なイメージをメタファーにして、その連続的な変換や操作によって思考しているということ。今思いついた例えやけど、「図をベースにして作ったパワーポイントで思考している」と言えば結構近いかもしれない。もちろん言語も使うのだけれど、おそらくその割合が他人より際立って小さい。

イメージで思考すると、言語で思考するよりも大股で論理空間を闊歩できる。一瞬で遠くのアイディアを引き出してきて繋げられるし、言語で考えていると思いつかないような発想が日常的に得られる。自分の感覚としては、こういうふうにして得た思考は「奇抜」な発想というわけではなくて、その整合性や的確さは、論理と言語で繋いで考えた他の人たちの思考と同程度のように思う。

しかし問題なのは、この思考方法が他人から見て理解できないということ。したがって僕は「何か変なことを言っている」と思われがちやし、自分では他人と同程度に確信のある考えについても他人から理解・支持を得られない。

他方では、分からないからもう少し説明してくれと言われると、言葉で説明しようとしても必ずしもうまくいかない。過去に得た情報を根拠にしていても、その情報は自分の中にイメージとして記憶してしまっているので、根拠をうまく言葉にできない。論理もイメージを繋いでいるだけなので、飛躍やと思われる。とにかく全般的に、説明しろと言われると「ごにょごにょごにょ」となる。

「すっとばし」の脳機能の例は発達障害の人の中でも様々やろうけれども、この例でわかる通り、要するに座標軸や住んでる空間みたいなものが他人と違って噛み合わないということ。しかし一方で、上に書いた通り、本人はその得意なことを自分の自尊感情のための重要な要素と捉えがちで、そこにプライドを持つ。だから周囲との噛み合わなさが、本人の体感としてますます増幅して感じられ、理解されないという疎外感や孤独感につながる。これによって、自尊感情の欠落との間の負の連鎖が起きるように思う。

*追記終わり*

本ブログは、Amazonアソシエイトプログラムに参加しています。Amazonアソシエイトのリンクから商品が購入された場合に(Amazonから)紹介料を得ています。ただしアソシエイトリンクは書評的な言及の際のみに留め、かつ逐一明記しています。単なる言及の際は通常リンクを貼っています。