なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

涙、友達が自分を埋めてくれること、映画を支柱にして立つこと

小さい子供やった頃、兄ちゃんと連日のように喧嘩して(いじめられて?)泣き喚いていた。

ある頃から泣くことは減り、喧嘩も減った。それ以来、何か重大なことがうまくいかなかった時の数回を除けば、ほとんど泣いたことはない。が、ここのところ1ヶ月間、日によっては一日に何回も泣く。泣くのは、別に悪い気持ちはしない。涙が心を洗ってくれて、泣き終わったら心が落ち着く。泣くという特別な自助作用なくしては心の平衡を保てないような、そういう異常な心理状態が恒常化しているんやろう。

最近、手当たり次第いろんな友達に相談して話をしている。

研究職を目指すのを諦めるかどうか、とか、大学を辞めて日本に帰るかどうか、とか人生の出来事として結構重大な決断について、それぞれの人が考えを教えてくれる。大抵みんな、無理せずゆっくり休んだらいい、と言ってくれる。その度に、自分の負った傷をみんなが理解してくれている、優しさに包まれている、という感じがすると同時に、自分が傷を負っていること、自分が弱い存在であることを痛感する。自分の弱さと、それを包む優しさを同時に感じ取ることで、また顔がぐしゃぐしゃになって涙がほとばしる。自己が独りで存立できていない感じがする。自己存立の不在を、友達の優しさが埋めてくれている。

これまでの人生でも自分は、常に人の意見に耳を傾けるように努めてきたし、実際に人のアドバイスを聞きながら自分の決断をしてきた気がする。しかしそれは、人のアドバイスに身を任せる、というのとは全然違った。常に自分は力強く意見を持っていて、ただし見落としがあるかも知らんから人に意見を求める。しかし実際には、ほとんどの場合、自分に見落としはなかったし、出てくるアドバイスも予想の範囲内やったことばかり。結果的に、人に意見を求めながらも、選び取る決断は自分自身で下す決断であったし、感覚としても自分の意見に対して持ってる信頼が揺るぐことはなかった。

いま、人に言葉をもらうことで生きてる感覚、あるいは友達に自己を埋めてもらって生きている感覚は、これまでの人生で経験したことがない。人生で初めて、自己の存在が揺らいでいるのを感じる。

ここ1週間近く、毎日取り憑かれたように映画を観ている。

インターネット上に(不法に)溢れている映画を漁り、1日に2本も3本も観る。映画を通して、自分とは違う別の人生、別の世界を知る。別の世界を知ることによって、世界への(あるいは自分自身への)眼差しの立ち位置を、右に、後ろに、上に、下に、少しずつずらす。見る立ち位置を変えれば当然、世界は違って見えるし、一つの立ち位置から眺めながら感じていた悲しみも喜びも悔しさも望みも、全部が違ったように感じられ始める。

映画の世界の中で生きている人間の視点や立ち位置を借りてくることで、悲しさや悔しさに支配されてる自分の感情を、少しずつ別の感情に塗り替えていく。今の自分にとっての世界は逃れ難い苦痛一色で、自分で自分を支えるのが難しい。別の人間の視点や立ち位置を借りてくることで、苦痛を別の感情に塗り替えていかないと、直立して生きていけない感じがする。そのために、映画を頼りにする。映画を、手をかけて自分の体を支えるための支柱にする。揺らいでる自己の存立を支えるための、道具にしている。

 

人間の顔をして博士号を持った、コミュニケーションを生業とするプロの悪魔たち

ちょっと信じがたい話を書きます。

これまで周囲の人に「ほんまか?」と言われてきたのも、ある意味当然で、その人たちは悪くない。

取ってる3つの授業のうち、D先生の授業は、特に読み物の負担が大きくて全く手に負えない。しかし仮に読み物が全部はできてなくても、実際の評価対象である課題さえ何とか帳尻を合わせられれば、結局学位プログラムとしては形になるんちゃうか。というか、これまでの人生はきっとずっとそうやって生きてきたんやろう。そう考えた。そこで、10月の学期中間時点でのミニ課題を提出した後の面談で、その旨を述べた。「だから、ミニ課題の出来がどうだったかのを教えてください」と。

この時点でD先生はすでに、僕が読むのが極端に遅くて苦しんでるっていうのは知らされていたし、さらにその流れで鬱っぽくなってるっていうのも、知らされていた。その上で、この先生が言ったのは、「重要なのは課題がよくできてるかどうかではありません。重要なのは、読み物を読めてないから、それが理由でこのコースワークから学べていない、という事実です」。人が障害のような症状を持ってて、それを何とか克服しようと頑張ってて、でも出来ていないことを誰よりも自覚してるからこそ鬱が出始めてる、っていう時に、「あなたは学べていないですよね。それが重要な事実ですよね。」と指摘することに、何の意義があるんやろうか。それを、面談の1対1の重みのある会話の中で、わざわざ言葉を探してこちらの心に刺さるように的確な表現で述べることに、何の意義があるんやろうか。

さらに、この同じ面談の中の、この会話の直前のやり取りでは、その面談のすぐ前に行われた授業中に僕が力が出なくて机に顔を横たえたり目を閉じたりしていたことを指して、「今日寝ていましたよね。そういったことは、正直に話さないといけないので」と。いえ、鬱っぽくて力が出なかったんです、顔を埋めたり目を閉じたりしてましたが、聞いていました。そう言い始めたが早いか言い始めないが早いか、泣き崩れてしまった。自分の中で起きている現実の出来事や感覚と、目の前のこの人から見た解釈の中での僕の人格や気持ちとが、あまりにも乖離している。苦しんでいる結果どうしよもうなく起きてしまった出来事を、この人は特筆すべき怠惰な行動やと解釈している。

ひとしきり泣いた後に、ちゃんと説明して、気を取り直して現実的な会話をしようとした。そうして出てきたのが、上の「学べていないという事実」という発言。この人は、人間ではないんじゃないか。人間の顔をした悪魔なんじゃないか。

この面談があってから、この人の授業に行くのがほんまに辛くなった。行っても、この先生の顔の方を見られへん。ずっと下か、横か、上を向いてる。自分は間違ってないし、間違ってるのはこの人やけど、自分のできていないことを怠惰やと責められたり、十分に頑張っていないと疑われたりすると、不思議と自信を失う。自信を失ったんか?それすらもよく分からん。いずれにしても、この人の顔をもはや直視できひん。もしかしたら、この人に対する不信があまりにも積み上がりすぎて、自分の心がこの人とのコミュニケーションを拒否していたんかもしらん。そんな感じがするくらい、どうしてもこの人の方を向けへんかった。

ある週にはついに、この人の前に現れること自体のプレッシャーが強すぎて、教室にたどり着くまでの道の途中で立ちすくんだまま1時間動けず、諦めて欠席した。夜になってからメールで欠席の理由を説明したら、この人の返事は「そんなことが起きたなんて、恐ろしいです。あなたは、保健センターのカウンセリング・心理学支援サービスをもっと受けなくてはいけません」。カウンセリングサービスを、もっと受けなくて受けなくてはいけません…?人間の心理というのは、凝ってる背中の筋肉みたいに、マッサージを受ければ受けるほど良くなるようなものではないんです。週に1回いけば必要十分やし、それでもこういう辛い出来事は起きるときは起きる。起きたからといって、その時にカウンセラーのところに話に行くようなものでもない。帰って、ゆっくり休んで、心の落ち着きを取り戻すことしかできひん。この人は、人間の心理を、点滴を打って直すようなものやと思ってるんやろうか。ほんまに人間の気持ちがわからへんねんやこの人は。人間の顔をした悪魔なんや。

これと同時に、学期末の課題に対して何を書くかというトピックの提案を、自分からこの先生に対して行なっていた。その提案についての面談でも、この先生は「これは抽象的すぎます。どういう価値があってこの提案をしているんですか?どういう議論がここから生まれてくるのか、見えない。今のあなたの説明を聞いても、あなたが何もアイディアがない("you don't have idea about the proposal"=「プロポーザルについて、あなたは何もわかっていない」)ということが分かりました」。授業までの道のりで1時間立ちすくんで動けなかった、という話を聞いた直後の文脈で、こういうことを眉をしかめて言う。何のために?

この人は、人間じゃない。悪魔です。しかも単に悪魔なんじゃない。悪魔の発言と行動によって、僕のことを追い詰めようとしている。

別の授業のL先生。この人は学科長。D先生の顔を直視できなくなってからしばらく経ったころ、おそらくD先生から「最近彼、授業でも全然集中できないです、全然ダメです」とでも聞いたんやろう。ある日突然L先生からメールが来て、「明日面談に来てください。まだオフィスアワーのスロットが空いています」。教授の方から学生に対して、面談にこい、と言うことはかなり異例。しかも「明日」すぐに、「時間」まで指定して。行ってみると、ニスやワックスや漆やカラメルを塗りたくったような、要領の得ない曖昧で回りくどくて長々とした講話。でも要するに、全体として浮かび上がってくるメッセージは、「最近ダメよね君」。最近ダメって、あなたの授業ではちゃんとしてるやん。何を急に、どこかの誰かに吹き込まれたみたいに急に連絡よこして来て、根拠もよくわからんような曖昧なことを言ってるんですか?「だれかに言われたんですか?」と言っても、「いえ、私自身の考えです」。嘘つけ。確かに別の授業では教員の顔を直視できてないですよ、とは、言わなかったけど、「相対的には、あなたの授業はかなりちゃんとできています」と言ってやった。「相対的に」を2回も言って強調したのに、そこの意味を深掘りしてこうへん。すでに知ってるから、わざわざ聞いてこうへんのやろ。

最後にこちらから「以前から話してる障害支援室とのやり取りの件、どういう結論が出るか分かりませんが、結論に応じた現実的な選択肢を対応させて考えています」と言ったら、なんども頷いて納得した様子。要するに、それが言いたかったんやろう。要するにD先生と同じで、「あなたは勉強できてないから、ここでは続けられないと思うよ」、と言いたかったんやろう。曖昧すぎてアホらしいから、こっちから言ってやったわ。

この後にL先生は会議があったようで、会議の担当者がドアをノックして入って来た。「さきに横の部屋に入っています」と。このL先生、重苦しい雰囲気の真面目くさった人で、若いアメリカ人みたいにキャーキャー言ってハグとか笑顔とかを振りまくキャラじゃないのに、この会議担当者に対して"I'll give you a hug in a minute."。相手はちょっとびっくりして引いてた。これも僕に対しての(裏返しの)パフォーマンス。君以外の人には、こんな優しいんですよ、君には冷たくしてるんです、早くいなくなって欲しいから、というメッセージ。別の日にたまたますれ違った際も、明らかに一瞬こっちを見たのに、まるで気づかんかったかのように無視。

この同じ週の木曜日には、学科の3年生のフィールドワーク計画のプレゼンがあった。訳あって出席できなかった。その日の夜、この先生からわざわざご丁寧なメールがあった。僕が鬱に苦しんでること(=illであること)を知った上でのメール。

Dear ****,

I didn't see you at ****'s proposal presentation this afternoon. Perhaps you were in the room today and I failed to notice, in which case I apologize. If not, I'm writing to encourage your attendance. The email that **** sent everyone (below) lists three more that will happen tomorrow. Unless one is ill, everyone is expected to attend (as the Graduate Program Guidelines, which you received at the beginning of the year, described for first-year students).

The faculty consider all invited departmental talks to complement coursework by expanding students' awareness of anthropology and related fields beyond areas of departmental faculty's special competence. Third-year students' proposal presentations -- like the three presentations scheduled for tomorrow -- are of special importance for several reasons.

First of all, they give first- and second-year students a realistic understanding of what preparation for dissertation fieldwork entails.

Second, they are opportunities for you to get to know the kinds of advice that faculty offer to students. That advice is often applicable to your own future projects and hearing it may help you to decide which faculty members to work with next year.

Finally, giving and receiving advice among students is an important form of reciprocity: proposal presenters benefit from the advice of everyone in the room -- first-year, second-year, and more advanced students all have valuable suggestions to offer -- and all students in the room will take (or have taken) a turn to present their research proposal for comments.

I hope to see you at these events tomorrow.

この話を人にすると、「単に仕事として学生を参加させようとしたんじゃない?」とか、「病気って知ってるからこそ大丈夫か確認したくてメールしたんじゃない?」とか、言われます。

そんなこと、ありえない。このメールのどこに、病気であることを心配する要素がある?参加すべきである理由を、ガイドラインの引用まで行いつつ述べることは、心配するどころか単にプレッシャーを与える以外何者でもない。そしてそのプレッシャーこそが、まさに鬱の根本原因であるということを、この人は既に僕からよく知らされている。全く逆です。

プレッシャーを与えて僕を追い込んで、自主的に履修を諦めさせる、そういう目的しか、このメールの裏にはないです。事実、僕と同時にこのプレゼンを欠席した他の同級生3人のうち2人に確認したところ、こんなメールは全然来ていないとのこと。呆れて言葉が出ない。

このLとDのコンビは、本当に、隠喩でも直喩でもなく、本当に悪魔です。この人たちは、仮に僕が面談を密かに録音したとしても何のすっぱ抜きにもならないように、事実しか述べない。しかし、事実を、ある特定の文脈において特定の言い方で述べることによって、僕の精神状態を崖から突き落とすことができる。人類学者は、コミュニケーションのプロみたいなものです。その能力を、こんな風に使うなんて。これは一体何なんや?開いた口が塞がらへん。

僕はこんな人たちが暮らしている世界でやっていけるとは到底思わないし、頑張る価値すらないと思う。残念ながら、おそらく文化的に僕のことが気に食わへんかったのと、そもそもアジア人に対する偏見(人種差別)があるやろう。僕がズルをしているもしくはズルして来たと、根底で疑ってるんやろう。

ほんまに信じられへん。信じられへんけど、残念ながらこれが現実です。この国にはほんまに失望した。

 

複層化する自分の声

目下、完全に辞めるモードで生活している。今日も5ページの小さな課題の締切日やったが、間に合わせないとあかんという危機感はゼロ。すでに先生に対してメールを送り、言っておいた。「間に合いません。遅れて提出してもいいなら、します。どれくらい時間がかかるかはわかりません。遅れて提出してはいけないなら、この課題分が0点になるものと理解しています。」響きのない、無関心な筆致。ヒビの入った鈴のよう。

日本に帰ったらどうしようか。と、ずっと考えている。大学に入ってからというもの、これまでずっと一貫して、研究に向けての道を歩いて来た。行政の仕事を2年間していた間ですら、研究者としての視点で物事を眺めていた。アメリカで学位を取れれば、そのあとの人生において融通が効いてすごく有利になると思って、ここに来れることを素直に喜んでいた。5年間も、お金をもらいながら勉強ができるなんて、ほんまに夢のよう。

ところが来てみた途端、研究者としての根本的な資質が欠けてるかもしれないことに気づかされる、という顛末。アメリカであろうと日本であろうと、なんであっても研究者ができひんのちゃうかと、疑わざるを得ない。登っている階段の、ほとんど最後の段とまでは言えへんにしても、かなり上の方まで来たときに、自分の一段上に意地悪な悪魔が立ってこちらを見下ろし、喚き立ててる。「残念!その足の長さでは、こっから先の段は高さが届かへんみたいやねぇ。物理的に無理やね。自分の足の短さ、もうちょっと早くから真剣に悩んだ方が良かったんじゃない?」

28年の短い人生とは言え、それなりに努力をし、それなりに自信を持って、この先に道が続いてることを信じて歩いて来た。この時点で、歩いて来た道をもとに戻るのは、それなりに痛い。感情的で人間的な自分は、そう感じてる。日本で大学院に入り直したら、自分の言語やから少しは困難が減って、意外とギリギリやっていけたりするんやろうか。感情的で人間的な自分は、研究の道を歩き続けることにこだわってる。日本の知人に連絡を取って相談し、日本で学生をやり直している自分の姿を想像してみて、安心する。

と同時に、まだたったの28歳や、とも言える。これまで歩いて来た道の途中のどっかの地点まで戻って、そっから伸びてる別の道を歩き始めてもいいんやろうきっと、とも思う。理性的で優等生な自分は、そう言っている。これまでビクビクして挑戦できひんかった道に、思い切って踏み込んでみるチャンスなんちゃうか。そういう転機なんちゃうか。理性的で優等生な自分は、そう囁いている。高校生の時に考えてた夢にまで遡って思い返し、全く違う人生がこれから始まることを想像する。それが失敗するのを想像してビクビクし、それが成功するのを想像してワクワクする。

前者に賭けるのか、後者に賭けるのか。

そんなふうに考えた途端、別の声も聞こえてくる。「賭ける?人生は賭けなんか?」楽しく、リラックスして、周りの人と幸せに暮らして行けばいいんではないんか。進歩的で大人な自分はそう言って、もっと成熟した人生観を気取っている。焦らずできることをやっていれば、そこから自然に、充実感と幸せは生まれてくる。

人生は賭けなのか、賭けじゃないのか。

長く生きるほど、自分の中の声は複層化する。ただし複層化しても、古い層は昔と変わらん声高さで、存在を主張し続ける。結果、複層的な自分の声を調律して指揮し、不協和音から何らかの和音を生み出す技術が重要になる。淀みなく流れる普段の生活では、そんなに難しくない。何かが起こると、急に楽器を掻き回したような不協和音が生まれて、指揮と調律の技術が問われる。

おばちゃん達に取り囲まれて迎える後半40分・0対4の危機

障害支援室から連絡が遅いから、待ちきれずに殴り込んだ。じゃぁ今話そっか、ちょうどメール書こうとしてたとこ、と。いいですよ。

この検査結果を見ると、なんか読む速度だけ氷山のクレバスみたいに極端に低くなってて、どういうことなんやら、よう分からん。これ、うちでは障害って呼んでないよ。学科への特別措置の依頼とか、だからできませーん。ていうか大体、なんでこんな低いの?問題解かずにボーッとしてたん?言語処理能力も悪くないし、数学の処理能力も悪くないし、なんも悪いとこないやん。学科に何かをお願いするなら、自分でお願いしてちょ。

とのこと。このおばちゃんが考えたのは要するに、「障害」に関して自分たち専門家が持ってる理論的パターンに当てはまらない検査結果なので、検査結果がおかしいに違いない。読むスピードだけ極端に遅いのは、障害っていう認定だけもらって楽チンしようとしてこいつがズルしたとしか考えられへん、ということのようでした。おばちゃんはこれを確信しすぎてて、こいつは悪い学生や、真実を暴いてやるぅっ!という気概に溢れすぎてて、疑いの目や態度をもはや隠そうともしない。露骨にこちらを疑う蔑みの目つきで、言葉の端々に嘘を見つけようとしてくる。

あっ目が2〜3ミリ飛び出ちゃってるな今、と感じるくらい怒ったのは、この時が人生で初めてでした。しかしただ怒っても、相手は自分なりの論理で、正当なつもりでこちらを疑ってる。論理には論理で対抗せねば。なので目を飛び出させたままで、論理明晰に反論をする。そんな芸当、なんせ初めてやったのであんまりうまくできませんでしたが、とりあえず大声を上げすぎて、部屋の外の待合室にいた人らはビビらせてやった。

僕のことを疑ってるのは、このおばちゃんだけじゃないです。このおばちゃんに入れ知恵したのは、この検査を実施した外部の心理学者やろう。あっちも、なんか嫌ったらしい顔した化粧の濃いおばちゃんやった。学科の先生らも、同様に疑ってる。この先生らも二人ともおばちゃん。(おばちゃんばっかりやん。)

幾多のおばちゃんたちは、きっとこんな風に考えてるはずです

①こいつは大学をいい成績で卒業して、ロンドンで修士号まで取っとる

②この大学院に入ってくるための審査もパスしてやって来とる

③英語の試験(TOEFL)も、リーディングは満点とか取ってやがる

④その上で今更、「読書ができないんです。えっへん。」とか吐かしてる

⑤さてはこれまでの学部・修士をズルして切り抜けて来たか、そうでなかったら今ズルして切り抜けようとしてるに違いない

⑥どちらにしてもお前は嘘つきだ!

障害支援室のおばちゃんの尋問を受けてると、あれ、いやちょっと待て、実は実際のところ僕がズルしてたんちゃうやろうか、みたいな感覚になってきました。これは危ない。冤罪はこうやって起きるんやで...。

待合室の人らをビビらせた成果があったのか、翌日には障害支援室のおばちゃんから「もうちょっと考えてみるから、TOEFLがなんでそんなに良かったんか、教えて」とのメールが来た。

最初はこの質問の意味すら正確に把握できなかったんですが、よくよく考えてみると、アメリカ人というのは日本の受験みたいなテスト地獄を体験してないので、TOEFLみたいなテストの結果は実際の能力の純然たる反映である、的なユートピアンお花畑な考えを持ってるんでしょう。そういうわけで、TOEFLなんていうものはね、おばちゃん、文章読まんで問題に答えるのがプロの仕事なんです。それが読書スピードの反映やなんていうヌルい考えでのんびり受験してて、それでアメリカ来れると思ってんのかボケッッ!!!というメールをA4で7ページくらい書いて送りつけました。こいつらほんまに世間知らずやな。自分たちの国が世界の中心やと思ってたり、そもそも自分たちの国の外に文明は存在してないと思ってたりするくせに、自分たちの国を目指して皆がどれだけ頑張ってるんかを全く知らん。

というわけで今は、おばちゃんの再検討待ち。しかしそれにしても、こんだけおばちゃん刑事さん達4人に取り囲まれたら、今後この拘置所で5年間もやってける自信は全く無くなってしまいますね。そしてそもそも、授業の数を仮に3つから2つへ減らしてもらえたとしても、読む速度が周りの人の10倍遅いもんやから、やっぱり到底無理なんちゃうかという感じは全然消えない。消えないどころか、学期末に近づいて課題をやろうとするにつれてますます強く実感する。

もうそろそろこのブログも、多分佳境です。速かったなぁー。サッカーでいうと、後半40分で0ー4、みたいな感じか。ロスタイムも入れてあと8分か9分かある!2分で1点入れるんヤーーーーッ!と頑張るか、いやいやいやいやもうエエやん。と諦めるか。その境目です今。 

トイレットペーパーから論壇まで、インド人からカウンセラーまで

ここ数日は激動やった。結論からいうと、精神の闘いの意味では一つ山を越えたかもしれない可能性が、全く非現実的ではない気がしないでもない。← 弱気。

ある日には、全くベッドから起き上がれずにただ死亡していた。おそらく鬱と呼ばれてるであろう症状を人生で初めて経験したが、これは不思議な感覚。体はどこも悪いことがないし、頭が痛いわけでもないが、躯体にパワーがない。パワーがないというのは、元気がないとか、気力がないというのとは、全く違った。元気、気力、体力、力、このどれもが、その状況を表すのにしっくりこない。パワー、と言えばなんとなくしっくりくるし、しっくりくる語彙は「パワー」以外に日本語に存在しない気がする(というか日本語ですらない)。おそらく「パワー」というカタカナ言葉が持ってる摩訶不思議なフォース感が、この不思議な死亡状態の掴み所の無さを上手く表しているように感じられるから、やろうか。元気がないことも、気力がないことも、体力がないことも、これまで何度も経験したが、そのどれとも違う。パワーがない。そしてパワーがないために、ほぼ永遠にベッドに横になってる。

ある日には、前の晩から行ってなかったトイレへ、翌朝のある時点でやっとこさ這いつくばって行った。その時、トイレットペーパーを手繰り寄せる右手人差指の小さなロコモーションが、それ自体、自分の気分を活性化させてくれるごく微かな効用を持ってることに気づいた。トイレットペーパーを手繰り寄せるロコモーションがもたらしてくれるパワーは、何を行うのに十分かというと、瞼を少し開くことくらい。それくらい小さなパワー。このパワーによって、しかし、鉛筆で何かを描いてみたら同様に少しパワーが出るんちゃうやろうか、という気にさせてくれた。トイレを完了して部屋に戻り、ベッドに戻ってしまう前にすかさず椅子に座り込み、鉛筆でうだうだと気持ちを書く。うだうだと鉛筆を走らせると、予想通り少しパワーが出てくる。このパワーはどれくらいの大きさかというと、「何をしたいか、を考える」ためにぎりぎり足りるくらい。このパワーによって何をしたいかを考えた結果、「料理をしたい、肉じゃがが作りたい」と思った。そしたら今度は、料理をしたい、と考えるその精神的ロコモーションそれ自体が、また少しパワーを生み出す原動力になった。なんせ自分の気持ちの動きを生み出してる。すごく前向きな感じがする。料理をするためには食材が必要で、かつ結構莫大なパワーが必要。そんなパワーも、食材もない。でも、今度食材を買いに行くときにどういう道を通って自転車を走らせればいいか、それを調べることはできる。グーグルマップでこれを調べるために必要なパワーは、「料理をしたい」という前向きな精神的ロコモーションのおかげでギリギリ得られた気がする。グーグルマップで調べてみると、思いのほか簡単なルートで、しかも車道をあんまり走らずにサイクリングロード的な道を通っていける!これはグッドニュース。グッドニュースであり、非常に生産的で前向き。その生産的で前向きな調査成果によって、またもう少しのパワーが生まれた。このパワーは、ある事実に気づくのにギリギリ十分な大きさやった。すなわち、今キッチンにある有り合わせの食材でも、実はなんらかの料理が作れるかもしれないということ。肉じゃがが作りたくて、牛肉がないとは言え、別に鶏肉で鶏ジャガを作っても良いんでないの?考えてみれば鶏肉もジャガイモもタマネギも人参もある。醤油もみりんも砂糖もある。なんでこんな簡単なことに気づかんかったんやろう。この気づきは、それ自体がとても大きな成果。成果は、パワーをくれる。このパワーはついに、キッチンまで降りて行って実際に料理を始めることができるくらい大きかった。鶏よ、冷凍庫に眠っていてくれて、ありがとう。ジャガイモよ、2ヶ月も棚の中で静かに眠っていてくれてありがとう。隣人の生姜からは20センチの茎が生えてきてるけど、ジャガイモはだいたい大人しく眠ってくれてる。ここまでくると、もう後は自明のプロセス。料理ができればこっちのもの。鶏ジャガを食べ終わったら、もうかなりパワフルです。荷物を用意して服を着て、図書館まで自転車を漕いでいける。図書館に座ったら、その空間の力によって勉強する気分が訪れる。

もう内容は二の次で、とりあえず気分的に勉強した気になることが重要。ある本の一章を読むと見せかけて、すべての段落の最初と最後の一文だけを順番に読んで行く。内容がわからんでももう無視。そうしたら数時間で、その章の終わりまで到達した。この達成感はすごい。達成感それ自体によってまたパワーが生まれる。この時点で19時頃。

この日、東京に住んでる友人が、トランプ勝利について考えるスカイプ会議を準備してくれていた。参加者は、東京に住んでて関心のある人と、アメリカに住んでる彼の友人たち(←自分はこれの一人)。こちらの時間で21時から開始予定のこのスカイプ会議、当初は到底参加などできないかと思われた(というかそもそも、料理をする時点くらいまでその存在すら忘れてた)。でも図書館で勉強できたくらいの時点で、参加するだけならギリギリできるかも、という感じがする。でも発言は到底無理かも。マイクは向けないでほしい。友人には事前にメールでそう伝えた。ごめんなさい。許してください。

章の最後まで読みきった達成感を携えて、夕食を食べに図書館の外に出る。夕食を食べると、またパワーが出る。なんせ、生産的な活動に成功すると、それがパワーを生むんです。そのパワーを携えて、図書館の荷物を引き上げて家に帰り、スカイプの準備をする。3時間続いたスカイプは、前半は静かに黙ってる。しかしみんなの議論についていける。これは普段の英語の授業と全然違って、心地よい。みんなの言ってることが理解できるし、なるほど、とか、へぇ、とか、そうかなぁ、とか思うことができてる。なんという生産的な。パワーが出てくるのを感じる。ついに後半からは、思い切って発言ができてる自分がいる。しかも自分の意見が伝わるまで、伝えようとしてしつこく喋ってる。終わってみると、ほんまに有意義な3時間やった。

こんな姿、朝のベッドから動けない状況からは想像もできひん。トイレットペーパーを手繰り寄せる昆虫の足のようなか弱い、微かな動きから始まり、10人以上の前で堂々と自分の意見を陳述し、説得できるまで止めんぞと言わんばかりの、力強い出で立ちまで。遠い道のりやったけど、どのステップ一つを取っても、大きな飛躍はない。一個一個が、微かな、しかし確実に繋がっている次へのステップ。その無数の繰り返し。そのステップ一つ一つを、途絶えることなく、諦めずに繋げ続けること。そうすれば、いつかは必ず長い道のりも終わる。

別の日には、何人もの友達に助けられた。日本からメッセージをくれた友達。こっちで話を聞いてくれた友達。様子がおかしいのを読み取って、声をかけてくれた友達。それぞれが、それぞれのやり方で助けてくれる。そうなんかそうなんかと、とりあえず聴く。それはほんまに辛いよな、と理解を示す。こうやってみたらこういう結果にならへんやろうかと、生産的な提案をする。僕の事実誤認を力強く指摘して、ポジティブな方向へ考えを誘導する。あるいは、ただただアホなことを言って笑わせる。おかげで、友達に囲まれてる感じがするし、例の障害がそのままPhDの不可能性に繋がるわけじゃない気がしてきた。障害支援室からはまだ返事がないけど、きっとうまく行く気がしていた。少なくとも今はそう信じられるし、そのお陰で前向きになれる。特にインド人のクラスメートにほんまに感謝。あと、ずっと前に一番最初に話を聞いてくれた日本人の友達に感謝。

カウンセラーもそのインド人もそうやけど、苦しんでる人の話を「聴く」技術と言うのを、この人たちは持ってる。僕はこれまで全然うまく人の話を聴けてなかった、とひどく反省させられる。苦しんでる人の言うことを、まず何よりもそれ自体として受け入れる。何か別の問題に帰着させることもせず、大きな問題や小さな問題へ還元することもせず、自分の経験に照らした解釈をすることもせず。プラクティカルな次元では、まず苦しんでる人の話を過不足なく要約し、「それはほんまに辛いな」と一言添える。これだけでも、話す側はほんまに救われる気がする。その上で、なんらかの事実誤認のせいで不必要にネガティブに考えている箇所があったら、そこは力強く堂々と指摘して訂正させ、その面だけでもポジティブにさせる。感情的に共感できない(知らない)苦しみは、むやみに説明を求めず、ただただ聴く。本人が心地よく話せることだけを話して、それ以外は話さなくて良いと感じられるよう、会話の場を作る。聴く側は、自分について喋るのは最小限に押し留める。こういう「聴く」という実践は、その理論的構築を知ることすら僕には(実際に自分が聴いてもらう側になるまで)できひんかったし、仮にその理論的構築を知ってたとしても、的確に実践するのはほんまに難しい。つい自分の経験に照らして解釈をおこなってしまうし、別の問題に帰着させて理解してしまうし、自分の似た経験を語ってしまう。圧倒的に訓練が必要な次元の実践であり、この二人は明らかに訓練を行ってきたと思う。カウンセラーはもちろんやけど、聴いてみるとインド人の友達もやっぱり、一時期親しい人が苦しんでて、聴き手として相当頑張ってたらしい。立派や。

28年間シャワーを毎日浴びてきて、実は体の洗い方を間違っていてめちゃくちゃ汚いまま毎日を暮らしていたかもしれない可能性について

読むのが遅すぎて自分でドン引きしたので、障害支援室(Disability Office)から保険適用の紹介状を得て、3000ドルの「神経・心理・学習能力検査」を受けました。丸一日朝から夕方まで検査をして、さらにその前後で半日の検査を2回やるという、人間ドック状態。いわば脳みそドック。その結果が先日返って来た。

無数の項目に分けて、自分の脳みそのデキが数字で評価されてる。100項目くらいありそう。アメリカではPercentile(パーセンタイル)という尺度がよく用いられるんですが、これは要するに100人の平均的な集団の中で自分が下から何番目に立ってるかを示す数値で、もし40パーセンタイルなら下から40番目(つまり上から60番目)、70パーセンタイルなら下から70番目(つまり上から30番目)ということです。この検査結果も、100個くらいありそうな各項目ごとにパーセンタイル表記がされていて、「ストーリーを聞いて覚えて再現する力 ー XXパーセンタイル」「決められた時間の中で1桁の計算をできるだけ早く解きまくる力 ー YYパーセンタイル」みたいな感じでめちゃくちゃ個別的です。

その中で、肝心の「言語を理解し操る力」系のいろんな細かい項目と、それとは別の「決められた時間の中で文章を読んで理解する力」系のいくつかの項目がある。言語を理解し操る力は、母語じゃないのに結構いいとこまで行ってる。一方で、時間内に文章を読んで理解する力が、驚異の数字を出しました。読むスピード「1パーセンタイル」でした。1というのはつまり、100人の平均的な(代表的な)集団の中で下から1番目、ということです。1番目というのは、万一よくわからない人のために説明すると、その下には誰もいないということです。これでもピンとこない人のためにもっと丁寧な説明をすると、「100人の平均的な(代表的な)集団」というのは概念的な装置に過ぎず、要するに社会全体の中で下からどれくらいの位置にいるのかということを意味してるので、これはつまり社会の中で一番ドンベやということです。しつこくまだ説明すると、1パーセンタイルというのは、そもそもの「パーセンタイル」尺度の発想からしてなかなか叩き出せる数字じゃないんです。だいたい30〜70パーセンタイルに落ち着くのが普通で、めっちゃ良ければ90パーセンタイルとか、めっちゃ悪ければ10パーセンタイルとかになります。

さて。これでもそれなりの大学に入って、勉強もそこそこうまく行って、いろんな知的な壁を乗り越えて来たつもりなんですが、それがここに来て社会のドンべとは、これはまたドン引きするしかない。ドン引きから始まってドン引きで終わる。

思い返せば中学生の頃から、いつも読むのが遅くて悩んでた。学校の授業中に一斉に教科書の一節を読むときなんかは、みんなが読み終わった時には自分はまだ真ん中あたりで、先生と学生一同の「もうこんだけ時間とったらさすがに全員読み終わってるやろ」みたいな視線が何度も胸に刺さった。行き帰りの電車の中で本を読むにしても、全然読み終わらへん。親とか身近な人が、次から次へと苦もなく本を読破し続けてるのを見て、何か違うワールドが広がってるとしか思えへんかった。今思えば、その頃試した「1分で100ページ読める速読術」みたいな本は、てんでお門違いやったということですな。1分で100ページ読む前に、10分で1ページ読めるようになりましょう。大学に入ってからも、望む分量の本を読めたことは一度もない。最初の5ページくらいだけ読んで、後は時間がなくて挫折するか、人生を賭して1冊を読破しキリマンジャロ登頂に匹敵する達成感を味わうか、そのどちらかやった。したがって、これまでに読破した本というのは数えるほどしかない。数える程しかないとは言っても、幸い28年も頑張って勉強の方面に生きて来たおかげで、両手両足ではギリギリ数えられへんくらいの本は読んだと思われる。ところが両手両足でギリギリ数えられへんくらいの読書量では、周りに跋扈している本気の研究者の卵たちとは全く勝負にならないので、いつも自分は知識量的に周回遅れの状態やった。話を合わせて誤魔化すテクニックは、芸能方面や音楽方面に全く明るくないおかげで世渡りとして少し身につけたので、学術方面でもこのテクニックを生かして世を渡って来たと思われる。思い返せばこれについても、自分は芸能方面にも音楽にも詳しくなくて周りの会話についていけへんくて、その代わりにいつも勉強ばっかりしているような気がして仕方ないのやが、それやのに勉強方面の知識量的にも他の人より周回遅れなのは困ったなぁ、おかしいなぁ。とよく思ったものです。2回ドン引きした今となっては、これも自然な成り行きです。

知識への好奇心だけは人一倍なので、気になる本を見つけるたびにすぐ買ってしまう。結果的に、本棚は読むのが追いつかない本が山積みに。買って読まないんじゃなくて、買って読もうとするけど全然追いつかない。なんせ英文の場合、1時間に3ページしか進まないんです。和文の場合、10ページくらいやろうか。この数字だけ見ると、和文の方がまだちょっと早いように見えるけど、でも実は日本語と英語では同じ文章量が食うページ数が違うので、結局実は同じくらいの速さなんじゃないかとも思えます。(英語の本を翻訳すると、大抵3倍くらいの分厚さになる。)

それにしても1パーセンタイルって。1というのはつまり、100人の平均的な集団の中で下から1番目、ということです。1番目というのは....と何度でも言いたくなりますがやめておきます。名前があるんかどうか知らんけど、どう考えても一種の障害やと思われる。28年生きて来て、なんでこのタイミングで発見するかなぁ。もっと早くに気づいてれば、いろんなことができたのに。自分は人よりちょっと読むのが遅いんやなぁ、くらいにしか考えたことがなくて、まさかここまでの劇的な差があるなんて想像したこともなかった。読むのがちょっと遅い分、人よりちょっと多めに努力しなあかんのやなぁ、くらいにしか考えたことがなかった。読書って、基本的に一人で行う孤独な取り組みやから、何かの特別な機会がない限り、読書してるその瞬間の状況を他人と比較することがない。読破する本の冊数が人と違っても、ちょっと別のことをしてて忙しかったからかなぁ、とか、あの人は最近特に読書に入れ込んでるから、とか、そういう別の理由をいくらでも考えついた。結果的に、28年間一度も、自分が障害を持ってるなんて考えたことがなかった。

一人で行う孤独な取り組みといえば、他にどんなことがあるやろう。トイレとシャワーやな、まず。実はトイレの仕方が人と劇的に違うかも知らん。みんなトイレをどうやってやってるんか、一度話し合うことも重要やと思いますよ。ある時にトイレのやり方検査を受けて、全く想像したこともなかったような自分の障害に気づくかも知らん。シャワーも同じ。体を洗って綺麗にしていると思ってたその基準が、人と全く違うかも知らん。実は自分だけめっちゃ汚いかも知らん、お尻も体も。みんなよく気をつけてください。これはなんという説得力のある注意喚起なんや。

あんまり清潔じゃない思い出語りはそれくらいにして、これからどうするかについても書きます。今、障害支援室の人が、外部の専門家に相談してくれています。その相談結果を踏まえて、僕自身と障害支援室との間で、学科に対してどういうお願いをするかを決めていく。それが可能なのかどうかはこれからの話し合い次第やけど、一番現実的な対応方法は、学期ごとの授業数を減らして、その代わりに2年のコースワークを3年に引き延ばすことかなぁ。それをすることは、それなりにいろんな含意があるので、いとも簡単に決定できる性質のものではないはずですが。

ただ学校の制度的に特例の対応が可能やったと仮にしても、この先長い目で見て、研究者としてやってくことは相当難しいと思わざるを得ない。読んでもいない本の内容についてハッタリをかまし続ける大学教員は、一種の大道芸みたいなものでまぁ面白いから世の中に存在しててもいいとは思うが、できれば誰か別の人にお願いしたい。かといって大学教員以外の道を探すとしても、ちょっとでも自分の知的好奇心を満足させてくれるような知的な職業に就くとしたら、どうしても本を読むという基本作業が仕事に入り込んでくる。物書き然り、ジャーナリスト然り。前やってた仕事みたいに行政の仕事とか、NGOみたいなプロジェクト系の仕事とか、そういうものしか残らんくなるなぁ。完全なビジネスをやるというアイディアも昔からあるが、なかなか一歩が踏み出せずにいるし、そもそも向き不向きでいうと不向きであることが間違いない。とりあえず今この瞬間は、参ったねぇ、としか言いようがありません。とりあえずもうちょっと参っておいて、障害支援室のパワーを見守りつつ、いろいろ考えていこうと思っているところであります。

その間、毎週カウンセラーのお世話になって精神の崩壊を防いでおります。この大学のリソースはやっぱり半端ない。週1回のカウンセリングが全てタダというのは、それだけでも莫大なお金をもらっているに等しい。おかげで無事です。このいう事態に直面したのが、この特定のお金持ちの大学にいる時でよかった。

大統領選挙とアメリカと人種と苦しみ

ものすごい更新頻度やけど、まだまだ書きたい。

選挙の日、24時前まで図書館で勉強していた。かなり早い時間から、周りには人がいなくなっていった。普段ならまだ何人も座ってるのが見える時間帯。開票結果を中継テレビで見るパーティがキャンパスのそこら中で展開していて、誰にとっても勉強なんかしてる場合じゃなかったんやろう。僕も勉強しながら、フェイスブックでかなり頻繁にライブ映像を確認する。22時か23時頃から、雲行きが怪しくなって来た。24時前、図書館を出る。ほんの1人か2人としかすれ違わへん。ずらっと並んだ自習室の机には、見える限り一人も座ってない。初めて見る光景。図書館を出て、自転車の鍵を外すあたりまで、まっすぐ家に帰るつもりでいた。疲れてるし、そもそもまだ勉強が終わってへん。鍵を外しながら、やっぱり人類学科の観戦会に顔を出して見るべきな気がしてくる。大統領選はアメリカ滞在中に多くても2回しか経験できひんやろうし、そもそもいまの雲行きが現実のものになるなら、一生に一回の事件がいま起きてることになる。

学科に着いてみると、MacノートでSNSを見ながら困惑して罵声を発する学生と、静かに憤る学生と、黙ってスクリーンを見つめる学生が、合計10人くらい。空のピザの箱と、半分くらい空いたワインやウィスキーのボトルと、明日の授業の課題図書。学生が飼ってる犬が走り回る。1時過ぎまでいたけど、僕はほとんど何も言わない。周りの人が怒り、議論し、ささやき合うのを聞いてる。僕が到着してからは、集計に時間がかかってる5州の結果が出そろわず、進展がない。ひっそり佇んだ後、ひっそり去って帰宅した。家で勉強を再開して暫くしたら、結果が出た。フェイスブックを開いたら、ちょうどトランプがスピーチを始める瞬間やって、ライブでスピーチを見る。日本の人と少しLINEでやり取りする。勉強は全然思い通りに間に合わず、諦めて寝た。4時くらい。眠い。

翌日は少し寝坊してから、家を出る。珍しく雨が降ってる。学科の建物に向かって、発表の打ち合わせのために同級生と会う。ヒスパニック系の、心が熱くて優しい人。建物の入り口近くにあるソファで打ち合わせてると、自然といろんな人が前を通る。マイノリティ(クルド)出身のトルコ人。昨晩から一番声高にトランプを弾劾し、選挙結果に悲鳴の声をあげてる。発表パートナーのところに来て、溢れ出るように、選挙結果を悲しみあう弔いの会話をする。ハグをする。涙ぐむ。僕は横で静かにそれを見ている。無限に溢れ出てくる感情を押しとどめるべく、発表パートナーが会話をコントロールして、発表の打ち合わせに戻る。アングロサクソン系の教員が前を通る。まるで学科の人が事故で亡くなったかのような、重い深刻な面持ちで、近づいてくる。昨晩講堂で集まって見ていたこと、心の底から驚いたことなどを発表パートナーとの間で互いに話す。お通夜の声のトーンそのもの。打ち合わせをしていると知って、去っていく。

授業に行く。人が揃い次第、先生がまず口を開いたが、当然選挙のことをまず触れる。触れたかと思ったら、何人かの特に強い思いを持ってる学生が、そこに何重にも乗っかってくる。自然と会話はコントールを失う。なぜこの結果になったか、今後どういう風になって行くかについて、冷静な発言、熱を帯びた発言が重なり合う。10人ほどのクラスのうち、5人程度が喋り、後の5人程度は喋らない。これは普段の授業のディスカッションのときと同じ。選挙についての議論がそのまま1時間続く。僕は何もいわない。議論が続く中で、先生の様子を観察するが、議論を収束に向かわせるタイミングがあるときにも先生は黙って聞いてる。自分から発言して議論を発展させることすらある。今回の発表は学期の中でもとりわけややこしいやつで、仕方なくこの日までに50時間か60時間くらいかけて本を読んで準備して来た。他の授業も仕方なく犠牲にした。3時間弱の授業の時間が延々と削られて行くことに、当然のことと思いつつも、複雑な気持ちがする。

目の前のみんなほどにはアメリカ政治・文化・社会に詳しくないし、深い思い入れもない。国際情勢の一つの(とはいえ重要な)出来事としてしか見れない。と同時に、この国に来て、大学の勉強という制度の面、学問分野を修めて行くという努力の面、ユニークなコミュニケーションの中で生きて行くという文化の面、全ての面において難しさを感じ、悩んで、工夫して失敗して成功しているそのプロセスの真っ只中にいる。その一つの象徴的な出来事として、この大変な発表の準備がある。頭ではその深刻さをよく分かってるつもりのこの歴史的事件と、精神の崩壊のリスクすら現実的なものとしてあり得たこの個人的で生々しい苦労とが、今この瞬間の中に互いを受け入れられなくてせめぎあってる。発表は、準備のおかげでうまく行き、「こんな大変な日に、一体どうやってこんないい発表をできたのか?」と拍手を浴びる。この複雑な心境は誰にも説明できない。自分が抱えてるこの生々しい苦労は、誰にも説明できない。まして、この歴史的瞬間の重要性を軽視するように見られてしまっては、危険すぎる。誰にも迂闊に説明できない。

その日から、人類学科の学生の間でメールがやりとりされ始める。「アメリカ」を失ったことへの悲しみと不信。想いを共有して、ともに時間を過ごし、互いを癒しあうこと。連帯すること。乗り越えること。こんな語彙が無数に飛び交うなんて、想像すらできひんかった。完全なる悪を目の前にした善良なる市民たちの声。でもその悪は、この国のマジョリティが昨日という日、家を出て、投票所まで行って、自分の名前を申告して、人差し指でその意志を選択し表明した結果や。その悪は、自分たち自身の中にある。自分たちの中にある悪と、それを憎み、乗り越えようとする、か弱く善良な連帯する市民たち。この断絶は、一体なんなんや。

もちろん周知のとおり、仕事を奪われたと感じている中流以下の白人労働者が、経済的動機を投票に反映させて、あるいは経済的動機から人種差別的発想を経て投票に至って、トランプ支持に回ってることは事実やろう。この大学みたいなコミュニティは、そういう人たちとは基本的に接触しない世界。トランプ支持が国全体ではマジョリティであろうと、たとえ仮に8割であろうと9割であろうと、このコミュニティみたいな場所においては、トランプを純粋なる悪やと(疑問の余地なく)感じ考える雰囲気は常に可能やろう。実際に今の状態がそうなってる。このコミュニティがトランプを弾劾するとき、自分たちの視界の外には彼を支持した生身の人間がいっぱいいて、その一人一人がそれぞれで生々しい理由と動機をもって投票したんやってことについては、このコミュニティはどういう風に理解してるんやろうか。まずそこに信じがたいほどの断絶がある。

でも中流以下の経済=人種的動機からトランプ支持にまわった人たちの票だけでは、従来のメディア予想通りクリントンの当選になったはず。2日経った今メディアで流れてる解釈によると、要するに選挙の決定打になったのは、中流以上の豊かな白人がトランプに投票したことらしい。白人が非白人を排斥する人種差別が、得票数になって表出した。これはCivil War(人種を巡って国が分断した歴史)の再来なんや。「アメリカを失った」と弔い悲しむこの人たちは、きっと、このことを直感的に理解したに違いない。しかもその排斥のエートスは、投票の瞬間まで沈黙の中に眠ってた。横に座ってる白人の友達は、こっそりトランプに投票したかもしらん。人種差別は、自分と肩を並べて存在してる。もしかしたら自分の中にも存在してる。きっと存在してるに違いない。何も信じられへんくなる。

「人種問題」は、日本で学校で勉強してぼんやり理解していたつもりやったけど、それとは決定的に異なる深みと困難さを伴う問題なんやってことを、こっちに来てだんだんわかるようになって来た。日本人は、アメリカに来たら誰でも同じプロセスを経験するんちゃうやろうか。アメリカは本当の意味で平等の国なんではない。極端に言ってしまえば、アメリカは人種差別の国や。人種差別があるから常に平等を志向するし、常に平等の国として表象する。実際生活してても、自分に向けられた視線が「これは人種差別なんか?」と感じることはある。人種差別がほんまに無くなったアメリカは、もはや平等を志向することも標榜することもないやろう。それと同時に、差別的な人種概念は、常に無限に作られ続けている。この国の人は、必要のないところでなぜか人種に結びつけて思考するし、人種概念には科学的根拠がないと知りながらそれを使用し続ける。人種概念を維持し続けることによって、アメリカは、平等の国であり続けようとしている。

平等の国でありたいという善良な市民たちの希望は、その中に含んでる矛盾した人種差別のことをよく分かってる。その矛盾は敵であると同時に、必要な内在的構造でもある。その矛盾は皮肉にも、自分たちを一つのものとして硬く結びつけてくれる、信念でもある。だからこそ、いま得票数という目に見える形でその差別的構造を暴露された時、この平等への希求を力づくで放棄させられたかのような、無力感、脱力感、絶望感を感じたんやろう。こんなとき、人間は、身を寄せ合う仲間を探し、想いを垂れ流して共感しあい、支え合って連帯することによってしか、乗り越えていくことができひん。

アメリカの断絶は、単に自由経済の勝者と敗者の断絶というだけじゃないんやろう。その社会を成り立たせている基本原理のそのさらに内側に、根本的な断絶が眠ってる。今回の選挙は不幸にも、その深い深い断絶が奇跡的な形で政治的事実として表面に浮かび上がって来てしまった。この国の人らは、それを乗り越える術をまだあんまり知らんように見える。

僕もつらい。辛さを乗り越えようとしてるアメリカ人たちを目の前にして、僕の理性、感情、知識、歴史、繋がり、弱さ、希望、そういったものどれ一つとして、アメリカを作り上げてる事実や原理と絡まりあってるものがない。目の前のアメリカ人に共感したくても、共感のしようがない。目の前に苦しんでる人たちがいて、その人たちに共感したくて、でも共感するすべがなくて、そのくせに、なんで共感できひんのか、何を共有できてないのかがありありとと見えてしまう。一方で目の前の人たちにとっては当然の絶望感やから、こっちがなんで共感できひんのかを説明しようとしても通じひん。通じひんだけならいいけど、トランプ支持やと誤解されたら大変やから、中途半端に伝えようと試みることもできひん。結局、コミュニケーションのしようがない。黙って、見守るしかない。これはいろんな意味で辛い。僕自身が、この中で生きていくことについての無力感を感じる。

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