なんだかんだで、まだいます

人類学をやり続けるしつこさには定評がある

右目を隠せば読書が速くなるというシュールレアリスムと、トレードオフされる諸能力を巡るレアリスム、そして脳と閃きの神秘について。

夢の中で、雲の上に迷い込んだ。自分の後を追って、大集団がぞろぞろと迷い込んできた。降りたいなぁと思って、下に見える海と海岸線をのぞいてたら、雲から落っこちた。自分一人じゃなくて、もう一人の人と一緒に落っこちた。パラシュートなしのスカイダイビングを図らずもしてしまい、あぁもう死ぬと思った。でも海に着水する少し前から、一緒に落下しているその人と空中で抱き合って、着水する瞬間まで力の限り叫び続けた。そうしたら衝撃に耐えられて、海水も飲んでしまわずに済むかと思って。

気づいたら、陸の上で救助されて、乗り物に乗せられてる。自分の後から次々と、雲の上から落ちてきて救助された人たちが乗ってきてる。助かったことの嬉しさよりも驚きよりも安堵感よりも、まず何よりも「助かった」という事実そのものが、深い深い感慨とともに心に押し寄せた。あぁ、助かったんや、と。向かいに座っている、後から落ちてきて同様に救助された顔見知りの人を見ては、「あぁ、助かったんや」と、自分のこととも人のこととも言えない唯々深い感慨をもう一度確認した。

そんな夢を見てから、朝、目が覚めた。あれは夢やったんや。そう思う一方で、あの「助かったんや」という事実を確認したときの感慨の深い深い奥行きは、間違いなく正真正銘の、生きた心の動きそのものやった。夢から覚めても、まだありありとその心の機微を思い出し、感じ取れることに、すこし感動した。そんな感動を味わいながら、夢の余韻と、布団の暖かさを楽しんでいた。

 

そのとき、急に閃いた。

右目と左目で、何か違う能力があるんじゃないか。書かれた言語情報を視覚的なイメージに変換してしまう自分の特徴について考えてきたけど、そういえば脳には右脳と左脳があって、右脳優位みたいな言葉もある。首より上では、顔の右半分が右脳に、顔の左半分が左脳につながってるという話をどこかで聞いた。そういえば学習能力検査を受けた時に、左右それぞれから音を聞いて反射的にボタンを押すという検査項目があり、その結果として「右耳の反応が左耳と比べて僅かに遅い」と書いてあった。目についても、右目で視ると左目より僅かに遅い、かもしれない? 言語情報を言語のまま受け入れられないのは、右目から右脳へと情報が入ってしまうから? 左目だけで見たら、情報を直接左脳へ送り込んでくれるんじゃないか?

ということで、布の切れ端を探してきて、右目を隠した眼鏡を作った。布団の中でなぜ急にこれを閃いたのかは、全くわからない。閃きというのは、そういうものです。

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これで、読書をする。普通に考えて、そんなアホなことがあるわけがない。わざわざ片目を隠して読書して読みやすいわけない。もちろん自分でもそう思いながら始めた。

ところが皆さん、存分に驚いてください。

これで読むと、スピードが2倍速くなってる。

この片目眼鏡で日本語の本を読むと、最初は1時間に20ページくらいやって、慣れてきたら25ページを超えてきた。英語やと、7.5ページとか10ページとか読める。これまでは日本語で10と数ページ、英語で3ページが平均的な速さやったのと比べて、2倍以上の速さになってる。そんなこと、あるんかな。

あまりにナチュラルにそのくらい読めてしまって、何かの勘違いがあるんじゃないかと、何回も疑った。でも、半年くらい前から何度も何度も執拗に読書スピードを計測して、いつでもコンスタントに(英語なら)2〜4ページ、(日本語なら)10ページとちょっとやったことは、今になって急に否定することはできひん。逆に、いま1時間に25ページ読めてしまっていることも、まさに眼前で起きていることなので否定のしようがない。時計をチラチラ見ながら、読み進めたページ数を引き算すれば20〜25ページくらいになる。また、ある本(240ページ)一冊をまるまる読むのに1日とちょっと(だいたい12時間くらい?)しか掛からんかったことを考えても、1時間に20ページくらい読めてることが分かる。数字を見れば間違いなくその変化が起きてるのに、体感としてはあまりにナチュラルに起きてしまっているので、自分でも狐につままれたような気分や。

 

さらに、これをやり始めてから、次から次へと面白いことに気づく。

まず、片目眼鏡をつけると、どれだけ読書しても頭が疲れない。昔からこれまでずっと、読書はホンマに頭が疲れる作業で、苦痛やった。これまでは20分くらい読んだだけで、まるで2000㎞走ってスタミナが切れた時みたいに脳味噌がバテてしまい、洗面器からブハァーっと顔を上げるようにして本を机に置き、脳味噌の休憩を求めて何か無関係のしょうもないことをせざるを得ない(したがってフェイスブックやメールボックスを頻繁に開けてみる)、ということを延々と繰り返していた。それが、この片目眼鏡をつけると、何時間ぶっ続けで読書してもその疲労感が訪れない。事実、自分の中の体感としても、片目眼鏡で読書をしている時は全然頭を使っている感じがしない。したがって、脳みそのスタミナ補給のために常に摂取していた飴やチョコレートは、片目眼鏡をつけて以来ほとんど摂らなくなってる。箱買いした「白いダース」が、それ以来減っていない。あるのはただ、映画を観終わった時のような躯体の疲労感だけ。

それもそのはずで、左目だけで文字情報を追う読書は、これまでの読書体験とは明らかに根本的に異質な作業やと、実際の体感として感じる。言葉が、その意識的な解読を要求することなく、スッと、そのまま頭に入ってくる感じがする。こういうことを体験したことはこれまでにもあったかも知らんし、特に会話とかでは無意識に体験していたかも知らんけど、でも読書という形式の知的作業の中で一貫して連続的にこの「スッと」入ってくる感覚が続いたのは、記憶の限り一度もない。急に体が宙に浮いて空を飛んだかのような、スムーズで、楽チンで、心地よくて、そしてすごく不思議な体感。ほんまに驚いてる。

この感覚を体験した今となってみれば、これまで「文字情報を視覚的なイメージに変換してしまっている、ような気がする…」と自信なく曖昧に表現していた自分の両目読書の行為が、この片目読書の行為と比べれば決定的に、根本的に、もう絶対的に異質なものであるということが、ありありと自信を持って分かる。

そしてその片目読書の側に立ってみて、もし自分がその片目読書の体験しか知り得なかったと想像した場合、自分自身がかつて行なっていた両目読書の行為をもしも他人から説明されたとしたら(「視覚的イメージうんちゃらかんちゃら、1時間に3ページうんちゃらかんちゃら…」)、そいつが何を言っているのやら皆目見当もつかないやろうと思う。それくらい、片目読書の体感と両目読書の体感は、質的に根本的に異なってる。誰にも分かってもらえないのは、ある意味で当然とも言える。

 

読書スピードの遅さについて悩む中で気づいた自分の特徴の一つに、現代思想のような抽象的な言語表現がどうも理解できない、ということがあった。現代思想に限らず人類学でも、本の本論部分は具体的な説明があるから分かるのに、導入や結論部分は抽象的な言葉が多いので、よく分からんことが多く、半ば理解を諦めていた。そしてそのことは、自分が言語情報を視覚的イメージに変換して読んでしまうという仮説と密接に関係しているように思っていた。

そこで、これについても片目眼鏡で何かが変わるかどうか、試してみた。すると、またしても驚くべきことに、抽象的な表現の言葉がスラスラと分かる。日本語では、『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」で試した。これは、昔に読んだ時に意味がわからず放棄したことを、今でも覚えているから。これが、昔読んだ時の感覚とはまるで違って、分かる分かる。もちろん、『野生の思考』の思想史的な文脈(具体的にはサルトルの著作とか)を十分には知らないので、わからない箇所も結構ある。しかし昔読んだ時の感覚と比べると、まったく違う。読んで分かるから面白いし、ワクワクしてしまった。

でも昔この章を読んだ時から今までの間に、かなり色々な勉強をしたわけで、知識量的に理解の準備が進んだから分かっただけではないのか、とも疑った。

そこで、別の本でも試してみた。約1年前に読んだ本を二つ取り出してくる。シカゴ大学の人類学者が書いたBiocapital: The Constitution of Postgenomic Life(邦訳:『バイオ・キャピタル)の序章(理論的な展開を行なっている章)を読んでみる。1年前には邦訳で序章だけ読み、本文は英語で読んだ。その時の序章の印象は、「マルクスフーコーやを引用して、なんか難しいことを言ってる。よく分からんけど、翻訳者も興奮して訳者解説を書いてるし、マルクスフーコーも上手に編み上げられてるみたいに見えるから、きっと良いことを言ってるんやろう」という程度。序章の理論展開はあまり気にせず、本文だけよく理解するように注意していた。で今回、序章を英語で読み直してみた。すると、分かる分かる。スラスラ分かる。そして内容的には、そんな大したことを言っていないということが、よく分かる。言葉遊びみたいな感じで頭のいい人やとは思うけど、思想的に何か意義深い内容があるかというと、そこまででもないと思う(もちろん、いい本やとは思うけど)。理論と理論のちょっと新しい組み合わせであり、それをうまくやってのけてるとは思うけど、極端に言えばそれ以上のことはない、というのが分かる。1年前とは、まったく理解度が違う。そして読むのにかかった時間を見ていても、1時間に10ページくらい読めてる。(行間が少し大きめやから、たぶん)以前の2倍くらい速くなってる。

もう一つの本は、サッセンのTerritory, Authority, Rights: From Medieval to Global Assemblages(邦訳:『領土・権威・諸権利』)。これは当時、抽象的なことを延々と語り続けていて、どうも腑に落ちひんなぁ、そして同じことばっかり繰り返してるように思えるなぁという印象やった。今回、一番核になってる章の冒頭部分だけ読み返してみた。そうすると、分かる分かる。そして分かってみると、別にそんな極度に抽象的なことも言ってないし、しかも結構章ごとに(少なくともその章は)議論の対象を細切れに切り分けて書いているようやった。だから、抽象的で腑に落ちない内容を何度も繰り返している、という読みは、たぶん相当ズレてたと思われる。(全部を読み返してみれば確認できるけど、なんせ膨大なのでやめとく。)

こういう本を読み返して、以前の体感と比べてみることによって気づくのは、「速い」「分かる」ということだけではない。「よく分からんかったから前の行に戻って読み直す、それによって行ったり来たりする」みたいな作業が、以前と比べて圧倒的に少なくなっている。なので、時間的に速くなってるのは当然とも言える。

 

これを踏まえて、もう少し、両目読書の立場から片目読書の体感を説明してみる。

片目読書をすると、目の視野の中に1回で入ってくる言語情報の領域(紙面?)が、広い。一度に英語1単語をまるまる理解できるし、それどころか、一瞬さっと目を動かすことによって何単語も一気に理解できる。両目読書の時は、英語の1単語を読むためにその単語の内側を分解して(de + national + ize + d)、そして再び組み立て直して、あぁこれは“denationalized”と書いてあって、国民国家の枠組みから分離してるという意味やな、と理解していた。これに対して、片目読書では、denationalizedを1回みることでそのまま丸っと理解できる。感覚的には、漢字を一目で理解するのと近い。

実は以前から、漢字の単語を目で見て視覚的に理解できてるなぁと感じながら、なぜ同じことを英単語についても出来ないのか、不思議で仕方なかった。英単語は表音文字であり漢字とは仕組みが違うというのは明らかであって、そのことを自分の読書体験の独自性を説明する理論としても用いていたけれども、でも一方で、英単語も単語レベルではいわば一つの絵のように認識することは可能なはずやと、ずっと思ってた。なぜそれが出来ないのか、分からなかった。それが急に出来たことになる。

そして、こういう風に単語を丸っと理解する認知方法は、すごく速度が速いみたい。なので目を左から右にさっと流すことによって、ほぼ一瞬で1行(もしくは半行くらい?)が理解できてしまう。もっと極端に言えば、自分の意識上ではしっかり見つめたつもりの無い文字すらも、目の端っこで捉えるだけで何故か理解できてしまっている、という感じがする。摩訶不思議な、手品のよう。

しかし「理解できる」という表現も、かなりの曲者やと思う。より正確に観察すると、そもそも両目読書のときの単語の「理解」と、片目読書の時の単語の「理解」は、質的に根本的に異質なものや。片目読書では、理解しようとする意識的な努力を全く必要としない。自然に、言葉とその意味が頭の中に勝手に入ってくるような感じがする。両目の時みたいな、いちいち意識して考えて意味を理解しようとするようなプロセスが、そこには存在していない。ほんまに不思議な感覚やけど、恐らく普通の人はこの「勝手に意味が流れ込んでくる」プロセスの方しか体験したことがなくて、「いちいち意識して意味を理解する」っていうのがどういうことなのか、逆にそれが全く理解できひんやろうと想像できる。(あるいは、不慣れな外国語を読む時の感覚を思い浮かべるやろうか。それは、結構近いかも知らん。*1

そしてもう一つ、両目読書の立場から片目読書を観察して言えるのは、読み進めながら記憶しておける前の単語や前の行の量が、片目読書の方が圧倒的に多い。言い換えると、両目読書では、目が次の単語や次の行へと移るたびに、直前に読んだ内容をことごとく綺麗さっぱり忘れていく。したがって何度も上下前後に行ったり来たりして、意味内容を記憶にとどめるたびに意識的な努力を繰り返しながら読み進めていく必要がある。片目読書では、こういう努力がかなり不要や。片目読書では、目を滑らせていけば意味内容が自然と頭に入ってくるし、それも前の単語や行の内容が頭に残っていて、文が全体として繋がった形で頭に入ってくる。

これは特に英語で顕著な効果がある。両目読書の時は、一文の中で読み進める際に、文頭に書いてあった内容を忘れてしまうから、文中で出てきた挿入節とかが文法的に何に対して掛かっているのかを、すぐに見失っていた。なのでいちいち、指で辿るようにして、文法的な修飾・被修飾関係を意識的に追跡しながら読まなあかんかった。片目読書では、こういう意識的な努力をする必要性が、格段に減る。書いてある順序のままに、書いてある流れのままで頭に入って来てくれる。

実は、片目眼鏡を掛けた最初の頃は、体のどこか一部を縄で縛られて自由に身動きができないような、その縄(この場合は眼鏡)を暴力的に取り払ってしまいたいような、そういうイライラする不快感があった。とはいってもそれは、片目眼鏡をつけて家の中を歩き回って見た時に感じる、認知の不足感(立体感の不足)とはまた次元が違うものやった。もっと、根本的に、普段行なっていることが制限されてしまっているような、そういう遣る瀬無さやった。いわば、足の代わりに両腕で体を引き摺り回して移動しないといけない時みたいに。

そしてその遣る瀬無い不快感は、片目読書を開始して数日経った今でも、ふと油断するとすぐに訪れる。しかし、ギアが乗り始めると、「スッと」意味が入ってくるようになる。そして、感じていた遣る瀬無い不快感は、思い出さない限りしばらく忘れていられる。

これはどうやら、速読が「できる」「できない」の問題というよりかは、もっと正確にいうと、速読を邪魔してしまうある種の特殊な認知特性が、油断するとすぐに表舞台に躍り出ようとする。だからそれを強引に(片目眼鏡で)シャットアウトする。そういう仕組みのように思う。

 

両目読書と片目読書のこういった相違は、自分の感覚をつぶさに観察してみる限りでは、やっぱり明らかに、視覚的イメージに変換しようとしてしまう(右目の能力が表舞台に踊り出る)か、言語を言語のままで受け入れる(右目を抑え込む)か、という区別なんやと思える。二つの認知方法は、まったく根本的に仕組みが違っていて、まるで二つのパラレルワールドが存在しているような気にさえなってくる。片目読書の認知方法を基準にして考えれば両目読書の認知方法がまるで珍奇で不器用で不要なものに思えるし、両目読書を基準にして考えれば片目読書はまるで天才の曲芸のように思える。

しかしそれと同時に、どちらの認知方法も、自分のこれまでの人生の中ですごく慣れ親しんできたもののように思えてならない。両目読書の苦労が、これまで散々いじめられてきたジャイアンの憎たらしい鼻づらのように親しみを感じるのは当然であるとしても、それと同じくらい、片目読書のこの飛び滑り流れるような情報の注入方法も、人生で初めて体感する類のものやとは全く感じず、むしろ、読書以外の場面で常に実践してきたものであるような気がしてならない。恐らくそれは、マシンガントークの友達の話を聞く時とか、お笑い番組のテンポの速いやりとりを聞く時とかに、ごく自然に実践してるものなんじゃないか。おそらく英語では、日本語ほどナチュラルにはこれを実践できてないと思われる。だから、クラスメートの発言が、発せられた言葉は頭の中に浮かぶのにその意味が頭に入って来ずに置き去りにされる、ということが起きてたんやろう。

したがって、大学院の教員に対してどう説明すればいいか分からず困った結果、「みんなが、全く別の意味世界に住んでいるように感じるんです」と言ったことがあったのは、やはり正しいことやった。もちろん、その教員はまったく理解を示さず、思い出すのも嫌なやり取りやったけれども。

 

さらに面白い観察がある。

眼鏡をつけたり外したりしながら、片目と両目でそれぞれ何が起きてるのかを観察していた時に、感じたことがある。両目にすると、当然のことながら、本とページが立体的に見える。でも、本の中に書かれている意味内容すらも、立体的に見える気がした。これは何とも不思議な感覚で、自分でもどう説明したらいいのかまだ分からへん。逆の言い方をすれば、片目にした時に、書かれている意味内容が平板に見えて驚いた。言語によって表現された意味内容が「立体的」とか「平板」(「平凡」じゃなくて)とか、そういうことってあり得るんやろうか。

最初一瞬だけ、単にしなってるページの紙が立体的に見えるのを「立体的や」と感じているんやと思ったけど、どうもそれだけじゃない。そこに書かれてる言語的な意味内容それ自体が、立体的に見えてる。そしてさらに面白いことに、ページの紙自体が立体的なことと、言語的に書かれている意味内容自体が立体的なこととは、どうやら、厳密な境界線がないように感じる。それは連続(spectral)してる。これはもしかしたら、一種の「共感覚」(リンクはWikipedia)なのかもしれん。

そしてこのことに気づいた瞬間、一番初めに思ったのは、片目で見る読書における意味内容の体験というのが、なんという味気のない、平板で薄っぺらくつまらないものなんや、という驚きやった。確かに速くは読めるけれども、でもそこに広がっている意味内容の世界というのが、いわば地平線までずっと何も遮るものがない一面の砂漠のような、そういう味気のない世界みたいに感じる。この例えを続けるなら、両目読書で見る意味内容の世界というのは、切り立つような山や、深々と堕ちる谷底や、森や川があって、なかなか前に進めない世界のよう。読むのに時間はかかるけど、砂漠で生まれ育った人には想像もできないような、全くの異世界とその体験が広がってる。正直にいうと、その相違に気づいたときは驚いたと同時に、もしも普通の人はこの片目読書の平板な意味世界しか体験したことがないのならば、それはすごく可哀想なことや、と思ってしまった。

 

さてそういう訳で、新しい読書体験を発見した今、正直言ってすごく興奮してる。たくさん読めるし、これまで分からなかった本も読める。でもだからといって、読む速度が急に1時間あたり100ページや200ページになった訳ではなく、あくまで1時間あたりに20ページなだけ。残念ながら、まだまだ普通の同世代の人の何倍かは遅いやろう。

ここからは推測やけど、自分は、真剣に読書を始めた中学生くらいのころから一貫して、視覚的イメージへの変換によって意味内容を捉えようとしてきた。その結果、読書スピード向上のその傾き(加速度、というか)が、他の人と比べて圧倒的に小さかった。もしも、中学生の時点でこの片目読書を発見していたら、他の人と同じ傾き(加速度)で読書スピードを向上した結果、 今では1時間に50ページとか100ページとか読めるようになっていたのかもしらん。もう28歳なので、15年くらい損した計算になる。

でもその反面で、山や谷を乗り越えながら立体的な意味世界を体験するという、ちょっと変わった困難な取り組みを、独りで黙々と続けていた。それはある意味では損なことやったかも知らんけど、でも別の意味では、得なことやったとも言える。正直にいうと、僕は周囲の人と会話や議論をする中で、論理や意味や意図や背景や文脈や意義といったものが、他の人と比較にならないくらい圧倒的に速いスピードで読み取れる、と感じることがしばしばある。それはまるで、周囲の人が地道に議論を積み重ねてテクテクと歩いて目的地にたどり着こうとしている時に、自分だけジェット機か、下手をするとどこでもドアすら使って、ひとっ飛びに目的地にたどり着いてしまうような感覚と言える。(ただしもちろん、常にそうだという訳なくて、逆に周りに付いていけない時もある。)

考えるにこの強みは、明らかに読書の苦労と関連していると思う。高い蓋然性で、読書の苦労自体が自分の脳を鍛錬して、他の人は持っていないような強い(特殊な種類の)思考力を身につけたんやろうと思う。もしも中学生の時点で片目読書を発見していたとしたら、この特殊能力は身につかへんかったやろう。結局、あっちを取ればこっちが取れず、こっちを取ればあっちを取れず、というトレードオフに過ぎひんのやろうと思う。

だから、自分のデコボコした能力は、必ずしも絶対的に負のモノということにはならへん。ただ、デコボコしていると、人と違ってるという事実それ自体に起因して、膨らんでいる能力だけを見て天才やと勘違いされたり、欠落してる能力だけ見て能無しやと勘違いされたり、あるいは一貫性がなくて理解不能な人やと思われたり、はたまた一貫性のなさゆえに嘘をついていると誤解されたりする。また、例えば読書の苦労みたいな、他人に説明しても理解されない苦労は、永遠に理解されることがない。こういう、悲しいことも多い。

 

片目読書を発見して興奮すると同時に、実は同じくらい心配してるのは、今後もし片目読書に頼りすぎると、自分の強みもだんだん消えて行ってしまうんちゃうか、ということ。だから、何冊かに一冊は、眼鏡を外して読もうかなと、考えているところです。

 

 

* * *

ところで余談やけど、眼球から伸びてる視神経が右脳左脳とどういう対応関係にあるのかをグーグル検索してみると、どうやら左右両方の目が、それぞれで左右両方の脳につながっているらしい。これをそのまま今回の話に適用すると、右目で見るとイメージ認知に繋がってしまって、左目で見ると言語認知につながってくれる、という話はおかしいように思える。

でも、そもそもイメージ認知の力も言語認知の力も、運動会の赤組と白組みたいに左右で綺麗に別れているものでもないはずやし、脳というのはもっと複雑やろう。皮質部分(外側)と連合野みたいな内側の違いもあるし、前頭葉後頭葉頭頂葉という部分の違いもある。最初のひらめき自体は、赤組白組の運動会チーム分け方式のような短絡的な発想やって、それが結果的には有意義な発見につながったわけやけれども、でも実際の仕組みといういのはもっと極めて複雑なはずや。ほんまにたまたま、奇跡のような偶然によって、僕の脳味噌の中では、左目で文字を見ると言語的な処理をするのに都合がよかった、というごくごく個別的な事情にすぎひんやろう。

だから、だれでも右目を隠して読めば読書スピードが上がるやろうとは、全然思いません。誰でも試してみるのは自由ですが、それでうまく行かなかったからといって「そんなん嘘や」とは言わないで欲しいです。

脳の神秘もすごいけど、この発見ができたということも、神秘的やと思う。おもしろいなぁ。

*1:内海『自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために』(P183-4)は、次のように書いている。「われわれの世界は、まず母語によってフォーマット化されている。経験は身体とともに、この母語によって構造化されたフィールドの上で展開されることになる。外国語を学ぶ時にも、その習得は、母語によるフォーマット上でなされる。それに対し、...ASD自閉症スペクトラム障害)では言語が身体に染み込んでいない。むしろ道具のように、無骨に使われている。ASDの世界は、母語によってフォーマット化されておらず、言語はアプリのようにインストールされる。彼らはあたかも外国語のように母語を学んでいくのである。」
したがって、日本語を読む時ですら「いちいち意識して意味を理解する」と僕が呼んだプロセスは、この内海の言い方を借りれば、外国語を運用するのと同じように母語を運用していることの結果なのかもしれない。
これと同じ意味で、世界が母語でフォーマット化されている普通の人が「母語なのに「意識して」理解しようとするというのはどういうことやねん、それってつまり、不慣れな外国語を読み解こうとする時みたいな感覚なんか??」と考えるとしたら、それはかなり正鵠を射ているかもしれない。

自分の仮説を(途中まで)立証している論文を発見。視覚的な文章も、視覚的でない文章も、等しく視覚的にゆっくりとしか読めない脳について。

最近Googleから検索でここにたどり着く方が増えているようなので、これまでの経緯をおさらいします。アメリカで大学院に入ったんですが、英語の読書スピードが遅すぎて到底やっていけず、誰にも理解されずに支援を受けられないままドロップアウトしました。学力も英語能力も、十分に高い。しかし(英語の)読書スピードは100人中で下から1位。これが、一体何なのか??というのをずっと調べています。どうやら自分は自閉症スペクトラムASD)を持っているらしい、というところまで分かっていて、自分の感覚的には読書スピードもASDと関わっているように思えてなりません。そういうときに、以下の論文を見つけました。

RK Kana, TA Keller, VL Cherkassky, NJ Minshew & MA Just

Sentence comprehension in autism: thinking in pictures with decresed functional connectivity

Brain. 2006 September 129(0 9): 2484-2493.

 「自閉症の人が文章を読むときの脳の使い方が、自閉症じゃない人と比べて根本的に異なってる。普通の人なら言語能力と関わる脳機能を使うような場面で、自閉症者は視空間認識と関わる脳機能を使って文章を読んでる」と、実験で示している論文です。

テンプル・グランディン『自閉症の脳を読み解く―どのように考え、感じているのか』(リンクはアマゾンアソシエイト)に引用されていたことから発見しました(6章、P174)。

これはまさに、読むのが遅い謎の現象にぶち当たった結果として、文章を読むときに頭の中の動きがどうなっているのかを自分自身でよく観察して打ち立てた仮説そのものです。それがそのまま、脳科学の論文で実験結果とともに示されている。

ここで行われた実験とは、簡単に要約すると以下のようなもの。

自閉症者のグループと、対照実験のための定型発達者のグループを用意する。

意味内容的に視覚性の高い文章問題(視覚問題)と、意味内容的に視覚性の低い文章問題(言語問題)を用意する。

視覚問題とは例えば、"The number eight when rotated 90 degrees looks like a pair of eyeglasses. True or False?"(ローマ数字の八は、90度回転させると眼鏡のように見える。正か誤か。)のようなもの。

言語問題とは例えば、"Animals and minerals are both alive, but plants are not. True or False?"(動物と鉱物はどちらも生きているが、植物は生きていない。正か誤か。)のようなもの。

両グループが二種類の問題を解く際に、脳内のどの部位が活性化されるかを、MRIによって調べる。

定型発達グループは、視覚問題に対しては視空間認知に関わる脳の部位が活性化し、言語問題に対しては言語に関わる脳の部位が活性化した。言語問題に対しては、視空間認知に関わる脳の部位が活性化することはなかった。

自閉症グループは、両方の問題に対して視空間認知に関わる脳の部位が活性化し、異なる種類の問題に対して脳の使い方の変化が見られなかった。

細かいことは他にも色々あるが、一番重要な議論は以上のとおり。確かに僕自身も、上記の例題を最初に見たとき、動物の絵と結晶体の絵を思い浮かべて、それを見て「いや生きてない」と判断した。全く実験結果の通りやと思う。

何故このようなことが起きるかという原因論については、いろんなレベルでいろんな推測が行き交っていて結論が定まらない。けれども、有力そうな考え方は、脳の部分部分を結ぶ神経回路のうち、あるものが何らかの理由でうまく発達しなかったために、他の部分と繋げる神経回路を発達させることによって能力を補った、という説。これはMRIによる画像データからも根拠が出されている。

文章を読む際に、何ら視覚的な意味内容のない文章であっても必ず脳内の視覚能力を経由しないと意味が理解できない、というのは、自分で自分の脳の動きをよく観察してたどり着いた発見そのものや。しかもその時の感覚は、言語を言語のまま理解しようと努めても頭の中がモヤモヤして脳が機能しない感じがし、永遠に理解ができない、というもの。この感覚は、「本来あるべき神経回路が不在である」という脳科学的な説明にぴったりと合致する。

 

この論文では残念ながら、短い一文を対象にした実験にとどまっている。その上で、解答にかかった時間は自閉症グループも定型発達グループも差異がなかったと(極めて簡潔に)述べるにとどまってる。

でも、この実験みたいに「一文について立ち止まって考えて、正か誤かを解答する」のではなく、もし「連なった長い文章を、内容についての判断なしにどんどん流し込んでいく」という作業を行なったとすれば、両グループにおいて作業に要する時間が大きく変わるとしても全くおかしくない。本を読むときに僕の頭の中で起きてしまうのはまさにそれであって、書かれている全ての言葉・文章をいちいち視覚的なイメージに変換して読まないとあかんから、言語を言語のまま理解するのと比べて時間がかかってしまう。目自体では素早く文章を追えるけど、意味内容を少しでも理解しようとすると、イメージを連想・想起するスピードが読むスピードを制約してしまう。

友達に「どれくらいの速さで読めるのか」と聞いて回った印象では、普通の人はどうやら読む速度をコントロールできたり、文章によって大きく速度が変わったりするらしい。僕は、これが起きない(起こせない)。どんなものでも、ほぼ一定の遅い速度でしか読めない。ただしその中でも難易度によって多少の速度変化はあるけれども、でも他の人と比べてその変化は圧倒的に小さいみたい。この論文の実験結果は、このことも上手に説明してくれるんちゃうやろうか。普通の人は、言語的な認識能力と視覚的な認識能力の両方を使って文章を読む。素早く(浅く)読もうと思えば、言語的な能力だけを使うことができる。文章が難しかったり、精読したいときは、視覚的な能力も使って読むから、そのときは視覚的能力の処理スピードに引きずられて遅くなったりする。言語能力と視覚能力をどれくらいの按配で組み合わせるかによって、極端に早い時から極端に遅い時まで、連続的なスピードの変化が生まれる。これに対して僕は、(ほぼ)視覚的能力しか使えないから、(ほぼ)一定の遅い速度でしか読めない。

このレベルまで問題設定をして実験をしたような論文は、どうやら存在しない。専門家に会うときに、この話をしてみようと思う。研究データが存在しない仮説的な話やから、専門家にとっても確定的なことは言えへんやろう。でも、「自分は自閉症スペクトラムがある」かつ「自閉症スペクトラムが原因となって読書スピードが極端に遅い」という二つの議論両方について、専門家から何らかの支持をもらえれば、大学に入り直すとかの選択肢を選ぶときに強い味方になる。

 

 

ちなみに、これまでで読んだ自閉症関連の文献の概要は以下の通りです。同様に勉強する方は、参考にしてください。

 

★★神尾陽子『成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル』(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2012。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた臨床マニュアル。今の時点でもっともオーソドックスに、包括的に、基本的な事項を知れる本。

 

★★青木省三『大人の発達障害を診るということ: 診断や対応に迷う症例から考える(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2015。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた臨床ガイド。神尾に載っていないような、より現場に即した症例を多数紹介する。典型的な自閉症者は臨床現場においてマイノリティであり、グレーゾーンに属する患者こそマジョリティなので診断と治療に知識が必要だ、という基本的な理念のもと、そういった扱いの難しい症例をどのように診断し扱ったか、そこから得た教訓は何か、を詳述。

 

★★☆石坂好樹『自閉症とサヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐(リンクはアマゾンアソシエイト)星和書店、2014。

自閉症を専門にする精神科医が、一般の精神科医向けに書いた研究書。現在主流となっている学説を批判的な立場から俯瞰し、自閉症研究において何が未解決のまま残っているのかを真摯に提示する。また、自閉症者は何が「できない」のかではなく、何が「できるのか、得意なのか」に着目して、そこから自閉症の原因・機制を解き明かそうとする。そのため、特殊な能力である「サヴァン」に着目する。

 

★★☆内海健自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために(リンクはアマゾンアソシエイト)医学書院、2015。

精神科医が、一般の精神科医向けに書いた研究書。現在主流となっている学説を批判的に検討し、著者の臨床経験から得た独自の視点・知見を提示する。医師が自閉症者を「現象」として外側から見るのではなく、自閉症者自身が世界をどのように経験しているのかを知ることが重要と考え、その課題に対して著者なりに取り組んだ。

 

★★テンプル・グランディン『自閉症の脳を読み解く―どのように考え、感じているのか(リンクはアマゾンアソシエイト)NHK出版、2014。

自閉症者自身による自伝の先駆けとなったグランディン(動物学者)による、最新の自閉症研究の成果を踏まえた一般人向け解説書。アメリカの実証主義的な脳神経科学を下敷きにしているため日本人の著書とはやや趣が異なる。議論が当事者としての感覚的な理解にバックアップされていることはもとより、数十年にわたって経験と理解を執筆してきた中で積み重ねた推敲が反映されているため、説得力がある。

 

★★☆ドナ・ウィリアムズ『自閉症という体験(リンクはアマゾンアソシエイト)誠信書房、2009。

グランディン同様に自閉症者自身の伝記で有名なウィリアムズが、必ずしも医学や神経科学には依拠せずに独自の理論を展開した、いわば思想書。定型発達者は成長の過程で、動物としての人間が持っている本能的な能力を失ったが、自閉症者はこれを保持している人たちである、とする。

 

別府真琴『なぜ自閉症になるのか 乳幼児期における言語獲得障害(リンクはアマゾンアソシエイト)花伝社、2015。

内科医が、精神医学的自閉症研究における通説に対して批判と異論を提出した研究書。当事者として読む限り、着想として正しいと思える箇所はあるものの、それはほんの一部だけにとどまり、全体としては議論が大雑把で独りよがりか。

 

★★☆松本孝幸「<内側から見た自閉症>」(もと総合支援学校教員によるウェブサイト)

日本と外国での自閉症者自身による自伝書から興味深い一節を抜粋し、松本氏自身の教育現場での経験と照らし合わせて紹介・議論するウェブサイト。1000近い抜粋がある。

 

★★宮尾益知、滝口のぞみ『夫がアスペルガーと思ったときに妻が読む本(リンクはアマゾンアソシエイト)河出書房新社、2016。 

高機能自閉症者は仕事や業績で成功することが多く、世間的な評価が高い場合が多い。しかしその独特な考え方(強いこだわりや、他人の気持ちを読み取れないこと等)により、家庭において妻との関係が問題化しやすい。 「成功者」でもあり「いい人」でもある高機能自閉症の夫を持つ妻は、自分が間違っているのかと悩み憔悴する。この妻の状態を一つの精神病理と見立て、その解決策を模索する。精神科医が一般向けに書いた本。

 

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本当の不条理は、それを転覆することができない仕組みになっているからこそ、本当の不条理。それを前にすれば、もう唯々嘆くしかない。

こんだけ心的外傷を負ってしまった理由の一つは、例の障害支援室の対応が、およそ想像できる限りでほとんど最悪のパターンやったことが、大きい気がする。

障害支援室に助けを求めることは、いわば自分に「障害」のラベルをつけられることを受け入れることやから、それなりの覚悟と勇気がいる。でも、そのデメリットよりも、そのラベルに基づいて受けられる支援というメリットの方が上回るやろうと判断して、行ったわけや。で、最初の面談では、「話を聞く限り、何かありそう。検査を受けたら、ラベルがつくかどうかは分からんけど、何らかの傾向性として自分の特徴がわかると思うよ」と優しい声をかけてくれ、理解のあるような暖かい視線をくれた。まさにそういった、外から見た名付けのようなものがあれば、自分のこのモヤモヤしていてかつ明確にそこに存在している苦労がズバリ何者なのか分かることになり、気持ちの上でスッキリもするし、具体的な対策も考えやすいやろう。そういう期待をもって、検査を受けた。

ところが、実際に受けてみた検査は、数字をはじき出す部分がもちろん定型的なものであるのはいいとしても、質的なインタビューや観察の部分もほんまに表面的で、こっちの話をまともに取り合ってすらくれへん。商売として検査をやっているという様子そのものやった。そしてそんな検査に基づいて障害支援室の人が取った行動は、あろうことか、僕がズルをして低い数字をわざと出したと疑ってかかることやった。

「この読書スピードの検査項目は、簡易的なもので、うんちゃらかんちゃらやから必ずしも正確なスピードを測れないんです。そして君は、時間を延長したときでも依然として読解量が1パーセンタイルってなってるけど、問題を解かずにじっと座っていたんですか?他の検査項目には異常が見られなくてこの箇所だけ極端に低くなっているのは、私たちの知っているパターンに当てはまらないから、理解できない。」

この言い方は、見紛うことなく、「あなたがズルしようとすればズルできる検査だったんです。総合的に見ると、ズルしたとし考えられません。ズルしたんでしょう」と言っている。そしてこれを言いながら、目を細めてこちらを斜めから見るという、猜疑心を露骨に見せつける態度をとった。これは、支援者として本当に下劣の極致、まさに底の底にベタッと張り付いてる水準や。

そして、これに対してこちらが大声をあげて反論したら、解散してからメールで「もうちょっと考えて見るから、〜について詳しく教えて」と言ってくる。たった一回の面談で相手の反応にたじろぐくらいの信念しかないくせに、露骨に相手を疑って見せてしまてしまうなんて、一体どういうプロフェッショナリズムをしてるんや。

検査を実施した人らは、単に金儲けのためにやってるだけである一方、検査結果を良しなに「解釈」できないようでは信頼を失うから、「これはズルしているパターンですね」とか言って片付けたんやろう。障害支援室は、検査実施者のそんな下らん入れ知恵を安易に信用して、猜疑の気持ちに簡単に支配されてしまったんやろう。ほんまに文字通りのカスや。

その上、検査結果それ自体が出た瞬間に僕は、執拗に「この検査実施者の解釈は不十分やから、自分の意見も言わせてください」とメールし続けていた。それを無視した上での勝手な結論付けやから、腹わたが煮え繰り返る思いがする。面談後に向こうがたじろいで「〜について教えて」と言ってきて遣り取りをしたあと向こうの反応がすこしだけ変わったから、こういう情報もなしに勝手に結論付けを行われたことがほんまに遺憾や、と伝えたところ、「メールで色々聞いて初めてわかったことがたくさんあったので、仕方ないでしょう」と。いやいや、だから最初から、説明させてくれと200万回くらいメール送ってたやん。それを「忙しいから」とかなんとか言って先延ばしにしてたのはお前で、その先延ばしにしている最中に勝手に結論を出したのもお前やん。いい加減にしろ。

てっきりこの障害支援室の人は、医療資格までは持っていないにしても、なんらかの障害関係の資格を持っている人なんやと思ってた。そう思わせた理由は、まずそうでないと障害支援室の室長なんかにならへんやろうという思い込み、そして次に、堂々とした貫禄と自信に満ちた雰囲気。しかしいま改めてググって見たら、何の事は無い、障害と微塵の関係もない単なる営業として働いた後、この障害支援室のヒラ職員として10年働き、つい最近、僕が入学するほんの4ヶ月前に室長へ昇格しただけらしい。なんということや。一応「なんちゃらCollegeで高等教育障害のCertificateを取得」とさらっと書いてあるけど、Collegeで取得するCertificateなんてほんま知れてる。室長とかやるために、心理士とかの、ちゃんと協会によって認証されてる資格を持ってなくてどうすんねや。専門資格もないまま、ただ10年経験があるというだけで権限ある地位に昇格して自信をつけて、それで勝手に思い込みで人を判断してその人を貶める。そしてその人の人生を変えてしまうんや。はぁ。なんでもっと早くググらんかったんやろう。まぁ、ググっててもどうしようもなかったけど。

面談で疑われ障害認定が降りないと言われ、それへの返答で「これが障害認定もらえなかったら、どうやっても勉強を続けることは不可能やから、大学を辞めます」と大声で言った時に、この人が「まぁそうパニックにならなくていいよ」と、人を完全に舐め腐ったように鼻で笑った様子を、一生忘れへん。

この人に復讐をしたくて復讐をしたくて、心がどんよりとその執念に覆われてしまってる。言葉の暴力でこいつをズタズタに傷つけてやりたい。

 

学科の教員の方も、ほんまに文字通りカスの人間やった。自分が正しいことを微塵も疑わず、その価値判断から相手を見下し、相手の視点を理解しようとすることは決してない。こちらが苦しんでるのは正にお前自身の言動のせいやのに、なにか客観的な問題があってそれを解決しようとしているかのように、心ない言葉を吐き続ける。そして問題が解決できないままであるのを、こちらの至らなさ故やとみなして、こちらを見下すだけでは飽き足らず、無能力者であるこちらを憐れんで見せた。こいつに対しても、言葉の暴力でズタズタに復讐してやりたい気持ちでいっぱいや。

 

アメリカのエリート社会や勝ち組の人間の社会っていうのは、突き詰めればこういう不条理によって均衡を保ってるんやろうと、肌に感じて確信した。勝った者が、勝ったというその事実そのものを根拠にして自らルールを設定する。それからはみ出たり違う考えを持った人間に対しては、自分が勝者やという事実そのものを理由にして「失敗」「敗者」として見下し、そして憐れむ。敗者に仕立て上げられた人間は、敗者であるという事実それ自体を根拠として発言権を剥奪され闇に消えていき、したがって勝者が勝者であるという事実には何の変更も加えられないし、それどころか、ますます強固なものになる。

何よりも下劣なのが、勝ち残ってる本人たちが、自分たちは間違ったことをしていないと心の底からピュアに信じきっていることや。それを信じきっている限り、どんな摘発があろうとも天真爛漫に全力で自分たちを擁護できるし、それに感動して支持する人間も現れる。そうして結果的に出る判決というのは、そもそもが勝ち組の人間たちが設定した論理やルールに基づいているだけのものやから、そもそも自分たちに有利なわけやけど、そんな有利さなど存在を否定しているというのが勝ち組たる所以なわけやから、結果的に下された判決によって自分たちの正しさが証明されたといってますます声高に正当性を主張し、信じ、周囲の人へ強要する。

正当性を自分で作り出し、その正当性によって自分の正当性を証明する。全くの下劣な循環論法なわけやけど、これが、まさにアメリカで昔も、今も、そしてこれからも起きていることなんに違いない。トランプを見ればわかるでしょう。

戦後の日本は親アメリカでやってきたから、こんな過激なことを言っても流行らへんことは間違いない。でもぜったいその通りやと、心の底から確信してる。こんな国が世界の最大勢力になってしまっているこの地球という社会は、ほんまに不幸な場所やというか、そんな国やからこそ世界の最大勢力になれたんやというか、もう何と言ってもとにかく嘆かわしい。

たった数ヶ月アメリカに暮らしただけでこんだけ憎悪の感情を植え付けてくれる国なんやから、どんな形であれこの国の論理に接したことのあるビジネスマン、社会運動家、兵士、学生、等等いろんな集団の中から、その論理体系を象徴する「文明」みたいな抽象的な概念を相手取って具体的な報復行動に出てしまう人が生まれるのも、全くもって理解できる。自分は例の障害支援室長を刺殺しにはいかないし、テロを起こすことが正当化されるわけじゃないけども、実際にそういう事件を無数に生んでしまって余りあるほどの不条理が、どう目を瞑ってもそこに見えてしまっている。全くほんまに、嘆くしかない。

ノートを取る困難

夢を見た。久しぶりに、ありありと記憶に残る鮮明な夢。とはいえその大部分はすでに忘れた。1シーンだけはっきり覚えている。

教室に座って、教師が講義をしながら黒板に板書をしている。講義は発達障害について。縦書きで右から左に書き進んでいく黒板に対し、自分のノートは左から右に進む。講義の内容は興味深くて、勉強になる。話に聞き入り、ふと気づくとまだ書き写していない板書がかなり溜まっている。大急ぎで書き写す。書き写し終わったと思ったら、講義はさらに前に進んでいて、新たにたくさんの分量の板書が溜まっている。話を聞こうとするとノートが取れず、ノートを取っていると話が聞けない。ノートを取ることに精一杯で必死になる。そのうち、右から左に進む板書と左から右に進む板書との間で頭が混乱してくる。

こんな夢を見て初めて思い出したけど、そういえば中学高校の時以来、ノートを取るのがすごく苦手やった。話を聞くこととノートを取ることが同時にできない。聞くことに集中しても100%は分からないし、それに全部を記憶しておくことはできないので、次善の策としてノート取りに集中する。話は、耳に入ったところだけ聞き、追いかけられない箇所は無視してノート取りに徹する。後で見返して勉強しよう、と思ってそうやるので、授業中にその場で理解して覚える人と比べて効率が悪い。

しかもノート取りそれ自体も、ものを右から左へ書き写すことが苦手やったのを思い出した。一度に覚えられる言葉の量が少なく、細切れになんども見返してチマチマとしか進めない。間違い探しをしている人みたいに、首を縦に振って黒板とノートを延々と見比べ続け、一語ずつ書き写していく。

ノートのレイアウトも、特徴があった。これは、板書から書き写すのではなく空中に浮いている話や状況をメモに取るような状況で特に顕著で、大学の時から顕現していたが、特に会社で働いた時に他人と比べて気づいた。余白を極めて大きく取り、インデントを何段にも積み重ねて、大きな文字で書く。B5のノート1ページに、下手をすると5行くらいしか書かない場合すらある。メモ帳のような小さなスペースにはノートが取れない。たまに、小さなメモ帳にびっしり、罫線に沿ってずらっとノートを書いている人を見かけたが、あれは絶対に無理。そういうびっしりのノートは、英語圏では特に普通やったように見えた。自分みたいなノートは日本では他にもやってる人を見たことがあるけど、英語圏では見たことがない。ベトナムでも、人のノートはびっしりやった。

これもやっぱり、言語を言語として理解する(びっしり書く)のと、視覚的に理解する(レイアウトこそ命)のとの違いなんちゃうやろうか。英語もベトナム語も、表音文字で成り立ってる言語の話者においては、視覚的に理解する人がずっと稀なはずや。

こんなこと、ほとんど意識したことがなくて忘れたけど、夢を見て思いだした。こんなところにも、自閉症的傾向が表れている。

憎悪

例の教員への憎悪が渦巻いてる。

人種差別者であり、自分の視点のみから相手をジャッジしていながら同時に自分の判断には微塵の疑義も挟まず、そしてその視点から相手を一方的に見下し、攻撃すると同時に、憐れむ。見下しているからこそ、相手には発言権を与えずまたそのことを正当と見做して疑わない。全てが、自分の考えから始まり、自分の考えによって自分を正当化し、自分の考えへと結論し、自分を満足させて終わる。その過程のすべてのステップにおいて相手は、道具として使われる。そこには相手の枠組みも、論理も、人格も、そして尊厳も、存在するスペースを許されていない。単なる失敗作として、低評価と批判と憐れみの対象になる。

そんな例の教員への憎悪が渦巻いてる。自分の中に、溢れる寸前まで満ちている。ややもすると溢れてしまって、具体的な復讐の行動を取る衝動にかられ、実際の行動の計画を考えてしまい、その思考から逃れられない。

なんでここまで憎しんで、忘れられへんねやろう。なんで、今立ってるところから前のことを考える代わりに、後ろのことを振り返って延々と憎悪に取り憑かれてしまうんやろう。

正当化、または後悔の念につけるクスリ

気持ちを整理するために、またここを使わせてもらう。

周期性なく時折、大学院を辞めたことが良かったのかどうかという疑問が、むくむくと蘇ってくる。絶対的に正しい判断というのがあるわけじゃないから、常に、理由を並べ立てて自分を納得させるか、説得に失敗して後悔の念に苛まれるか、どちらかになる。

辞めた直接的な理由は、まず精神的な健康状態が耐えられない(耐えるべきじゃない?)くらい悪かったこと。勉強のことを考えるだけで、胸が締め付けられるように苦しかった。とりあえず一旦勉強のことを考えないようにして、映画を見て過ごそう、と思っていたら、そうやっているうちに何週間も経ってしまっていた。基本的に休みの日が存在できないくらいキツキツの大学院生活では、何週間も何もしないというのは、ほぼそのまま落伍を意味する。何週間も何もできないくらい精神状態が悪くなってしまった理由は、まず第一に教員と障害支援室の悪魔的な猜疑・冷酷さのため、そして第二に、そもそも読書が全く話にならへんくらい追い付かへん(かつ、そのためにクラスの議論にもついていけへん)かったことから来たプレッシャー。

万一障害の認定を受けられたら、教員と障害支援室からの猜疑も取り払われるし、特別措置も可能やったかも知らん。大学の近くにあった心理学センターはその「障害」を審査できひんかったけど、いま自閉症の本を読んでいる限りでは、日本でちゃんとした専門家にかかれば自閉症スペクトラムの診断を得られたかも知らんと感じる。たとえば休学して日本に一時帰国して、日本の専門家に掛かり直せば、そういうことが可能やったかも知らん。

ただ、これには実務的な障壁と根本的な問題があると思う。実務的には、休学は最低1学期をちゃんとこなした学生にしか(少なくとも原則では)認められず、その1学期をこなすための学期末課題に(上述のとおり)全く手をつけられなかったんであるから、休学の申請をすることが難しかった。これは大学側に打診したわけではないから、もしかしてもしかしたら例外的に休学が認めらた可能性はゼロではないけど、でも判断主体になるべき学科長があの有様(あの手この手で蹴落とそうとする)やから、そんな情状的な考慮はされへんかったやろう。

そしてそもそも論として、万一、仮に猜疑も晴れて特別措置が取られたとしても、英語で勉強する限りは、読むのが他人の10倍遅いことそれ自体はそう簡単には改善しないやろう。日本語ですら、中学生の頃から意識的に速く読むように努めてきて、少しずつ少しずつ速くなってきたに過ぎない。優に10年くらいはかかっている。仮に特別措置があったとしても、ギリギリの仕事量を強いプレッシャーの下で3年間こなし続けないといけないことになる。これは、極度の苦痛やと思う。生まれ持った(?)困難さを押して、苦痛に耐えて努力することは、良いのかどうか、必要なのかどうか。少なくともこれまではやってきた訳やけど、そもそもその考え方を、見直すのがいいんじゃないか。

これには答えがない。広告会社や、戦略コンサルや、金融業で働いている人たちは、事実、そういう極度の苦痛を耐えてるのかもしれない。内面的な経験の問題やから、どれくらいの苦痛なのか、どっちの方が苦痛なのか、という比較はできない。他人と比べても、分からない。自分一人で、自分の心に問うて、判断するしかない。

自分の能力・不能力をうまく活かす生き方というのが、アメリカで大学院に行くこと以外に存在しているかもしらん。どういう基準で「うまく活かす」と呼ぶのか、それもまた極度に難しい。どれくらい苦しい道のりなのかだけじゃなくて、好みかどうか、楽しいかどうか、その道で目指せる達成レベルはどれくらいか、社会貢献の質とレベルは、経済的安定はどうか、それから、仕事以外の人生の要素との兼ね合い(家族や住む場所や気候や友人ネットワーク)、そういったもんを複合的に考える必要がある。

そういう複合的な、ほかの要素との兼ね合いのもとで、アメリカの大学院で学ぶ苦痛を考えた時に、どういう判断ができるか。勉強はやっぱりしたいけど、それだけを言うなら日本でやれば良い。日本語の方が圧倒的にハンデが小さい。アメリカで給料もらいながら博士課程をやるのと比べて日本では経済的に苦しくなるけど、幸い実家から京大には通えるし、日本にも学振制度がある。一方で、今後日本の外に住む可能性を考慮した場合、日本の学位よりもアメリカの学位の方が圧倒的に有利やろう。しかしそれも、日本の外に住んでかつ大学の職を求める場合というのは、自分一人で生計を立て貯蓄もするという訳ではない特定の状況のもとでしか、起きひんやろうから、だから日本の学位しか持っていないとしてもクリティカルではない。そもそも万一東南アジアの大学で職を求めるなら、日本の学位で十分やし。日本の外で、大学以外の職を求める場合は、そもそも人類学を勉強した時点で学位の出所はあんまり関係ないやろう。

つまり日本でやり直せば、勉強して生計を立てるっていう自分の望みも(相対的に)現実性があると同時に、それによって(アメリカでやるのと比べた場合に)犠牲にするものも、実はそこまで甚大ではない。アメリカでやるのは、あくまで付加価値といった感じか。入学も認められて給料までもらえる程度の(本来的な?)実力をもっていて、その付加価値を発揮できるはずやったのに、これを諦めざるを得ないというのは、どこまでいっても残念ではあるけど。でも人生、失敗や挫折があってなんぼやろう、きっとそういうことなんやろう。

翻ってそもそも、大学で勉強することが自分にとって良いことなのかどうか。これは極論やけど、まず勉強は自分でもできる。確かに、大学院に入り直した時は「やっぱり制度として押し付けられる課題や、歩くべきレールがあると、効率がいいなぁ」と思ったのは事実。でも今から振り返ってみればそれは逆に、自分らしい勉強ができひんということであり、そして、自分は特殊性を持った個人であるがために自分らしい勉強というのがとても必要なんじゃないか。

そして次に、研究を自分の生業にしていくのならば、読むのが遅いという特殊性にともなう苦痛は、一生ついて回る。仮にこれが克服が難しい困難なのであれば、その道を目指すことは、自分を苦しめ続けるだけなんじゃないか。読むのが遅いだけじゃなくて、抽象的な言葉は理解に苦しむ、という事実もある。一方で、以前からずっと書いているように、自分には、本を読むことよりも得意なことが多くある。苦手なことを選んで、苦しみながら楽しむよりは、得意なことを選んで、気持ちよく楽しんだ方がいいんじゃないか。

さらに極め付けは、研究職を目指していた理由は、(1)勉強できて楽しい、(2)本を書いて世に問える、のふたつであって、正直なところ「研究」それ自体がしたい訳ではなかった。一般的な考え方として(1)と(2)のふたつを総合して「研究」と呼ぶのだ、ということなのかもしれないけれど、いずれにしても、自分にとってはその二つが個別の活動として重要なんです。勉強するなら、人類学に限らず興味のあるテーマ・分野は幅広いし、本を書いて世に問うなら、学会に閉じられた研究書よりは一般向けの本を書きたい。二つが繋がっていれば、互いへのフィードバックとして効果的ではあるけど、自分の満足を満たす活動としてそのリンケージが必須であるわけではない。しかし実際上の仕事を選ぶにあたっては、この二つをうまく執り持ちつつ成立する生業として、研究職が一番ベターかな、と思ったんです。

 

さてそんなふうに考えて、辞めたことを正当化していくと、大まかに言って2つの選択肢が浮かび上がってくる。ひとつは日本の大学院に入り直すこと。もうひとつは、自分が「気持ちよく楽しめる」全く別の職業を探し出すこと。前者は、アメリカよりマシとは言えやはり少しの苦痛を何とかマネージするべきやろうという発想。後者は、普通に世の中に転がっている職業の中からは見つからんやろうから、一発大博打みたいなもので、道無き道を自分で作り出す必要があるんじゃないか。

 

こうやって整理するとまた少し落ち着いた。これにより引き続き、自閉症についての本を読んで、自分の特徴について理解を深めていかんとするわけです。

人の気持ちがわかる事、分からない事、分からない結果として超絶わかるようになってしまった事

「人とのコミュニケーションが苦手。」

「どこがや。むしろダントツやわ。」

 

という会話を、これまでの人生で何回繰り返したか知らない。もちろん自分は、1行目のセリフを言う役。

しかしそんな会話をしながら、なんでコミュニケーションが苦手なのか、それが自分にはなかなかピンとこなかった。何か、コミュニケーションのエッセンスのようなものが、自分から欠けている。それはもしかすると、人間の人間たる所以の欠落、もしくはその一部分の欠損ではないのか、という気すらしてくる。しかし説明できない。

自分でもわからないので、相手に通じなくても文句は言えない。まるで存在しない問題に対して不平を並べ立てているかのように誤解され、無言の誹りが充満する。それを無言で耐えながら、それ以上どう説明のしようもなく会話は尻切れトンボに弱く、細くなっていく。《そう言うなら、説明してよ。》という無言の声は、《説明してくれないと分からない。》に変わり、そしてすぐに《分からせてくれないなら、存在しないと同じになってしまう。》へと変わる。自分自身は、これまた無言で《うまく説明できないけど、それはほんまや。》と言い、《説明できひんかったら、どうせ信じてくれへん。》と言い、そのまますぐに《こうやって、自分はまたコミュニケーションがうまい人ってことになるんや。誰もわかってくれない、誰にも伝えられない。》と言う。

そういう無言のやりとりが何回も繰り返された。それを繰り返した回数だけますます、自分はコミュニケーションが下手やという絶大な信頼は、より強固になった。それと同時に、コミュニケーションが上手いのに下手なつもりでいる変な人、という周囲からの懐疑も、ますます膨らんだ。

アメリカの大学院を諦める直接的な原因となった極端に遅い読書スピードと、それと関わっているように思えてきた人生の様々な(些細な)経験とについて前回書き、いろんな友達からアイディアを貰ったところ、その中にひとり「自閉症では」と言った人がいた。自閉症について書いたウェブサイトや本を読んでいると、確かにこれは、自分のことを書いているみたいや。ただし日常生活が送れないような深刻な自閉症とは違って、あれや、これや、自閉症者に見られる細かな症状が、それぞれ程度を落として自分の生活にこっそり(でも至る所に)出現している。いわば、自閉症のミニチュア版みたい。専門的にはおそらく、「非障害性の」自閉症スペクトラムと呼ぶんやろう。

そもそも「自閉症」というのは、専門的には既に廃止された用語らしい。いまは「自閉症スペクトラム障害」という。紫から赤までの色とりどりを纏めて「虹」と呼ぶように、自閉症スペクトラム障害にも色んなのがある。しかもややこしいことには、例えば「虹の中に橙色はあるのか」問題のように、内側での症状の区別や定義が定まっていないということ。さらにいえば、赤の外と紫の外にも、人間の目に見えていないだけであって、赤外線と紫外線がある。自閉症スペクトラムもそれと同じく、たまたま見える症状と、気づかない症状との間には、恣意的な区別しかない。そして最終的には、虹って結局、地球上に満ち満ちている「光」というものが、ちょっとした加減で特別なモノのように見えただけですよね、結局それは光そのものなんですよね、みたいな話になる。自閉症スペクトラム障害も、じつは人間の本性そのものがちょっと違った形で見えているだけなんじゃないか、という考え方が出てくる。

 

そういうわけで、フェイスブックのコメントで色んな人がさんざん「それは私も同じよ」「程度問題なんじゃないか」「だれしもそんな感覚を持って暮らしてるんじゃないか」と書き残して言ったのは、ごくごく理解できることであり、そして正しいことなんやと思う。

しかし、それは正しいことであり、同時に、正しくないんです。これはちょっと難解です。一つ一つの症状を取って見た場合、たしかにそれは「程度問題」に過ぎず、多くの人に共有されている「問題」かもしらん。でも色んな症状を総合して考えたり、また本人が生活する上で不便や苦痛を感じているかどうか、それの程度はどれくらいか、といったことを考慮し始めた時に、自閉症スペクトラム障害の射程に入る人と、入らない人とが分離し始める。

自分自身の場合、精神科の診察を受けたとしても、自閉症スペクトラム障害の診断が与えられない可能性は十分にある。なぜなら、日常生活に支障をきたしている程度が、そこまで大きくないから。しかし、何をもって「日常生活に支障をきたしている」と定義するのか。自分にとっては、支障をきたすギリギリの場面がしょっちゅうあるし、少なくともヒヤヒヤしたり失敗して後悔したりする苦痛は間違いなく存在している。それを「気にしすぎ」と呼ぶ人は、もちろんいるやろう。そこはもう、医者の判断次第なのでなんとも言えない。でも何であれ、自分にとってこれはもはや明確に、スペクトラムに掠っているか、内側です。虹で言うと、赤外線と赤色の境目ぐらい。「んーー、あそこは赤か??いやぁぁー、んー、難しいぃぃ、わからん!!全く透明と断言する自信はあんまりない。まぁギリギリ赤やろ」ぐらい。

 

前回の投稿の中でもとりわけ、「人の気持ちがわかってしまう」件が、人々の心中に有声無声の波紋を広げたことでしょう。《これは本気ではないやろう》《筆の勢いが余ってここまで書いちゃうのも、まぁ状況が状況なので同情してあげる》《いやまてよ、そんなこともあるんかな、いやないやろう、いやどうなんやろう》《人の気持ちがわかったつもりでいる。どんだけLOVE & PEACEやねん》とか、人々は思ったことでしょう。

あれから自閉症についての本を読んでさらに考えた今となっては、もっと正確に書けそうです。

混乱させてしまいますが、まず僕は、人の気持ちが、全然わからないんです。始まりはこれです。

自閉症の本を読んで初めて知ったんですが、世の中の人は普通、互いに何となく相手の気持ちを感じ取れるものらしいですね。しかしそれはどこまでいっても「何となく」であり、もちろん最終的には「他者は他者」なんでしょうけど、でも出発点には常に「共感」がある。のですか?そうなんですか?

「そうなんですか?」と言われても、そうとも違うとも答えられないでしょう。これが、難しいポイントです。でも僕の経験的には、人々は「常識的に」相手が嫌がる「であろう」ことはしない(ことになっている)し、相手の「気持ち」を考慮に入れてどんなことを言うべきで言わないべきかを、ごく「普通に」知っているようです。よね。そうなんでしょう?

もちろんどんな人も間違って相手を傷つけるし、顰蹙を買うこともある。が、僕から見るとみんなは、それを避けるための天性の才能を持っているように見えます。僕にはそれができない。この能力を、仮に「直観」と呼ぶことにしましょう。ぼくはこの「直観」が無いです。もしくは弱いです。

直観が無いとどうなるか。相手と話をしている時に、自然にわかってしまうはずの相手の気持ちがわからない。コミュニケーションというものが、その直観能力を前提として成り立っているとすると、このときコミュニケーションは破綻します。しかし僕は破綻したコミュニケーションを見ると、それが破綻しているとわかります。それは気持ちの問題ではなく、ものが正常に動いているか壊れているかの問題だからです。

おそらく自分のせいでコミュニケーションが破綻したのを見るのは、辛くて、嫌なので、避けたいです。人間には、直観能力の他に、知性・知的能力がある。知性とはつまり、観察して、演繹して、帰納して、結論して、応用する力のことです。この知性については、幸いに僕は欠落していなかった。むしろ、平均より優れているかもしれません。直観がなく、(高い)知的能力だけあるとき、もちろん問題を知的能力で解決しようとします。

人の感情と行動との間には、大抵ある程度のリンクがあります。怒った時は怒った顔をするし、嬉しい時は嬉しい顔をする。これは突き詰めていけば、もっともっと微妙な感情や些細な表情についても言える。でもそれはすごく微妙で読み取りが難しいので、普通の人はそんな微妙な感情と些細な表情の変化との間の相関については、特段の注意を払わないんやと思います。そのかわりに普通の人は、ごく常識的な、直観的な共感能力に従ってれば、相手の感情が何と無く想像できるし、それ以上立ち入った深く正確な共感というのは不要なんでしょうきっと。しかし僕にはその必要がある。直観がないから。

どんな知的技能もそうであるように、相手の感情をその行動や表情から読み取る技能は、訓練で向上します。普通はその訓練をする前に直観に頼ってしまうから、訓練するのが難しいんじゃないかな。僕は直観がなかったおかげで、生きること(社会的に生きること)が、その訓練をすることと一体になったと思う。

しかしその訓練と実践は、疲れます。相手の声のトーンが少し変わるだけでそこに感情を読み取ろうとする。語彙が少し変わるだけで何かを読み取ろうとする。声の大きさが変わるだけで。口角が少し上がっているだけで、少し下がっているだけで。目が少し見開かれるだけで。左手の指で右手の指を触っているだけで。姿勢の傾きが少しいつもと違うだけで。これらの観察と読み取りには、正解はひとつではない。答え合わせも、ほとんどの場合できない。 無限に観察を続け、無限に自問し続け、無限に仮説検証を試み続ける。そして正解やったと思えるごとに喜び、間違っていたと思えるごとに(そのために引き起こされた実際上の失敗とともに)落ち込む。

そしてこの技術は常に、現実に対して後追いです。事前に感情を予期することはできず、既にそこに生起している感情を事後的に読み取ることしかできない。したがって、どれだけこの技術が長じても、依然として顰蹙は買うし、かつ顰蹙を買ったことは自分の目がありありと察知する。その結果、失敗に落ち込む。

僕が「コミュニケーションが苦手」というときの「苦手」の意味は、もっと突き詰めれば、「果てしなく疲れるのに、結局最後はよくわからんで終わるし、そしてよく失敗を叩きつけられる。こんなこと、何故しなあかんの」ということやと思う。

しかし、果てしなく疲れながらも終わりのない仮説検証を繰り返し自分を訓練した結果、本当に微細な表面上の様子から、相手の気持ちがかなりの程度わかるんです。 そしてその「わかる」程度は、たぶん既に、普通の人たちが直観によって「わかる」程度を凌駕していると思います。だから、前回の投稿で書いたように、「相手の気持ちが手に取るようにわかってしまう」んです。前回投稿執筆時点では、こんな仕組みについて、これっぽっちも理解してませんでした。その後勉強して、わかりました。

成果としては対戦相手を凌駕していても、その仮説検証は終わることがないんですよね。何故なら、直観能力で気持ちが普通にわかってしまう時のような、「腑に落ちる」感覚がないから。だから僕のその「超能力」は、これからも進化を続けます。しかしどこまで進化を続けても、疲れるし、「やっぱりよくわからん」という最終的な結論はいつまでも変わらない。このことを、できれば周囲の人には知ってほしいと思っています。

 

ちなみに、学習能力検査で視覚的な認知能力が非常に高かったのは、これと関係してると思います。因果関係はどちらが先かわからないけど、あえて言えば相互のフィードバックやと思う。目で見て理解する能力が高かったからこそ、コミュニケーション能力の欠落についてそういう補い方が可能になり、そういう補い方が必要やったからこそ、目で見て理解する能力が研ぎ澄まされたんじゃないかな。

そして読書スピードが(特に英語で)遅いのは、このことの副産物という側面があると思う。視覚的な認知能力が高いから、ついそれに頼ってしまう。表意文字なら視覚的な文字が意味になり、表音文字なら、意味をまず視覚的イメージに変換して、その視覚的イメージを見ることで意味を理解する。28年間それでやってきた結果、もはやそういう読み方しかできひん。

他の人がどういうふうにものを読んでるのかは未だによく分からないんですが、おそらく、言語的な意味をそのまま言語的に理解してる(というか、それが出来る)んじゃないんですか。情景やシーンを描いた物語のような文章なら、その情景を思い浮かべるという意味で、僕も他人とそんなにプロセス・速度が変わらないと思います。が、抽象的な言葉や議論になると、僕と他人とでは読むプロセス・速度が異なってくるみたいです。僕は言語を、視覚的な図とか図形とか形とか空間模型とかに変換しているように思う。そのためにいちいち時間がかかる。いろんな人に聞きまわっている限りでは、どうもこれは特殊なことみたい。普通は、言語を言語的にそのまま(ってどういうことなのか不明やけど)理解しているよう。

しかしまだよく分からないことはいくつか残ってる。

 

1.自分自身も、英語と日本語では明らかに文字情報の処理プロセスが異なってる。日本語で読む場合は、視覚的な文字情報がそのまま意味に繋がってる感じがする。だから、その処理方法が他の人の読む方法と異なっているのかどうか、よく分からん。周りの人に聞いて回ったのは基本的に日本人なので、英語で読む場合に皆がどうやってるのかについては、正確には分かっていません。もし、英語運用をすごく訓練したか、あるいは日常的に行なっているような、「英語は自分自身の一部ですよ」という人がこれを読んでいれば、是非訊いてみたいです。

 

2.人とのコミュニケーションにおいて「直観」が働かないことは、文字情報を読むときに「言語的」処理が働かないことと、関係してるんやろうか。

ここで皆に訊いてみたいのは、人の気持ちをなんとなく直観的に想像したり理解する(「わかる」)ときの処理プロセスは、言語的ですか。分かるために言語を使っていますか。

「言語をつかう」というのが具体的に何を意味しているのか、と逆に問われそうですが、それは僕には分からないんです。なぜなら僕は言語を使って何かを理解することが、(たぶん)皆無だから。自分ではしたことがない行為・できない行為について理解を深めようとしているんです、なので「その行為というのが何の事を指しているのか分からんから、もう少し説明してくれ」と言われても、「いや、それを訊いてるんです」としか答えようがない。

 

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